二十六ノ怪
暗い暗い闇の中を落ちていく。
背中から落ちていくから浮遊感がより感じられて、ゆっくり落ちていくものだから、どこか気持ちがいい。
わたしはどうして落ちているんだろう。
鬼さんは、雀の子はどこにいってしまったんだろう。
このまま眠ってしまおうかとぼんやり暗闇を仰いでいると、真横を何かが羽ばたいて下へ落ちていった。
今のは……雀?
落ちていったのは、あの子なの?
上から何かが落ちてきた様子もないのに、突然横を翼をもった何かが物凄い勢いで横切った。
自分の視界の端から上へと小さな羽根がいくつか昇っていくのが見える。
わたしは体を捻って仰向けの状態から、うつ伏せに体勢を変えた。
なんだろう。なにか、暗闇の中から何か線のような細長い物が浮かび上がってくる。
目を細めて次第にそれが目前に迫ると、それが廊下なのだと分かった。
木目調の廊下。あれはどこかで見たような……
一瞬そのまま床に叩きつけられるんじゃないかとヒヤリとしたけれど、急に勢いが落ちて体が宙に留まると、静かにわたしはそこへ足から降り立った。
はぁ、よかった。
そのまま廊下に衝突するかと思った。
安堵した後に、わたしは自分の足元を確認する。
さっきまで重力をあまり感じなかったのに、今はしっかりと足で立つような形になって、なんだか変な感じだ。
急に重さを感じるようになって心なしか怠い。
顔を上げてあたりを見回す。
背後は真っ暗で、前は少しだけ明るい。目を凝らすと暗い廊下の向こうに蝋燭が小さく揺らめいていた。
うーん。でも廊下全体を照らすには小さいみたい。
明るいのは蝋燭周辺だけで、奥の方まではよく見えない。後ろが真っ暗なのも蝋燭の明かりが届かないせいだろうし。
ふぅと息を吐いて自分が緊張しているのだと気が付く。でもそれ以外に特に何も感じられず、また考えられなくて、仕方なしに冷たい床に一歩足を踏み出した。
足の裏にひんやりとしたものが広がり、余計に背筋が冷えてきた。
ここまで緊張感があるはずなのに、どうしてだか自分の意識と外界が膜一枚張で遮られていて、なんだか感覚が鈍い気がする。
眠いのかな、頭がぼんやりする。
でもなんだか気が立っているような、妙な気分……
緊張感と朦朧さという正反対の感覚を持ちながら、わたしはひたひたと廊下を歩いた。
結構歩いたと思ったけれど、この廊下長い。
どこまで続いているんだろう。
何本目かの小さな蝋燭を通り過ぎ、先の暗闇に差し掛かったところで、何か物音が聞こえた。
……話し声?
くぐもっていてよく聞こえない。
話しているのか、なんなのか。とにかく誰かの声がする。動物の鳴き声とかではないようだ。
雀の子かな。さっき横切った鳥みたいなのも気になるし。
でも……
先に行きたいけれど暗すぎてさすがに躊躇してしまう。
どうしようかと戸惑っていると、突然背後から小さな影が音もなく、暗闇の中へ飛んで行った。
え? 雀……?
目の前は真っ暗なはずなのに、雀だけははっきりと見えた。
闇ばかりが広がる中、ぐるりと角を曲がったように飛んで消えたと思えば、ポッと奥のほうで明かりが点いた。
蝋燭が点いたのは、ちょうど廊下の曲がり角にあたるところだった。じゃあ本当に、あの雀はこの角を曲がったんだ。
蝋燭に火を灯してくれたのは、わたしを先へ進ませるため?
