十八ノ怪
食事に手を付ける気にはなれなかった。
というより、食べる気力など吹き飛ばすくらいの頭痛のせいで、空腹を感じている余裕がなかったのだ。
どうしてこんなに頭が痛いんだろう。気を抜くと、なんだかそのまま目を回してしまうような、嫌な痛みだ。
ふつう頭が痛いと眠れないような気がするのに、どうしてだか頭の痛みに気を取られていると、気づけばウトウトしている自分が居る。
しっかりしないと。眠ったらダメだ。
眠ったらまた振り出しに戻ってしまうような、そんな気がしてしまう。例えそうでないとしても、なんだかうやむやになって終わる気がする。大事なことから遠ざかってしまう。
何度も布団の上で寝転がってはまた元の場所に戻るを繰り返す。
二度ほど体を起こしてみたのだが、すぐに酷い頭痛に襲われてやむなく横になった。そうすれば痛みは残るが、殴られるような痛みは治まった。
体がまるで起きるのを嫌がっているみたい。体の具合が思っているよりも悪いのかな。
鬼さん……。そういえば、鬼さんを見ていない。
平屋の時には毎日会っていたのに、ここではまだ見ていない。どこに行ったんだろう。鬼さんに会えば今のわたしがどうなっているのか、分かるかも知れないのに。
ふぅと息を吐く。目が覚めてからどれくらい時間が経ったんだろう。早く鬼さん来ないかな。色々話したことがあるのに。
こういう時に限って鬼さんに会えないだなんて、なんだか皮肉だ。いつもならなるべく会いたくないって思っているのに。
不意に鏡台へ目が向むいた。
鏡。わたしは今、どんな顔をしているんだろう。そういえば籠の中にいた雀の首にはたくさん痣があった。
わたしは、どうなんだろう……
ズキンと鋭い痛みが走って、すぐさま頭を抱える。
突き刺すような痛みが後頭部に広がり、ジワリと額に汗が浮き出た。
『見ないで』
そんな言葉が頭に浮かんだ。
浮かんだって……今のは何? 何が起きたの? 声……じゃない。言葉が、頭の中に浮かんで……
恐る恐る鏡に顔を向ける。
鏡は角度のせいかどこを反射して映していて、こちらからだと何を映しているのかまではよく見えなかった。
あの感覚。さっきのはもしかして……あの雀の? その子の心の声? でも一体どうして鏡を見てはいけないんだろう?
『見てはだめ』
ビクッと肩が跳ねた。心臓も強く脈打ってドクドク鳴り始めた。
なぜわたしは彼女の声が聞こえるの? もしかして体のどこかにまた常闇の痣が出てきたのかな。
それなら納得だ。あの痣が出来れば、わたしは様々な人の感情とか思念がわたしの頭の中へ直接入り込んでくるのだから。あまりにも酷いと痛みやマイナスな感情まで直接伝わる事もあるし。
ただ自分でコントロールするのではなく、突然勝手に起きてしまうというのが悩みの種だ。
それはともかく、今は自分がどうなっているのか、確認しないと。
ギュッと握りこぶしを作った。重い体を無理に引きずって鏡台の前に行こうと体に力を込める。
ずっと眠っていたからか、足は立とうとしてもほぼ役に立たなくて、腕もビックリするくらい思うように動かない。
「痛っ」
殴られたような、また強い痛みが頭に走る。
思わず声を出してその場で蹲るけれど、また這うようにして鏡台の前にまで進んでいった。
「痛い……痛っ」
鏡台に近づけば近づくほど、頭がどんどん痛みを増していく。
フラフラになりながらわたしは冷や汗が額から流れてくるのを感じていたが、それを拭うこともせずに、鏡台の机部分にしがみつく様な形でよじ登った。
「あ……え?」
涙か汗のせいか、滲んだ視界で見た鏡は白く濁っていて、何も映していなかった。
裾でゴシゴシと鏡を強く擦ってみたが、綺麗になることもなく、わたし自身の目元もまた擦ってみたが、視界が若干良くなったくらいで、鏡はやはり曇ったままだった。
「どぅ……して……」
掠れた声が口から零れた。
大きく息を吐いてそのまま鏡台の上に突っ伏した。緊張の糸が切れた途端、わたしは何をやっているのだろうと、急に虚しくなってしまったのだ。
