息子の後悔は既に遅い
「あの人みたいにならないで」
口癖のように言い続けた母。
殴られても、辛くても、何より俺を優先してくれた。
貧乏、というほどではないが、決して裕福ではない。2人だけの生活は、寂しくもあったが、幸せだった。
もう、記憶にもほとんどいない父を恋しいと思ったことは無いが、居ないのは不便だなと、感じたことはある。
俺や母に手を挙げて、しかもタバコを押し付けたとかで、俺の腹には火傷跡が残っている。
そんなやつなのだから、もちろんいない方がいいに決まってる。
そんな父の元から俺を連れ出し、育ててくれた。
大好きな母。
何故、そんな母にイラつき、手をあげたのだろう。
「ウルセェんだよクソババア!」
最初は、ちょっとした事故だった。
何だったかすら覚えていない、些細な言い争いで、あまりにイラついて突き飛ばした。
あんなに、軽いなんて。
ちょっと押しただけなのに、机ごと襖に激突した。
俺を抱っこして、どれだけ殴られても決して離さず、親父の暴力から守っていた大きな母は、いつのまにか俺よりも頭ひとつ分小さくなっていた。
受験を目前に控え、勉強で手いっぱいなのに、ガミガミと言ってくる母が煩わしくなかったと言えば嘘になる。
失敗したら、母に蔑まれるだろうか。
父を見限ったように、俺のことも捨てるのだろうか。
反抗期の俺は、素直に謝れなかった。
母がいつの間にか老いている事実が、受け入れがたかったのかもしれない。
「ご、ごめんね……。」
初めて反抗した息子の、想像以上の腕力に、怯えて謝る母を見て、俺はなぜか絶望した。
あんなに強く、頼もしかった母が、恐怖に染まった目で、蔑むような目で俺を見る事実に。
それからは、俺に怯える母にイラついた。
イラついた分、力で黙らせた。
俺は、いつの間にか強くなっていたのだ。
気に食わなければ、怒鳴って、殴って。怯えて黙る母は、俺の支配下にあると。
たまに優しい言葉を書ければ、縋る、怒鳴れば、怯えて小さく蹲る、その姿を見て勘違いしていた。
俺が支配しているのだから、捨てられるわけ無い、と。
「おい、ババア。飯はまだかよ?」
いつもなら、晩御飯の匂いがしてくるはずの時間。
ふと、静かすぎる家に違和感を覚えて階段を降りた。
パートに行く以外、特に趣味の無い母は、夜に出掛けることなどない。
だから、こんな時間にいないなんて事、一度もなかった。
「何だよ、まだ怒ってんのか?」
どこの部屋にもいない。
電気もついていない。
いつから?
今日はパートなのか?
ぐるぐると回る頭の中。
趣味の一つも持たず、俺を育てることだけに全てを尽くしてくれていた母。
父親に殴られ、タバコを押し付けられても、身を挺して庇ってくれた。
母を助けられない弱い自分が嫌だった。
部屋で1人で泣く母に、何もできない自分が辛かった。
人を守れる力が欲しかった。
日曜の朝、パートが休みの母と過ごす時間。
『地球の平和は俺たちが守る!』
『大切な人を守る力なんだ!』
母が作る朝ごはんの匂いに包まれ、愛を感じるだけの幸せな時間に流れる、愛と勇気の物語。
いつかテレビに出てくるヒーローのように、大好きな母を守りたい。
体も大きくなり、力も強くなったのに、俺は母に捨てられること、見限られることを恐るようになった。
俺がやっていることは何なんだ。
あの、憎むべき父と同じじゃないか。
自分に自信がないから、力で支配するなんて。
これじゃあ、ヒーローじゃなくて、怪人の方だろ。
わかっていても素直になれないそんな気持ち。
言わなくたって、お母さんはわかってくれると、甘えていた。
まさか、俺は、捨てられたのか?
真っ暗な部屋の中思考が止まる。
恐怖を振り払い、布団に入った。
明日の朝になれば、
『ユウちゃん、ご飯できてるからね。お母さんパート行くから、気をつけて学校に行くのよ。』
返事もしない俺に向かって、ドアの前から声がかかるはずだから。
けれど、朝になっても。
その声が聞こえることはなかった。
「何か事件に巻き込まれたのか?」
そういえば、強盗が流行る世の中だ。
何があってもおかしくない。
俺は、財布と携帯だけを持って、家を飛び出した。
警察にも連絡し、探し回った。
昼過ぎになり、がむしゃらに探し回っても仕方がないと、公園のベンチに腰掛け、思考を巡らせた。
仕事先、近くの商業施設、ホテル。ネットカフェ。
違う。母が行きたいと思う場所はどこだ?