無意識のうちにわたしは生唾を飲み込んでいた。
そしてわたしは顎を引くと、慎重にまた歩き始めた。
それにしても、この壁といい廊下といい。鬼さんの屋敷に似ている気がする。柱に描かれた模様とか、記憶違いでなければそっくりだし。もしかしてここは鬼さんのお屋敷なのかな。
だとしたら、いつの間にわたしは廊下に出ていたんだろう。
角の蝋燭まで行きつき曲がり角をのぞき込む。すると奥のほうで光が漏れているのが見えた。
暗くてはっきりはしないけれど、大きな雄鶏が描かれている襖みたいだ。
ここから声が聞こえてくる。
音を立てないように気を配りながらそこへ進んでいく。
胸元に拳を当てながら、一歩一歩近づいて行った。
「鈴音」
鈍いはずなのにその声だけに感覚が研ぎ澄まされる。
ちょうど襖の目の前まで来たときに、声がはっきり聞こえたのだ。
間違いなく、今のは鬼さんの声だ。
「ドウシタ鈴音」
囁くような、小さな声。
心配しているような、困惑しているような。けれどもまた別の感情が伺える、なんとも不思議な声音だった。
誰と……話しているのかな? わたしの名前を言っていたみたいだけれど。どうしたって、何を話しているんだろう。
ギュッと胸元を握りしめて薄く開いている隙間に目を近づけた。
中は薄暗かった。
ちょうど豆電球をつけたぐらいの明るさだろうか。
部屋の中央付近に僅かばかりにオレンジに光る灯篭があるくらいで、他に部屋を照らす物はなかった。
部屋の中央は蚊帳で覆われており、中の人物の輪郭がぼんやり見える。
「鈴音」
蚊帳のせいでシルエットしか見えないが、紅い鬼さんと、会話からして多分わたしかと思われる影が動いて見える。
「何か飲むカ?」
聞こえてすぐ蚊帳から大きな腕が出てきて、外に置かれている湯飲みに手が延ばされた。その時に少しだけ蚊帳の中が見えた。
「……ひぅっ」
悲鳴と同時に息を吸い込んだ。
鼓動が早くなって、吐き気がした。頭に血が上ったのかもしくは下がったのか分からないが、酷い眩暈も襲ってきて、わたしはその場に座り込んだ。
「鈴音ドウシタンダ?」
鬼さんの開けた胸に縋りつく顔と手。見えた顔は笑っていたが、目からは涙が零れていた。
「……鈴音。良い子ダナ」
鬼さんもまた口端を上げて八重歯をのぞかせると、蚊帳の中でもう片方の手が頭を撫でる仕草をした。
なんなの、一体なんなの、これはっ。
両手で口を抑えて、けれども目は逸らす事が出来なくて。わたしは食い入るように中の二人を見続ける事しか出来なくて。
不意に逞しい胸に顔をあずける瞳と目が合った。
その瞳には灰梅が浮かんでいて、泣いているからか、熱っぽく揺らめいて見えた。
「えっ……!?」
気づけば自分の目からも、とめどなく涙が零れていた。
驚いて涙を拭おうとしたとき、足元が消えた。
声を上げる暇もなく真っ逆さまに落ちた。
自分の髪が激しくなびくのが見え、白く浮かび上がるつま先が見える。文字通り頭から落ちている。
「苦しい」
耳元から声が聞こえた。
驚いて顔を横に向けると、小さな雀が羽を散らせながら落ちている。
「痛い……眩しい……」
風のせいで目を開けるのが難しい。
それでもなんとか目を凝らして雀を見ると、灰梅が浮かぶ目から赤い雫をぽろぽろと零しては宙に浮かせていた。
「何が」
わたしが言い終わらないうちに、あたりか真っ白に包まれた。
灼ける、という表現がピッタリだった。目から飛び込んで来た閃光は体の内側へと入り込み、一瞬にして全て消し去ろうとしていく。
消えてしまう。
嫌だ。
もがこうとしても、もがく手もなければ腕もない。のたうち回るための体もなければ足もない。
ただ灼け尽くされる苦痛だけが纏わりついていく。
遠くのほうへ消し飛ばされる。
跡形もなく、なくなってしまう。
そんな焦りと同時にどうしてだか懐かしさもあった。
こんなに苦しくて、いまにも自分が消し去ってしまうかもしれないのに。
温かな光。胸の内を明るくしてくれる日差しに似た光。この光をわたしは知っている。
でも何故、こんなにも激しく苦しいのだろう。
いつもわたしを助けてくれていた光が、とても苦しくて、自分の存在を否定しているかのようだ。
「鈴音」
また呼び声が聞こえる。
ハッとして顔を上げると、光は急速に失われて、また真っ暗な闇の中にいた。
激しい鼓動がドクドクと耳にまで聞こえて、全身汗が噴き出ている。それなのにわたしは蒼褪めているのか、妙に肌が冷えている気がして仕方なかった。
「ドウシタ鈴音」
顔のそばが温かいような気がした。
消えてしまったと思っていた手に力をこめると、わたしの手のひらが何かに触れていた。
「鈴音」
上から降ってくる声に目を上げると、そこに紅い鬼の顔があった。
石みたいに固まって動けなくしていると、鬼さんは首を傾げて微笑みながら眉を寄せた。
それからわたしの目尻を指の腹でなぞると
「何か飲むカ?」
そういって腕を向こうへ伸ばした。
伸ばした先には蚊帳があって、腕は蚊帳の向こう側へと出て行った。
この光景はさっきわたしが襖から見ていたものだ。
顔を動かすと目から涙が落ちた。
自分を見下ろせば着物は崩れかかっていて両肩は露出し、浮き上がった鎖骨が覗いている。
慌てて着崩れている着物を直そうとしたが、体が重くて動かない。
頭も腕も、何もかもが重かった。
思うように動けず、そのままもたれる様に鬼さんのほうへ倒れると、まるで縋りつくように頭と手を逞しい胸板についた。
「鈴音ドウシタンダ?」
体が消耗している。さっきの光のせい?