なんだか疲れたな……もうこのまま眠ってしまおうかな。
目を閉じて自分の腕に顔を埋めた。
頭、痛いなぁ。でもなんだか眠気も強くなって、このまま眠ってしまえば痛みが治まるような気までしてくる。
さっき何かを掴みかけた気がしたんだけれど。なんだっけ? 忘れてしまった。ついさっき起こった事だったような……
あぁ眠い。だめ、とても眠い。考えるのが辛い。
だけど探さないと。だって……わたしはただ本当のことが知りたいんだから。
『もう眠って。私に任せて』
カクンと自分の頭が台の上で傾いた。そして意識も暗転して暗闇に放り出される。
突っ伏しているのに背後から落ちるような感覚。急速に睡魔に呑まれて意識が完全に途絶える寸前。
余程わたしは鬼さんに負けず劣らず頑固なんだろう。
だってわたしを含んだ睡魔の口が閉じてしまう、その一瞬前。それでもわたしは、一度自分が握った疑問を手放さなかったんだから。
どれが幻で、どれが本物で、どれが夢で、どれが現実なのか。
「――ねぇ……誰か教えて――」
自分でも聞こえるかどうかの、微かな呟きだった。
遠くの囁き声や長唄が、次第に小さくなり消えていく。痛いくらいの静寂が訪れた。
わたしは意識がはっきりしないのもあり、そのまま動かずにしていると、今突っ伏している真下から暖かな気配を感じた。
それは徐々に強くなっていき、お腹のあたりから何か暖かいものが触れているような気がした。
眩暈を覚えながら、のそりと体を起こして自分のお腹を見下ろす。
お腹はちょうど鏡台の引き出しにあたり、その引き出しの隙間から僅かに光が溢れているのだ。
もしかして……退魔の剣?
そう……そうだ。わたしはずっと退魔の剣を引き出しにしまっていたんだ。
取っ手に手をかけて引く。けれどもゴトっと硬い音がして、引き出しが開くことはなかった。
「そンな……開かナイなんて」
何度引いても同じで、引き出しは開かない。
誰が鍵をかけたの? それに元々この引き出しは鍵なんて無かったはずなのに。どうして?
困惑して引き出しの取っ手を掴んだままでいると、陽の気配が古い木材の引き出し越しに伝わってきた。
暖かい……とても、暖かい……
引き出しに手を当てれば、目眩や頭の重さが引いていき、強ばっていた口元の引き攣りも消えていった。
頭と心が晴れていく。鬱々とした気配が霞んでいく。やっぱり陽の光は、陽の気配はわたしにとって離れがたい存在なんだ。常闇での唯一の味方なんだ。
細く長い息を吐き出すと、何故だか自然と涙が零れた。とても静かな、穏やかな涙だった。
「ひぅ……っ!?」
突然の息苦しさに変な悲鳴を上げた。
ギリギリと締め上げられる首にわたしは両手をやって、その締めてくる何かを剥がそうとするが、なかなか手に当たらない。目の前が霞んで焦りが出てくる。
あ、く、苦しい! 誰が? 何が? 籠には誰もいないのに! 来れるはずがないのに。
それじゃあ何かの呪い? どうして?
慌てて引き出しを乱暴に引っ張り、こじ開けようとした。
わたしが容赦なく引っ張るたびに小道具は落ち、鏡は大きく揺れて、台は畳の上を前後左右にガリガリと擦った。
妖怪とか幽霊の仕業なら、退魔の剣を使えば追い払うことが出来る! 早く早く、どうにかしてでも開かないと、開けないと!
この時、弱っていたはずのわたしの体が緊急事態をようやく察してくれたのか。いつかの火事場の馬鹿力を発揮させ、そこそこ重いはずの鏡台を一瞬持ち上げるような形で引き上げた。
そして次の瞬間、落とした拍子に僅かに引き出しから乾いた音がした。
顔に何か暖かなものが触れた。
線のような隙間から陽の光にも似た輝きが放たれ、わたしの顔を照らしていたのだ。
すると絞め殺す勢いで首を絞めていた圧力は消え、わたしが盛大に咳き込んで酸素を肺に送り込めば、みるみる内に体の怠さが軽減された。
よ、良かった。死ぬかと思った。やっぱり、あれは何かの呪いだったんだ。
じゃなかったら、首を絞めていたものが消えたり、体が良くなったりなんてしないもの。
けど、どうしてわたしにこんな呪いを掛けたんだろう?
