二十七ノ怪
ブルブル震える両手を下ろして、怖々と顔を上げる。
辺は静まり返り、真っ赤な空間は消えていた。目だけで周囲を見回すと、鬼もマネキンもなく、天井から吊るされていた紐もなくなっていた。
また……幻?
あれだけ散らかっていた床は何も落ちていない。
不安に胸が押し潰されそうになり、知らずに震えていた手で胸元を握り締めた。
あれ? わたしの足元、濡れてない。
自分の足元にあった紅い水溜まりは無く、羽根もなくなっていた。わたし自身も染み一つ落ちた後もなかった。
やっぱり、あれはわたしの見た幻覚なの?
今見たのはわたしの怯えからきたもの……なのかな?
頭がクラクラする。呼吸も浅い。そのせいかまた意識が朦朧とし始めて、ぐにゃりと視界が歪む。
あぁダメだ。しっかりしないと。
気を取り直して部屋の中をよく見てみる。
床の間があり、柱には細かい装飾が施されている。この部屋の作りはやっぱり鬼さんのお屋敷によく似ている。
色鮮やかな色彩が暗い部屋の中でもよく分かるもの。
これといってめぼしい物はない。変わった様子もなかった。
何一つ落ちていないし、家具もない。ただ凝った装飾がある部屋なだけだ。
『チュン』
大きくはないけれど、ハッキリとした雀の鳴き声が部屋に響いた。
素早く部屋に目を走らせると、音もなく襖が開き、暗闇が顔を覗かせる。そしてその中に飛び込んでいく一羽の雀。
「待って!」
走り出そうとして足を踏み出すと、頭が大きく揺れた。
意識も大きくぶれて視界が歪む。でも、ここで立ち止まってはダメ。
軽く両手で頬を叩くと、わたしはまた走り出した。
暗闇と小さな灯りが交互に繰り返されて、廊下が妙に長く感じる。そのせいもあって、どこか別の場所へ続いているようにすら思えてきた。
突然横から蝋燭ではない明かりが漏れた。
一瞬壁が開いたのかと思ったけれど、いつの間にか襖があったようで、それが開いたみたいだった。
息を呑む。中にはさっきみたマネキンがあった。
たださっきとは違って、マネキンの顔には雀の顔が描かれており、関節の節目が見える指には紐が巻かれていた。
マネキンは鮮やかな着物を羽織って、俯いた姿勢で座っている。
どうしよう。よく調べたほうがいいのかな。
何か分かるかもしれない……でも……
中に入ろうかと思ったけれど、羽音が遠ざかっていくのが聞こえて慌てて駆け出した。
この廊下が一本道とは限らない。雀を見失ってしまう。
「ねぇ待って」
走り出してすぐまた襖が開かれた。
もう止まっている暇はない。気にはなるけれど雀の行く先が優先だ。
今度は足を止めずに走り続ける。でも、走り続けるたびに次から次へと左右から襖が勢いよく開かれていく。
なんなの……?
息を切らしながら走り続けて左右を見る。
中にあるマネキンは先ほどと同じ姿勢ばかりのもので、特に変化は…………ん?
いや、微妙に変わっている。手とか俯き加減とか。
もしかして、襖を横切るたびにまるでコマ送りみたいになっているのかな。
疲れてきたのもあって少し速度を落としながら、開いていく襖を見ていく。
注意深く部屋の中を観察していると、次の部屋に行くごとに、やっぱりマネキンの姿勢が少しずつ変わっていっている。
前を飛ぶ雀の後ろ姿に目をやる。
これはこの子がしていることなの? わたしに何を教えたいの?
小走りに襖を見続ける。
最初の紐を持って俯いていたマネキンは、今は羽織を脱いで紐を両手に持っている。
紐を見つめているようだ。
……え! あれって、鬼さん?
