二十八ノ怪
わたしの足は動けなかった。
目の前の悲惨な姿にどうすることも出来なかった。
これがいつか来るべき自分の姿。
幽霊の様に長い黒髪は乱れ、ほぼ身に巻き付いているだけの状態になっている肌着から見える体は全身痩せこけていた。それに追い打ちをかけるように、首や腕に鬱血した跡が散りばめられている。
「あ、わ……わ、わた、し……の」
『鈴音の未来よ』
足元から畳の上に崩れ落ちた。
これがこの先に自分が起きる未来だというの。これを、わたしは受け入れて……生きていかなければいけない?
『耐えられるの? それとも逃げるの?』
「逃げない!」
彼女はわたしの動揺ぶりに問いかけたのか。わたしは反射的に金切り声で叫んでいた。
逃げるだなんて。それだけは強く否定する。
だってもうその選択肢だけは選ばないと、わたしは決めたんだもの。何があっても、絶対に、それだけは……
『でも耐えられない。そうでしょう?』
彼女の言葉に押し黙った。返すことができない。
目の前の惨状にも打ちのめされているのに、これが自分の身に起きるというのなら、もう……わたしは……
『また明るい部屋へ戻って。鬼様の相手をしている間だけで良いから』
「待って」
諭す声を遮って絞り出す。
正直まだ頭がまともに働いていないのだけれど、わたしはなんとか声を絞り出した。
「鬼さんはわたし達の違いを知っているみたい。わたしが身代わりを作って寄越したと怒っていた」
鬼さんはわたしが頭がおかしくなったふりして、自分の身代わりのようなものを作り、鬼さんの相手をさせていたと言っていた。
今思えば体はわたしであったとしても、鬼さんは納得できなかったのかな。
「だからあなたが……もしまた、鬼さんの前に現れてしまったら、きっとタダでは済まないと思う」
『鬼様がそう仰っても、鈴音でもある雀には手打ちはなさらない』
それはどうだろう。
鬼さんのあの怒りようからしたら、殺すまではしないとしても、過去足を取ろうとしていたことを考えると、相当酷い目に遭わされる可能性は否定できない。
だいたい自分の体が痛めつけられて、次に目が覚めた時に体のどこかが欠けていたなんて事になったら。
それこそ耐えられない。
「やっぱり、だ、ダメ、だよ。だってほら、その……今なら、なんとかなっているし……」
『本当にそう思っているの?』
突き放したか細い声が髪の向こう側から聞こえた。
自分の心を見透かされたようで目が泳いでしまうが、わたしは首を振ると彼女を見た。
「今は……だい、じょうぶ、だから……」
『鬼様がいつまでも触れずに、お側に置き続けると思う?』
ぼそぼそと話している彼女を見ていると、自分が死んで怨霊になったら、こうなってしまうのだろうかと思えてしまう。
冷えた指先で嫌な汗を拭うと、わたしはまた口を開いた。
「だけど! だけどまた元に戻ったら、あなたは今の状態になるんでしょう? それに結局自分の体がそうなるだなんて、やっぱり嫌だ」
『なら聞くけれど。あなたは自分が醒めている状態で鬼様の相手をするのと、目覚めている時に全てが終わっているの。どちらを選ぶの?』
自分の声に畳み掛けるように言われた。
その鋭い口調に思わず体が強張る。
「それは……」
どちらも選びたくない。その内のどれかを選んでも、自分が正気でいられる自信はない。
そもそも自分は鬼さんとはそんな関係になりたくないのだ。もっと違う道があったって良いはずなのに。どうしてこんな……
答えられずに黙っていると、籠の中でのそりと垂れ下がった髪が動いた。
『あなたは私達を守って』
やつれた様子で、優しく囁かれる。いま会話しているの中で、一番柔らかい声音だった。
目を見開いて雀を見る。
「あなたは……わたし?」
『私は鬼様の雀。鬼の雀なの』
顎を上げたせいで髪の間から口元が覗く。
遠くてよく見えないけれど、カサカサに乾いて色も悪い。これが自分の未来の姿なのか。そう思うだけで寒気がした。
尻込みしているわたしに、また深い溜息が聞こえてきた。