両親は、虐待で逮捕後に縁を切ったと聞いた。
同じ理由で俺の父のところに行くわけがない。
親族なんていないし、仲のいい知人もいない。
親族……。
『私は、姉さんみたいに上手く生きられないから』
ふと、年に一度年賀状が来る程度の付き合いしかない隣県の叔母を思い出した。
頼って行ったとは考えにくいが、今は手がかりが無い。
年賀状に電話番号が書いてあったか?
今から家に取りに戻って探しても……いや、もしかしたら、俺の携帯に……。
焦ってうまく動かない指を必死に動かして携帯のアドレス帳を見る。
『叔母』
「あった!!!」
コール音がもどかしい。
早く出て!!頼むから!!
「もしもし?ユウちゃんなのよね?どうしたの?」
母に似た、少し柔らかい声に涙が浮かぶ。
保護されたのち、違う施設で育ったらしいが、
施設を出る時に、連絡先の交換は済ませていたそうだ。
俺自身、幼い頃とはいえ、片手で数えられる程度は会ったことがある。
「おばさん、かあさ……母を知りませんか。」
「どうしたのユウちゃん。泣いてるの?何があったの!」
俺の声から、只事ではないと察してくれたらしい叔母。俺は、泣きながら現状を伝えた。
母に手を挙げたことは言えず、ちょっと喧嘩をして、とだけ。
「そう、それなら、私のところに来るとは思えないけど、良い大人だもの、少し頭を冷やしたらきっと帰ってくるわ。あなたの事を、何より大切にしていたもの。でも、そうね。お母さんがいないと、まだ大変な時期よね。一度ウチにいらっしゃい。学校にも、妹にも連絡してあげるから。」
その言葉を受け、俺は『仲が良くないとはいえ、もしかしたら、母も姉に会いたくなっていってるかもしれないし』などと軽く考えながら、電車で1時間かからない隣県へと向かった。
駅前の待ち合わせ場所に着くと、少し離れたところから、母とよく似た女性、そして成人済みの長女らしき女性と、叔母の夫であろう男性が歩いてくるのが見えた。次女は少し離れた高校の寮にいるとか言っていたか。
「おばさーー」
声をかけようとして、そちらに一歩踏み出したその時。
「母さん!?」
道路を挟んで反対側の歩道に、虚な目で叔母を見る母がいた。
俺にはおそらく気づいていないだろう。
無事で良かった。
今までのことを謝って、感謝してることや、本当は大好きなことを伝えよう。
照れくさいけど、何か花でも贈るのはどうかな、好きな色はオレンジなのは知っているけど、好きな花や好きなものはあまり知らないや。
それらが頭を通り過ぎた瞬間。
母は、何かに引き寄せられるように、ふらりと道路に出た。
「危ない!!」
向こうから、車が来ているのが見えた。
俺は、母さんを、助けたいんだ。
母さんを助けるヒーローになりたかったんだ。
気がついたときには、ガードレールを飛び越え、母の元に駆けつけていた。
伸ばした手は、届かない。
最後の瞬間、母の目はこちらを向いてはいなかった。
おそらく即死だろう。俺はというと、運がいいのか悪いのか、一瞬暗転した後、少しだけ意識を取り戻した。
全身の激痛と、それすら薄れていく感覚。
思うように動かない体を感じながら、僅かに動く左手を伸ばして、ぴくりとも動かない母の手を握り、
「……ごめん、母さん。……大好きだったんだ。」
遅すぎる謝罪を口にした。
きっと、もう母の耳には届いてないだろう。
悔しさと、後悔だけが残る、短い一生を終えた。
生まれ変わったらヒーローになりたい。
誰も傷つけないように、誰も傷つかないように。
☆☆
「……手短に説明させてもらうけど」
目が覚めたそこには、よくアニメや映画に出てくる女神に似た何かがいた。
温かみのある優しい声とは思えない、疲れ切った、不満を隠そうともしないその声に、俺は地獄に落ちたのかな、と考えた。
母を死ぬほど追い詰めたのは俺だ。