次の部屋を見て足を止めそうになる。
今まで一人でいた雀のマネキンの背後から、赤い鬼のお面をつけたマネキンが現れたのだ。
鬼のマネキンは進むにつれて雀に近づくと、その紐を持つ両手を後ろから握って、雀から紐を取り上げた。
そして紐は畳の上に置かれ、鬼の面は俯く雀を抱きしめる。その光景に胸が悪くなって思わず顔が歪んだ。
目を逸らそうと前を見た。
目の前に青白い両腕。膝の上に置かれている、肌着姿のわたしの両手。背中に熱を感じる、自分を抱きしめる赤銅色の逞しい腕。
「鈴音」
耳元で囁かれて、全身が粟立った。
振り払おうとして腕に力を込めたのに、わたしの体はわたしの意思と反して動いてくれない。
「ナァ鈴音。最近お前は時折、驚くくらい大人シイな。何かあったのカ?」
話しかけながらわたしの耳をあま噛みされる。
嫌だっ! 鬼さんやめて! そう叫びたくても心の中でしか出来なくて、眉一つ、指一つ動かない。
膝しか見ていなかった視界が襖へ動く。
そこには少しだけ襖が開かれていて、向こうに紫色のモヤと小さな光る目が二つあった。
助けて!
縋る思いで必死で目で訴えるけれど、襖は静かに閉まった。
一気に絶望的な思いになる。
鬼さんはわたしの首筋に鼻先を押し付けて、髪に顔を埋めている。
「今日は鬼様と言ってくれないのカ」
今日、は? わたしは来たばかりの頃ならともかく、ずっと鬼様だなんて言っていない。
ということは、これは雀の子の記憶?
さっきの幻とか光景も、全部あの子の記憶なの?
「何も話さンのか? サァてどうしたものカ。今日はご機嫌ナナメと見える」
笑いながら呟くと、わたしを抱き上げて膝の上に乗せてきた。
抵抗したくても動けない。これは雀の子が体験した事だとしたら、わたしが自分で動くことは出来ないのかも。
「……お前は何が欲シイんだろうナァ。鬼様と慕ってくれるのも良イが、今のお前はドウも……ドウモ……」
きつく抱きすくめられる。
骨が軋むような感じがあったのに、苦しさも痛みも感じない。
「別ノ人間のようカナ」
どくんと大きく鼓動が鳴った。今まで動いていなかったんじゃないかと錯覚するくらい、強く胸の内を打ったのだ。
「お前を喰ライたいガ……もしお前が鈴音でないとしたナラ……」
ミシミシと背骨や肋が悲鳴を上げる。
首筋に鬼の牙が当たる。
「喰ラワズニ、殺シテヤル」
ぐんと強く意識が引き寄せられる。訳も分からないまま、大きな音を立ててわたしは転んだ。
「痛っ」
打った両手や膝の痛みに呻きながら立ち上がる。
何が起こったって言うんだろう。
「あれ? ここは……」
しんと静まり返った廊下に、わたしはひとり佇んでいた。
遠くの方で蝋燭が灯る以外なにも見当たらない。襖の一枚すら無かった。
「今のは、なんだったんだろう」
口にして呟いてみても、当たり前だけれど誰も答えてくれないし、答えが見つかるわけでもなかった。
けれどもなんとなく、あれが雀の子の記憶なんじゃないかと思えてしまう。
「わたしに知っておいて欲しかったの?」
雀の時のわたしに、鬼さんは感づいていたようだ。
確かに怒り狂っていた時わたしに怒鳴りながら、身代わりを寄越したと言っていた。
でもそのことはもうわたしは知っているわけで、今更こんな嫌な思いをしてまで分かっても、どうして良いのか。
しばらく何も考えられず、例え考えられても答えなんて思い浮かばず。わたしはまた、とぼとぼと歩き出した。
雀の姿はもう見当たらないが、歩く先は一本道で、明かりのある方へ進むしかない。
何度化後ろを振り向いたけれど、背後は蝋燭が消えてしまったのか、暗闇が広がるばかりだった。
わたしはどこに行くんだろう。
どこへ行き着くんだろう。
不安というよりは、疲れというか。早く終わってしまいたい気持ちが強かった。
今自分に起きている現状が、夢でも現実でも幻でも。とにかく終わりが欲しかったのだ。
「あぁ鬼様お慕いしております」
ピタリと足を止める。
今の声は……わたしじゃない。もっと大人の……というか、この媚びた感じは女郎蜘蛛の花魁?
