凍土を破る鏡の幻影4
深夜。砦の中心に据えられた古代の鏡が突如、ぎらりと光りを放った。
砕けた氷の欠片のように鋭い閃光が、砦を覆う凍土の底から忌まわしい魔力を呼び起こす。凍てついた床を通じて、ヒリヒリとした震動が足裏を刺すように伝わってきた。
「まずいわね、あの鏡……」
ミオがぎょっと目を見開く。くすんだ鏡面に、まるで生き物のような波紋が走っている。
隣でフィリスが唇をきつく結ぶと、こめかみを押さえながら小さく息を呑んだ。王家の血が鏡の力と呼応している証拠だ。徐々に結界が歪み、ほの暗いオーラが砦全体へ侵食を始めている。
そのとき、闇の底からにじり寄る気配があった。スペイラだ。隙を見て闇組織の儀式を仕掛けようとしているのだろう。彼女の狙いは――あの鏡。その力を手にすれば、離宮の扉と同質の魔を操れると踏んだに違いない。
「けっ、調子よく闇に溶け込んでやがる」
エランが睨んだ瞬間、彼の腕輪が淡く泡立つように光りだした。呪印が制御不能に近づいているのか、顔に浮かぶ汗は生易しいものじゃない。だが当人はくぐもった声で笑う。
「こうなりゃ、どっちが先にぶっ倒れるかの勝負だな。俺か、あの鏡か」
「だから強がらないの。爆発したらシャレにならないわよ」
ミオが横目で制するも、心中は一刻を争う焦りでいっぱいだ。魔力の上昇が早い。エランの意識が呑まれるのも時間の問題かもしれない。
ゼオンが砦の壁を小突くと、かすかな金属音が返ってきた。彼は複雑そうに笑いながら呟く。
「やっぱり扉と同じ力が混ざってる。結界を無理やり再現しようとして、逆に歯止めが利かなくなったんだ」
フィリスの血の共鳴、呪印の発作、そして闇組織の横やり――すべてが一挙に重なり、砦自体が巨大な導火線と化しているようだ。
「こらっ、来るぞ!」
グレゴリー騎士団長の叱咤が鳴り響き、剣を構えた兵たちが前線に並ぶ。鏡の周囲にかすかな揺らめきが見えた。と思った瞬間、うっすらと人型を帯びた影が次々と浮かび上がる。
“鏡の分身”だ。
こいつらは鏡の暴走が生む幻影にして凶器。その目は虚ろに光り、広間にいた騎士や魔術師を包囲するがごとく動き出した。
「全員、散開しながら反撃! 第六小隊はセシリアの指示を仰げ!」
グレゴリーが叫び、兵が一斉に駆け出した。先ほどから地味に使える合図を次々出してくれているのは、ほかでもないセシリアだ。迷いを感じさせない的確な指示を飛ばし、複数の隊をスムーズに連携させている。その手際の良さに、団員たちは頼もしそうに目を輝かせているが、当の彼女は首を横に振るだけ。
「わ、私はただ…砦の地図どおりに誘導してるだけなのに…?」
その戸惑いとは裏腹に、兵たちの動きは滑らかにシンクロし、“鏡の分身”の侵攻を少しずつ食い止めていた。本人に自覚はないが、どうにも超人的に有能らしい。
だが、混沌は一瞬で加速する。ミオが論理式を組み立て、鏡を支配下に置こうとした刹那、砦の暗がりからコルネリオが姿を現した。
「研究の邪魔だけはしないでもらいたいね」
そう言うやいなや、やけに禍々しい装置を取り出し、強引に鏡の波動を攪乱し始める。魔術式に混乱が走り、ミオの制御が乱されてしまった。
どっと生温い風が吹き抜けた。鏡の分身が一斉に刃を振り下ろし、騎士団の前列が叫び声をあげる。その隙を見計らい、スペイラの手下も割り込んできた。まさに四面楚歌。
「こいつは盛大な祭りだな…」
エランが息を詰めながら左腕を押さえる。多量の魔力が腕輪から噴き出して、いまにも彼を呑み込もうとしている。ではあるが、ミオをちらりと見やると、まるで「先に行け」と笑っているようにも見えた。
「……バカなんだから」
ミオは微かに唇を噛み、乱れゆく位相のただ中で再び魔術式を組み上げる。打ち合わせもそこそこに、フィリスを中心に結界の再編を図る。ゼオンも直感で補助し、セシリアは騎士団の布陣を修正しながら必死に援護を続ける。しかし、一度火がついた鏡の暴走はそう簡単に鎮まらない。
「グレゴリー、正面を維持して! 殿は任せろ!」
「セシリア、後衛を頼むぞ!」
「は、はいっ!」
すぐさま援護部隊が動き、鏡の分身との白兵戦に割り込んでいく。セシリアの命令ぶりが的確すぎて、騎士たちはほっとしたように息を漏らす。たとえ死地に飛び込む覚悟だとしても、あの完璧な算段があれば救われる……そんな期待感が漂っていた。
鏡を中心にした戦線は、次第に一点へ収束していく。最後にミオが叩き込んだ魔術式が、発狂寸前の呪印とも交わって鏡の力をとりあえず封じこむ形となった。ドン、と鈍い響きが砦の天井からこだまし、続いて底知れぬ闇が一瞬だけ揺れる。
結果――鏡は完全には封印されず、濁った光をくすぶらせたまま沈黙した。しかし、当面の暴走は抑えこまれたようだ。スペイラとコルネリオはいつの間にか姿を消し、砦の外には猛々しい雪嵐が唸っている。得体の知れない次の災厄が、すでに手ぐすね引いて待っているかのように。
「ジリ貧かもしれないけど、まあ上出来だろう」
エランは荒い息をつきながら腕輪に手を当て、ミオはかすかな痛みを覚えつつ魔力の反動を抑える。フィリスは胸を押さえて立ち尽くし、ゼオンは荷物を引きずりながら情報をかき集めようと忙しそうにしている。騎士団は一帯を警戒しながら再配置を進めるが、その陰でセシリアが驚いたように言葉を失っていた。
「私……何か変なこと、してました?」
と聞く彼女に、周りの兵は心底ほっとした笑みを浮かべて答える。
「おかげで全滅回避ですよ。助かりました、ほんとに」
セシリアはただ首をひねるばかりだが、その控えめな姿が逆に頼もしさを増している。
ともあれ、鏡の暴走は一時的に止まった。しかし、その残響は砦から消えていない。雪嵐を隔てた先に、スペイラとコルネリオが注視している何かがある――それだけは確かな予感として胸に残った。
それでも、やるしかない。
吹き荒れる風の中、ミオたちは再び歩み出す。凍土に刻まれる足跡が、次なる高揚と絶望を連れてくるかもしれない。それでも彼らは前へ進もうと、鏡の暗い余韻を背に受けながら、息をひそめて雪の奥へ向かうのだった。