紫さんの話だと(紫さんの会話が夢じゃなかったと仮定して)わたしはずっと籠の中にいたんだ。誰かの恨まれる暇も機会もないハズだ
。
……鬼さんの女性やらいじめ関係で恨まれることはあるかもしれないけれど。そうだとしたらかなりのとばっちりを受けたことになるが。
引き出しを見下ろしてもう一度引いてみる。…………やっぱりこれ以上隙間は出来そうにない。
でも少しだけでも開いているなら、何かテコになるものを使えば全部開ける事が出来るかもしれない。なにか使えるものがないか探してみよう。
部屋を見回して立ち上がろうとした時だった。
わたしは少しふらつく体を支えようと、台の上に両手を着いたその瞬間、引き出しから零れていた強い光が、突然屈折してわたしの目に飛び込んできた。
「うっ……ぁ!?」
燃え上がるような苦しさだった。
強い光は目蓋を焼いて、腕で目を庇っても目の内の閃光は消えてくれない。
眩しい! 目が焼ける!
どうして? 立ち上がる直前には顔に光なんて掛かっていなかったのに! それになんでこんなにも目が焼けるの? この中にあるのは退魔の剣じゃなかったの? どうしてこんな……!
『馬鹿なわたし』
激しい光にのたうち回っていると、冷めた声が聞こえた。
目を見開くと、真っ白で何も見えない視界なのに、頭の中に何かが写りこんだのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
口から熱さが巡って、顔にかかっていた影が離れるとわたしはハッとして目を見開き、口元を拭った。
「お前、俺が鬼火を移してやってンのに、ソレはないダロウガ」
そんなこと言われても、嫌なものは嫌なんだもの。
火照った体から熱を逃がそうと手で顔を仰いだ。
鬼さんもわたしが退魔の剣を使うって知っているのに、どうしてわざわざ移すんだろう。自衛の為って思っているのかもしれないけれど、わたしにはもう退魔の剣があるのだ。鬼火は必要ないのに。
ふと鏡台の方に意図せず目を向ける。
わたしがすぐに鬼さんの鬼火を剣で消したら、鬼さんはやっぱり烈火のごとく怒り狂うのかな。
だとしても、放置しておけば妖怪の仲間入りになると知っていて何もしないような事はしたくないし……。うーん、どうしよう。
――……邪魔ダ、死ネ
悩んでいると、ぞくりと背中に寒気が走った。
訳も分からず鏡から目を離さずに固まっていると、遠くの方から嫌な音が近づいてくる。
次第に大きくなってくる、高い高い耳鳴り。それが耳元に届いた瞬間、足元から這い上がるような闇の気配に体が強張った。
――忌々しい。何故殺さないのだ。何故未だに飼われているのか。貪欲の鬼様は何を考えておられる。
「な、なに?」
――アンナ物ハ取リ上ゲテ下サイ鬼様。ソシテドウカ、八ツ裂キニシテ下サイ。
「え?」
――人間の小娘の癖に。矢張り早く始末してしまえば良かったんだ。まったく余計な事しやがって! 生意気な。生意気な!
「よ、余計な事って? 何が?」
――安住の地である常闇になんて物を! 住まう土地が限られているというのに。これでは安心して日々過ごせぬ。このままでは鬼の地を離れなければならぬ。
「え? あ、あの」
――殺セ。殺セッ。殺セ!
「そんな……ま、待って」
――二度と手に出来ぬように、人間の両手を切り落として下さいまし。足を折り、二度と籠から出ぬよう縛って下さいな。鬼様、鬼様。どうか貪欲の鬼様のお裁きを娘に。
「そんな、わたし! お願い待って、なんで」
手を伸ばし思わず掴んだものを見ると、鬼さんの袖だった。
恐る恐る見上げれば、眉間に眉を寄せた鬼さんの紅い瞳と目があった。
「……ナニか、視えたカ? もしくは聴こえたのカ?」
どこか蔑むようなものが入った眼差し。
わたしは掴んで皺になった袖から手を離すと、鬼さんから静かに離れた。
「あ……えっと……」
「ナンダ?」
次の声も冷たい、突き放した声音だった。
今聞こえた……というよりも、入ってきた思念に動揺してしまい、わたしは返答らしい返答が浮かばす出てこなかった。
わたしはまたゆっくり後退りをして、それから鬼さんに背を向けた。それから言いようのない圧迫感から身を守るために、強く自分自身を抱きしめた。