どこから聞こえるのか辺りを見回しても、襖もなければ窓も引き戸もない。
「こんなに強く愛でて下さるのは、貪欲の鬼様だけですわ」
「ほぉ、お前の口からは糸ダケでなく、甘い戯言も出るんダナ」
声は聞こえるけれど、姿が見えない。
あまり聞いてて気分の良い内容じゃない。早く先に進もう。
「最近はお姿をお見せして下さっても、お酒を嗜むばかりで寂しい……今宵のように、私もよくよく味わって下さいな」
なんで聞きたくない話を聞かなければいけないんだか。
さっきの見たものに比べれば幾分マシではあるのだけれど、種類の違う嫌悪感があって胸が悪くなる。
早くここから出ていきたい。
「私の事は最後まで味わってくださいまし。どこぞの小娘のように、口に含んで終わりでなく、きちんと飲み込んで下さいな」
「……アァ、そうだナ。分かっているカナ」
短い悲鳴が聞こえたあと、また静けさが帰ってきた。
今のはなんだろう。意図がよく分からないけれど、鬼さんはずっとあの女郎蜘蛛の花魁と付き合いがあって、それは今も変わらないってことだとね。
でも……それは今のわたしとどう関係しているんだろう。
どうせなら花魁のほうにずっといてくれたらって、何度も思ってきたけれど。でもそれだとわたしは即紅い鬼のお腹に入って、人生終わりという結末しか浮かばない。
鬼さんの好きにされるのは死ぬほど嫌だけれど、実際に殺されそうになったら、わたしは鬼さんに這いつくばって命乞いをするのかな。
好きにしてくれて構わないから、殺さないで。痛めつけないでって。
思わず深く息を吐く。
どちらにしろ、とても嫌な関係だ。長く続くとは思えない。そもそも自分に一度でも耐えられる自信なんてない。
だからこそ、今のこの状態になっているのだから。
『それなら分かってくれる?』
前から突風が吹いてきて髪や裾がなびいた。
腕で目を庇うと、隙間から光が見えた。急な明るさに目を細めて顔を上げると、風が吹く廊下に前から光が溢れている。
『こっちに』
「雀の子、なの?」
『こっちに来て』
「今まで見せてくれたのは、あなたの記憶なの?」
眩しくて前が見えない。わたしは見えない先に向かって声をかける。
でもわたしの問いに返事はなかった。その代わりに風は弱まり、光も失われていった。
「どこに……」
まだチカチカする目を擦りながら前を向く。
そうするとずっと向こうの方に、隠れ鬼をする雀の絵が描かれた襖が見えた。
あれはわたしの……白い籠の部屋。
それを見つめてしばらく立ち尽くしたあと、わたしはゆっくり歩き出した。
今はもう蝋燭は一本もないのに、灰梅があった時のように廊下や襖がよく見える。
一番奥の部屋に、白い籠があるわたしの部屋の前にたどり着く。
改めて襖を見れば、そこにはやはり雀が隠れ鬼をしている絵が描かれていて。
何度も見てきたのに、ついさっきまで使っていたはずなのに。今はすごく久しぶりに感じてしまう。
この中にあの子がいる。
わたしは一度大きく息を吸ってから、引き手に指をかけた。
「ねぇ、いるの?」
声をかけながらゆっくり襖を開く。
中は薄暗くて部屋の端に置かれた灯篭に、小さく明かりが灯っているだけだった。
それでも充分だった。
部屋の中央にいる人物を見つけて、わたしは籠に近寄った。
「わたしをここまで呼んだのは、ど」
言いかけて固まる。
白い籠の中では上半身がほぼ露出し、痣だらけになった自分の姿が、人形のようにヘタリと座っていた。
前髪が幽霊のように顔全体に垂れ下がって、表情を隠してしまい見えない。それでもただならぬ空気を纏い、わたしに意識を向けているのが感じられた。
「あ……ひっ……う……」
言葉すらまともに発せず、息を呑む。
あまりの気迫というか、彼女の発する負の圧力に完全に呑まれてしまい、わたしの頭は思考を止めてしまった。
『この姿、悲惨なものでしょう?』
「あ、う……あ……」
『今見えているのがあなたの未来だとしたら、あなたはそれでもこれから鬼の傍で生きていけるの?』
「そ……そ、れは」
『あなたは弱い。闇を受け入れきれない。いつかくる将来から自分を守れない。だから大人しく明るい場所へ帰りなさい』
わたしは首を横へ振っていた。
そんなわたしを、彼女は疲れた様子で息を吐いた。
『雀は鈴音を死なせたくないの』