こんな俺が天国に行けるなんて、思えないから。
「あなたの魂を、地球から貰い受けたの。想定してた女の魂が逃げたから、とりあえず近くにあったもう一つを無理言って譲ってもらったんだけどね。」
なんだそれ。
近くにあったからとかそんな理由でもらわれるとか、意味わからん。
「個人的には、もう少し円熟した……せめて成人してる魂がよかったんだけど……仕方ないわ。
あなたがこれから生まれ変わる世界は、地球でいうところの、ファンタジーの世界に近いわ。魔法や魔物、魔王や勇者がいるのよ。」
勘弁してくれよ。
そんな碌でもない世界行きたくないんだけど。
「えええっ!?地球の、特に日本人はそういうのが好きじゃないの!?今までの人たち、大喜びで行ったわよ!?」
……心の中も聞こえるのか。
「いわゆる神様ですし。疲れ切ってるのは、あの女のせいよ!」
……あの女が誰かは知らないけども。
大迷惑だな、おい。
「で、特に希望がないならこのまま転生ってことになるわ。希望があるなら先に伝えてくれる?」
見た目や、能力を先に指定できるのか?
金持ちとか、イケメンとか。
「簡単に言えばそうね、スキルとかを希望する人も多いけど……。」
見た目は、そりゃまぁ良いに越したことはないよな。
後、魔法?も、よく分からんけど使えた方がいい。
あとは………それなりに金がある家に生まれりゃ困らないだろ。
それと、俺、ヒーローになりたいんだよなぁ。
「勇者は、因子がなとなれないから、無理よ?」
勇者じゃないな。
世界を守るほどの勇気なんて無いし。
魔王を倒さなきゃいけなくなるんだろ?
俺は、誰かを殺すのも、殺されるのも、うんざりだ。
人を守って、助けて、自分も痛い思いせずに生きていきたいんだよ。
「なんか、変わった子ね。じゃあ、痛覚遮断と、防御系の魔法能力を最大にしておくわね。後、攻撃に脱力と魔力吸収をつけて、相手の気力を奪う呪い系の魔術を組み込んで……。」
変身できたらいいなぁ。
悪者を懲らしめるような、必殺技とか撃ったりしてさ。
「変身?よく分からないから、変幻の魔法と、必殺は流石に無理だから、『必殺の意思』を込めた時に発動する攻撃力増加と、命中率アップ、とかでどうかしら。あとは、守るためにはバリアと、回復系の魔法ね。初級だけど、鍛えれば中級くらいまでは使えると思うわ」
いいね。
じゃあ、それで。
「配置したいのはミルド王国。伯爵家の次男くらいなら空いてそう。じゃあ、楽しんでいきてちょうだい。」
その後俺の意識は暗転し、物心ついてこの記憶を取り戻したのは、5才になった頃だった。
その後は特に不自由なく生きた。
俺が生まれてすぐ母が亡くなっていたのは、何だか前世の罪の現れな気がする。
生まれ変わっても、母の愛情を受ける資格はないと、そう言われているのかと。
とはいえ、乳母もいたし、父や兄もそれなりに優しく、厳しく、愛情を持って育ててくれた。
軍事国家らしく、この国は兵役もあったが、一般人よりは高い能力を持っていたため、特に苦労をすることもなかった。
変身スキルなんかは家族にも隠して、たまに夜の見回りだ、なんて言いながらちょっと困っている人を助ける。
平民たちの間で、こそっと囁かれるヒーロー。
俺にはそれで十分だった。
自由気ままな次男の立場で、冒険者なんぞをやりながら、ふらふら生きていたそんなある日。
帝国側の不審な動きを警戒した国が、冒険者に偵察の依頼を出していた。
依頼元も、金払いも信頼できるし、多少安いとはいえ、狩りをしながら街道の様子を伺うだけ。
金に困ってない俺としては、何とも都合がよく、
数日に一度出される、一部で人気の依頼だった。
「お、偵察依頼あるじゃん。」
俺は、ちょっとした小遣い稼ぎと思い、鼻歌混じりに、その依頼を受注したのだった。
それがまさか、あんな化け物と戦うことになるなんて。