9.精算と新たな足音
火竜襲来から三ヶ月。王都に響く復興の槌音を遠くに聞きながら、アルバスは執務室で計算盤を弾いていた。
「……よし。これで確定だ」
最後の一行を書き終え、ペンを置く。アズールが手際よく、温かい茶を卓に置いた。
「お疲れ様です、アルバス様。火竜の件、数字はまとまりましたか?」
「ああ。砦の損害が四万五千金貨。これに対し、ギルドから支払われる保険金が免責分を除いて三万六千金貨。……つまり、実質的な国の持ち出しは九千で済む」
アルバスは計算書をアズールの方へ向けた。
「一方で、火竜の素材売却益は約十七万二千金貨。ここから国の持ち出し分を補填しても、約十六万三千金貨の純利益だ。年間予算の十五%以上を、積み増したことになる。……混乱の収拾費用としては、これ以上ない結果だろう」
アズールは手元の資料を見比べながら、感心したように頷いた。
「損害を保険で埋めて、素材で儲ける。……完璧な二段構えですね。これでようやく、滞っていた一般事務に注力できますね」
「そうだな。あとは禁書庫に入っている連中が、余計な過失で資産を毀損させなければ、この件は完全にクローズだ。……あいつらが調査中に禁書の一冊でも燃やせば、たとえ百万金貨が支払われてもこの利益など一瞬で吹き飛ぶからな」
アルバスが冷めた茶を啜り、溜まっていた日常業務の束を引き寄せようとした時だった。
控えめなノックと共に、若手の事務官が硬い表情で入室してきた。
「失礼します。管理監理官閣下、国際保険ギルドのノワール氏より書簡です。……『至急』とのことです」
「ノワールから? 相互の支払い義務は既に履行済みのはずだが……」
アルバスが封を切り、中身に目を通すと、その指がピタリと止まった。
『実務上、貴国と共有しておくべき「瑕疵」の可能性について。協議のアポイントメントを請いたい』
「……瑕疵、だと?」
アルバスの目が、瞬時に事務屋の冷徹な鋭さを取り戻す。
「アズール、予定を変更だ。ノワールの来訪を即座に受理しろ。……あいつがこの言葉を使う時は、決まって碌なことが起きん」
「……瑕疵、ですか」
アズールがその言葉を噛みしめるように繰り返した。執務室の温度が一段下がったかのような錯覚を覚える。事務屋にとって「瑕疵(欠陥)」とは、終わったはずの仕事を引きずり出し、積み上げた利益を根底から覆しかねない呪文に等しい。
「ああ。素材の売却も、保険金の受領も、手続きは完璧だったはずだ」
アルバスは背もたれに身を預け、鋭い視線を天井の一点に据えた。脳内では、この三ヶ月に交わした膨大な契約書と、火竜事案に関連する全ての法規が超高速で再検証されている。
「支払い済みの保険金に、今さらギルドが難癖をつけてくると? ……それこそ、第12条を盾に『実は王国の過失があった』とでも」
「いや、ノワールはそんな不毛な賭けはせん。一度確定した支払いをひっくり返す労力よりも、それを認めた上で『新たな支払い』をこちらに発生させる方が、あいつらには合理的だ」
アルバスは机の端を指先で規則正しく叩いた。
「『瑕疵』の対象が、わが国との直接契約にあるとは限らん。今回の火竜災厄は、広域災害として認定されている。つまり、被害を受けたのはわが国だけではないということだ」
「……隣国、ですか」
アズールの言葉に、アルバスは短く頷いた。
「オステア公国だ。あそこは壊滅した。……もし、あちらの戦後処理において、ギルドが看過できない『穴』を見つけたとしたら? そしてその穴が、国境を接するわが国にまで泥水を跳ね散らすものだとしたら」
アルバスは立ち上がり、窓の外、遠くオステア公国がある方角へ視線を投げた。
「ノワールは『共有しておくべき』と言った。それは、放置すればわが国の損害になり、同時にギルドの責任(瑕疵)にもなり得る事態だということだ。あいつは、自分たちの責任を回避するために、こちらに『予防策』という名の新契約を売りに来るつもりだろう」
「……助け舟のフリをした、新たな徴収、というわけですね」
「ハッキリしているのは、我々が手にした十六万三千金貨の余剰を、あいつが狙っているということだけだ」
アルバスはアズールに向き直り、冷徹な声で告げた。
「アズール、応接室の準備を。……それから、オステア公国に関する直近の諜報記録と、わが国が結んでいる『広域魔導災害保険』の本契約書をすべて用意しろ。あいつがどんな毒を皿に乗せてきても、こちらがその正体を先に暴いてやる」
「かしこまりました。すぐに」
アズールが退出した後、アルバスは再びノワールの書簡に目を落とした。事務屋としての本能が、静かな平穏の終わりを告げていた。