『鈴音のあなたは光のある場所で心を守って。そうでなければ……壊れてしまう』
この子は何が何でも自分の役目を果たそうとしている。
鬼さんが以前言っていたように、この子はわたしの常闇の部分。本来なら染まるはずの精神を、この子が存在することによってわたしは闇に染まらずに済んでいた。
「あなたは……わたしから生まれた経緯を知っているの?」
蔑みつつもずっと現れた時から、わたしを闇から遠ざけようとして、自分が苦痛を引き受けようとしていた。
実際、わたしが知らない間に酷い目に遭っていたみたいだし。
この子はどうして自分が存在する事になってしまったのか、その切っ掛けのような物をわたしは知らない。
『雀は元は鈴音だもの。知っている。……あなたは知らないの?』
「よく分からない」
今のところぼんやりとした憶測しか把握できていない。しかもそれが合っているのかどうかも、分からないのだ。
「ある日いきなり鬼さんに、あの茶室のある場所に連れてこられて、ここで過ごせと言われて。それであなたがわたしの常闇の部分ということはなんとなく知っているくらいで。……それ以外の詳しいことは、全然」
わたしが思い当たるとしたらあの日ぐらいだ。おかしくなったのは。
鬼さんに茶室に連れてこられたあの日。あそこからおかしくなったんだ。
『……そう知らないの。それなら……話してあげる』
血の気のない乾いた唇が、ゆっくり動く。
それからまた俯いて、わたしへ促すように手の平を上にして伸ばした。
わたしは頷くと、尻餅をしていた状態から姿勢を直した。
籠の格子越しに対峙する自分。状態は違うけれど、紛れもなく自分と同じ顔をした人物と、真正面に向き合った。
・・・・・・・・・・・・・・・
鬼に迫られ、その度に拒絶し、そしてそのあとは必ず責められた。
しかしこのままでは、常闇では、鬼の下では生きてはいけないと無意識に感じていた。
毎日毎日、侵食されていく心と精神。焦りと不安に怯えて、退魔の剣に縋り続けていた。
鬼様が許してくれたと言い聞かせて。
そして常闇にそまったあなたである闇は、一度は強い退魔の光で瞳から去ったとしても、心の内側へ逃げ込んで潜み続けていた。
けれど、何度常闇の闇を受け続けても、わたしがまた瞳に戻ることはなかった。
常闇の存在である闇はともかく、光を求める自分は鬼さまを拒絶し続けて退魔の光を浴び続ける。
それによってなす術のない闇は、退魔の光により傷つけられた。
あなたも無意識に傷ついていたはず。
たとえ自覚がなくとも。
痛くて苦しい。これでは長くもたない。いつかは心を失い壊れて終わってしまう。
幾日経った頃か。
瞳から追われた闇は鬼様が直に発する妖気を取り込み続け、なんとか自身の存在を保ち続けることが出来た。
常闇の闇だけでは到底足りず、鬼様の妖気がなければ私はとうに消えていた。
程度妖気を得た私は、退魔の剣を使う際に、僅かに残った自分の奥底にある常闇に逃げ込み続けた。
それが毎日。毎日続いた。
そしてあの日。紅い鬼様に口付けされた時に多くの妖気を得て、自分の怯えを一心に受け止めようとした時だった。
ただ身を潜める存在でしかなかった闇は、瞳ではなく表に現れて鬼様の雀として出られた。
代わりにあなたは自心の奥底で眠り、意識を途絶えさせていた。
鬼様は初めて雀となった鈴音を見て、眉を顰めていた。
さっきまで怯えて嫌がっていたのに、突然従順になったものだからさぞ驚いたんでしょう。
それでも鬼様は、やや困惑しながらも、そっとこちらに触れてきた。
でもどうしてか。
不審に思ったのか分からないのだけれど、触れるだけで事を進めようとはしなかった。
何度もその機会はあったのに。鬼様は触れる以上のことはしなかった。
だから自分はすぐにまた内に残る常闇の中に身を潜めた。
せっかく表に出られ守れるようになったのに、鬼様を怒らせて消されてはいけないから。
鬼様はそのあと、鈴音が気が狂れかけているのだと思ったみたい。