でも、あの光はきっと退魔の光のはず……それなのにどうして、こんなに体に痛手が与えられているんだろう?
あれは退魔の光じゃなかったの?
「ふ……」
不意に自分の口端が僅かに上がった。
自分の動揺をあざ笑うような、鼻で笑ったような嫌な笑み。目からはまだ涙が零れているが、口では小さく笑みが零れている。
「……鈴音。良い子ダナ」
わたしが笑ったのを、体を倒したことをどう捉えたのか、鬼さんはわたしの頭を撫でて笑った。
鬼さんの腕が湯飲みを掴んで戻ってくると、その中身を鬼さんは仰いだ。そしてそのまま飲み込むことをせずに、わたしの顎をとると、顔を寄せてきた。
「ひっ……! 嫌っ」
反射的に両腕を突き出す。
……ん? 突き出した?
体が動く。
勢いよく顔を上げてみると、目の前にいた鬼さんもいなくなり、部屋もなくなっていた。
足が冷たいと思って立ち上がれば、わたしはまた暗い廊下に一人いたのだった。
さっきのは……幻? 現実には無かったこと?
不安にまた両手を握り合わせて口元に力をこめる。酷く汗をかいているのに、とても寒い。
「うぅ……」
驚いて思わず飛び上がった。
低い呻き声に忘れていた心臓の激しさが戻ってくる。
「うぅう……」
苦しそうな声。首でも絞められているような……多分、女性の声。
すごく怖いのに、吸い寄せられるように声の聞こえるほうへ足が動く。
どんどん蝋燭の明かりが届かないところまで進んでいく。目の前は真っ暗だというのに、壁に当たることもなく、迷うこともなく、ただ真っ直ぐ進んでいく。
襖がある。見えもしないのに何故だか分かった。
わたしはゆっくり捉えてもいない引き手に指をかけ、ゆっくり開いた。
視界は真っ赤だった。明かりのせいではなく、自分の映るもの全てが赤かった。
深紅の空間は暗くて重苦しい、
畳の上に転がった幾つもの酒瓶。投げ捨てられた羽織たちと髪留め。仰向けに座り込んでいる肌着だけの人形と、その人形の首筋に牙を立てる紅い鬼。
そしてその二人から少し離れたところに、天井から延びる、腰ひもで作られ吊るされた輪が一つ。
「い……」
どこかで見たことのある、天井から垂れ下がる輪っか。
真っ赤に浮かび上がる人形はマネキンのようにのっぺらぼう。
「嫌……」
口も目も無く、それなのにずっとそこから聞こえる呻き声。
丸みのある顔の表面から垂れる雫。
「嫌あぁあっ!」
叫んだと同時に、自分の口から紅い液体が噴出した。
それは自分の体を染め上げて、部屋の赤さなんて気にならないほどに、鮮明に映った。
足元に広がる紅い水たまりに、ひらりと一枚の羽根が落ちてきた。
軽やかに水面の上に着水すると、わたしのつま先に触れる。
『あなたは耐えられない』
水面に移る、もう一つの自分の顔。
ぽたりと一粒の水滴が落ちて赤い波紋が広がると、二つの顔は歪んで見えなくなった。