闇夜に啼く背徳の双月狂詩曲5
廊下に吹き込む冷たい風が、荒れた離宮の空気をわずかに押し流している。
フィリスが衰弱したまま寝台に運び込まれてから、半刻ほど経過した。エランも呪印の疼きに耐えかねて休まざるを得ず、ゼオンは昼夜問わず結界の穴を調べている。そんな中、騎士団を束ねるグレゴリーも満足に休む間なく、敵の再襲撃へ備えようと部下を鼓舞し続けていた。
その指揮の隣で、セシリアが地図を見比べながら新たな配置を組み上げていく。兵士たちへのするどい指示は淀みがなく、まるで何年も戦場をくぐり抜けてきた猛者のように見える。だが当の彼女は意外にも自覚がなく、頬に手をやりながら何度も「うう、忙しい…こんなの普通ですよね、たぶん」と小声で焦っているのが何ともおかしく、騎士たちも苦笑するしかない。
「セシリアが居なかったら、全滅してたかもよ。あなたの指南のおかげで抑えられた被害が多すぎるもの」
ミオがさらりと褒めると、セシリアは驚いたように目を丸くした。
「そんな…私、ただ言われたとおりにまとめているだけですよ。あたふたして失敗ばっかりですし」
その割に、今も完璧な段取りで救護班と補給係を連携させ、離宮の医務室に負傷者を次々と誘導している。グレゴリーは唸るように言い放った。
「まったく、その“あたふた”に助けられるとは思わなかったぞ。次に奴らが来たときもよろしく頼む」
ただ、本人は困惑するばかり。それがどうも可笑しくて、ミオは心の隅で「ざまぁ見ろ、まんまと褒められて恥ずかしがってるじゃない」と毒気混じりに笑ってしまう。
そんな短い安寧を断ち切るように、ひび割れた窓から月の光が差し込み始めた。まるで警告灯のように静かな闇へ溶け込んでいくその光景に、一同は否が応でも次の満月が近づいていることを思い知らされる。
「スペイラはまだ離宮のどこかに潜んでいるはず。あるいは別の道で一度、王都まで向かったかもしれないわ」
ミオの言葉に、うっすら額に汗を滲ませたゼオンが頷く。
「黒い石の制御と月蝕の儀式。奴らが準備を整えれば、離宮はおろか王都すら闇に飲み込まれる危険がある。私も結界の修復を急いでいるが、深部が崩落したせいで完璧には望めない。…苦しい戦いになるな」
さらに悪いことに、フィリスも昏睡に近い状態だ。王家の血が暴走しかけた反動をゼオンが緩和したとはいえ、謎の転移陣と闇組織の呪術の影響で傷口が深い。そのせいで、いざ彼女の力が必要となっても満足に呼び出せるかどうか分からない。
「敵さんはそこを狙ってるんだろ。まさか姫様も、こんな形で寝込むとはね」
グレゴリーが険しく唇を噛みながら、小声で吐き捨てる。簡単に負けるわけにはいかない――だが状況は決して甘くない。
そんな張り詰めた空気を変えたのは、重症のはずのエランだった。彼は痛む腕輪を押さえつつも、ふらつく足取りで現れ、ベッドに倒れこんだまま動かないフィリスを一瞥する。
「俺も痛いところだらけだが、あの王女がこんな状態じゃ勝ち目が薄いってことだろ? クソ、もう一度行くしかないだろ…」
うかつに杖を握ろうとして、あまりの痛みに顔を歪めるエランに、ミオが鼻で笑う。
「元気そうね。そのまま踏ん張って無理して、ざまぁでもかましてくれたら面白いわ」
「笑ってないで助けろ、この恩知らず」
「はいはい、また余計な負担かけるんじゃないわよ」
軽口を叩く二人に周囲が呆れつつも、どこか安堵の笑みも広がっていた。エランが倒れ込むほど深刻なら、誰だって背筋が凍りつくが、こうして憎まれ口をきける余裕があるのは一種の救いともいえる。
その隙に、セシリアは黙々と各所の手配を片づけていく。輸送ルートの整備、潰された地下道の踏破計画、そして連携する騎士団の配置換えまで、涼しい顔のまま依頼主を指示出ししていくのだから驚きだ。
「ええと、ここも兵を増強して、あちらの門を早めに封鎖して…あの、物資が足りなくなるだろうから王都への急報を最優先に…」
呟くたび、部下たちは「了解」と返事するだけで、迷いなく散っていく。ミオはあえて口に出さないが、この統率ぶりはセシリアだけが突出しているように見えた。彼女自身は必死に前を向いているだけなのだろうが、その才能は常人の域を超えている。
やがて人払いを終え、ミオとエラン、ゼオン、グレゴリーにセシリアを加えた面々でささやかな作戦会議を再開する。王家の地下書庫は大半が崩落したが、一部に通じる狭い道が残っていて、そこに結界の残骸と月蝕の秘密がまだ残されている可能性があるというのだ。
「次の満月まで、あと幾晩だ? 急がなきゃならん。それにイア・ルヴァンティの狙いも分からないままだ」
ゼオンの口調は険しく、エランの視線がさらに強張る。
「アイツ、妙な呪文であの闇を一瞬だけ押しとどめたよな。助ける気があるのか、それとも遊んでるのか…」
ハラハラした沈黙が降りた中、ミオだけは目を伏せたままシニカルな笑みを浮かべる。
「いずれにせよ、彼の動きも含めて推理したほうがいいわね。わからない謎が多いときこそ面白い…試してみる価値はあるわ」
「おいおい、その余裕はなんだ」
「だってつまらないよりマシでしょ? どうせ振り回されるんだし、ならとことんやるだけ」
柔らかく吸い込むような月光の下、戦いへの決意を新たにするメンバーたち。どこまでも続く闇を切り開くには、準備を怠れない。逃げ道を失った今こそ、残されたわずかな希望を掴み取りにいくしかない。
「それにしても、やっぱりセシリアは十分すぎる働きしてるって自覚したほうがいいんじゃない? もし貴女がいなきゃ、明日には離宮が崩壊してたかもよ」
グレゴリーが上官風を吹かせて肩を叩くと、セシリアは顔を赤くしながら小さく身を縮める。
「い、いえ…そんな偉そうなこと、できません。慣れないだけで失敗しますし…」
「この調子なら、もっと手札を増やせば十分に奴らと渡り合える。次の満月までに整えるのは兵力か、それとも魔術か――どちらにせよ、やれることは山ほどあるだろうな」
重々しい口調のわりに、グレゴリーの瞳にはわずかに希望の光が宿っていた。セシリアの迅速な対処と、ミオたちの捨て身の闘いが無駄ではないという確信が芽生えたに違いない。
廊下の先、夜風がざわめく。満月まで残りわずか。スペイラと闇の仲間たちは必ず再び姿を現すだろう。
だが今度こそ――
彼らは手ぐすね引いて待っている。離宮を守るため、王家を混乱の闇から救うため、それぞれが限界を超えて刃を研ぎ、準備を整える。
理論か暴走か、隠された魔術か、そして謎めいたイア・ルヴァンティの正体か。すべてを混ぜ合わせて、月蝕の夜に待つ頂点の戦いへ突き進む。
遠く響く不気味な風の音を背に、ミオが悪戯に口元を歪める。
「さあ、本当にざまぁって言えるほど派手に蹴散らしてみせるわよ。今回ばかりは誰にも退屈なんてさせない――」
噛み切れそうなほどの緊張と興奮に包まれながら、次なる決戦への幕はすぐそこまで押し寄せているのだった。