鬼様はあなたの言う明るい場所を作り出して、あなたの意識をそこへ繋げた。
ほら、鈴音と紅い鬼様は誓いによって繋がっているから。場所を作り出すことはともかく、あなたをあそこへ連れて行くことは容易だったみたい。
雀は鈴音の意識が体から離れている間でも、あなたの前に現れては忠告し続けた。
バレてはいけないから。
大人しくあの陽のあたる場所でいて、眠り続けて欲しかったから。
でもあなたは予想通りというか……大人しくそこで過ごしてはくれなかった。
そしてどうしてだか、あなたの中にある陽の光りは絶え間なく溢れて、何度かあなたを眠りから覚ました。
おかげで雀が飲み食いをしても良かったのに、あなたは夢現に起きては、きちんと食事をして湯にまで浸かった。
そんなあなたを見て、あの鬼様はとても安心されていたようだった。雀が甘え擦り寄っても、そんな様子など一度として伺えなかったのに。
……ある時、煙々羅の紫さまに詰め寄られた時だった。
あの時はあなたの意識が目を覚ましてしまって中途半端に表へ出てしまったから、なんというか、二人同時に起きてしまったといえば分かりやすいでしょうか。
おかげで錯乱状態になってしまって。思うように動けなくて。
……あの煙々羅の妖には悪いことをしてしまった。思わぬ醜態まで晒してしまって……
でも。まぁそれは良いの。
私は表に出られたときからずっと、あなたは明るい場所で。わたしは暗い籠で過ごすことを望んできた。
ずっとずっと、そうすれば私たちは紅い鬼の傍で、常闇で生きていけるのだから。
・・・・・・・・・・・・・
雀は話し終えると、大きく息を吸って長く吐いた。
呼吸音がヒューと聞こえて苦しそうだ。
『今あなたは起きながらにして眠っている。そしてわたしは鬼さまの力もあって、表へ安易に出る事が出来ない』
真っ黒に垂れた髪から虚ろな視線が注がれる。
ゾッとする反面、優しさも感じられるから不思議な気分になる。この子は闇である自分と、鈴音であるわたしをなんとか生かそうと必死なんだ。
『お願い。鬼様に進言して。また表に出られるように』
「それがあなたの望みなの? 鬼さんに痛めつけられて苦しみを一人で受ける為に意識を――」
『常闇で生きる為の、最後の術なの』
見てと言わんばかりに、籠の中の人影はゆっくり立ち上がった。
着崩れて、見える足や胸元は痣だらけだった。両手足は痩せこけて肌の色も蒼白い。
『こうなっても、あなたは耐えられるの? 生きていけるの?』
ゴクリと生唾を飲み込む。
揺れる視界に、彼女の痣や悲壮さが嫌でも目に映る。
『あなたは過去、耐え切れずに命を絶とうとした。またそんな事が起きてしまっては困る』
わたしは過去一度、首を吊ろうとした事があった。
あれは憑かれていたせいもあったんだと思うけれども、実際にそれだけが原因ではないのは確かだ。
俯くわたしに籠からなおも言葉が掛けられる。
『私は死にたくない。鈴音も死なせたくない。あなたの強い葛藤が私を生み出したんだもの。分かるでしょう?』
自分の両手を見る。
血の通った肌。多少白く見えるけれども、彼女に比べればまだ健康的だ。痣だってない。
「わたしは常闇で生きる決心をした」
『えぇ』
「鬼さんから逃げないと決めた」
『そうね』
「でも……それは、鬼さんの傍に仕えるということで……」
言っているそばから寒々しく感じた。今となってはなんとも虚しい。
沈黙が返ってくるが、わたしは強く目を閉じて開くと前を見た。
「あなたの言うことは分かっている。でも鬼さんが望むものじゃ……わたしは籠の雀なんかじゃないっ」
最後は小さく叫ぶ形で言い放った。
ギュッと握り拳を作ると、着物まで掴んでいたようで、手の中で生地が皺になったのが感じられた。
『でも』
籠からよく通る小さな声が響いた。
『わたしは鬼の雀なの』
自分の目が見開いた。それからゆっくり顔を上げると、籠の中の人物に目を向ける。
「……あなたは誰?」
『私はあなた。鬼の雀なの』




