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11.旅立ち 1

『誓約の儀を執り行います。つきましては、夜の書院へお越しいただきますようお願いいたします』

 簡潔でどこか冷たい文面の手紙を握りしめたレネは、ふらつきながらもたくさんの荷物で膨らんだリュックを背負い、夕暮れの光が差し込む質素な部屋の扉を開けた。

 誰にも会わないうちに宿を出ていくつもりだったのに、扉の向こう側にはすでに炊事婦の女性が待ち受けていた。

「行くのかい?」

 短い問いを向けてくる彼女に、レネは無言で頷く。

「ほら。これ、持っていきな」

 レネの手になかば無理やり押し付けるように、小さな包みが渡される。開いてみると、焼き立てのパンと大量の焼き菓子が良い香りを辺りに漂わせた。

「ありがとうございます」

 小さな声で礼を言うレネの体を、恰幅の良い太い腕が力強く抱きしめた。

「元気でやるんだよ。近くに来たら、またいつでもおいで。待ってるから」

 温かい腕の温度に、ふと泣きそうになる。

 柔らかな黒い光を纏った鱗粉が、視界の端を舞った。

 ゆっくりと踏み出した街の片隅。赤みを増した空の下を、いつか見た男の子が笑いながら通り過ぎていく。片手を母親と、もう片方の手を妹と、しっかりと繋ぎながら。

 幸せそうな家族の姿を追い越して、レネは荘厳な城を思わせる建物へ向かった。

 軋む扉をゆっくりと開いて、たった一人で中に入る。カウンターの内側でレネを待っていた女性は、何か言いたげな表情をし、結局何も言わないままレネを建物の奥へと案内する。

 分厚い扉の応接室に入ると、背の高い老女が一人、深い色合いのソファーから立ち上がった。

「ようこそ、レネ。呼び出してごめんなさいね。儀式の前に、少しお話しをさせていただきたいのよ」

 上品に纏められた銀色の髪。鋭く、知性を感じさせる緑色の目。深い黒のローブ。まるで魔女のようないでたちの女性は、静かに向かいのソファーを示した。

 荷物を下ろし、示された席に着くレネに、女性は柔らかな笑顔を向けた。

「初めまして、ね。ここで、誓約守をしているマリエル・アストリッドよ。もう、あの子から話は聞いているかしら?」

 淹れたての紅茶を運んできた受付嬢が扉を閉めるなり、彼女はレネに言葉をかけてくる。あの子、というのが誰のことなのかわからず、レネは小さく首を傾げた。

 無言のまま困った表情を浮かべるレネを見たマリエルは、微かなため息を吐いた。

「まったく。その様子だと何も話さなかったのね、エリアスは」

「……えっと」

 戸惑うレネに、マリエルは苦笑を向けた。

「エリアスは、私の弟子なのよ。もう、ずいぶん昔に独り立ちしたけれど」

「あ……。自分を拾ってくれた、ノクターがいたと言っていました」

「そう、それが私ね」

 いつかした話を思い出し、レネの瞳がわずかに潤む。

「あの子のことは聞いたわ。こんな言葉しかかけられないけれど、大変だったわね」

 微かに頷いたレネは、マリエルに深く頭を下げた。

「ごめんなさい」

 その様子に、目の前に座る老女は静かな視線を向けた。なぜ謝るの、と。

「私のせいで、エリアスは」

 ルゥアが悲しみに飲まれ、ウィープとなりかけたレネ。それを救ってくれたのは、エリアスだった。

 エリアスは街を浄化したときと同じように、レネの抱えている悲しみを全て引き受けて、自分がウィープになることを選んだのだ。そうして、自ら悲しみとともに消えてしまった。

 レネの頬を伝った涙が、コーヒーテーブルに落ちて砕けた。

 マリエルが、無言のまま真っ白なハンカチを差し出して来る。

「話したかったのは、あの子のことなのよ」

 レネの涙が止まるのを待って、マリエルは静かに言葉を紡いだ。

「あの子の幼少期については、聞いたことはある?」

「はい。全部知っているわけではないですが」

 レネの言葉に、マリエルは静かに頷いて紅茶を一口飲み込んだ。

「私の知っているエリアスは、自分を顧みない子だったの。誰かに尽くすことで、自分の価値を見いだそうとする子だった」

 ……必要とされたかったんだ。

 いつか聞いたエリアスの声が、レネの脳裏に甦る。

「誰かの悲しみを背負って、肩代わりすることで、自分が必要とされたかった。エリアスは、そう言っていました。そのせいで、昔はずいぶん無茶をしたって」

「そう。その通りだったわ」

 目の前に座るマリエルが、困ったような苦笑を浮かべた。

「レネ。あなたは見たことがあるでしょう。あの子は悲しみを浄化するとき、その悲しみを全て自分で背負いこもうとするのよ」

 静かに頷いたレネを見て、マリエルは先を続ける。

 他者の悲しみを背負うことで、人を救うノクターも確かにいる、と。

「だけど、他者の感情を背負うということは、そのぶんウィープになってしまう可能性も大きかった」

「引き受けた感情に、飲み込まれてしまうから……?」

「ええ、その通りよ」

 マリエルは静かに頷くと、窓の外に広がる夕空に目を向けた。微かなため息が、静かな部屋にやけに大きく響いて消えた。

「ずっと心配だったのよ。エリアスは、他人の感情を上手に無視できるような器用な人間じゃなかったから。人の感情に敏感で、悲しみに共感してしまうような優しすぎる人間だったから」

 寂しさを感じたとき。不安になったとき。苦しいとき。いつも一番欲しい言葉をくれた人だった。

「だから、いつか感情に飲まれて、あの子がいなくなってしまうんじゃないかって心配だった」

 憔悴しきった心で、無理に笑顔を作ったような。今にも壊れてしまいそうな苦笑を浮かべたまま、マリエルがふっと息を吐く。

「その通りに、なっちゃったわね」

 俯いたレネの口から、再び謝罪の言葉が漏れる。

「……私が、自分の悲しみに負けてしまったから」

「レネ……」

 老女は透き通る緑の瞳を伏せると、はっきりと首を振った。

「違うわ。そうじゃないの。あの子はずいぶん前から、もう浄化には耐えられない状態だったのよ」

 それを自覚して、ノクターを引退するつもりでいたみたいなの。

 そう言ったマリエルは、少しよれた涙の痕が残る手紙の束をそっとレネの前に差し出した。

「これ……?」

「エリアスから届いていた手紙よ」

 いつの間に書いていたんだろう。いつの間に、出していたんだろう。

 丁寧だけれど、少し癖のある字で書かれた手紙には、ここ一年の出来事が綴られていた。

 悲しみを抱えた少女、レネと出会ったこと。本人が望むなら、ノクターとして育ててやりたいと思ったこと。そこに、困ったときは頼らせてくれと、少しだけ不安そうな一文が付け足されている。

 花の町で、彼女にノクターの素質があると判断したこと。自分の目には狂いはなかったと、自信に満ちた表情が目に浮かぶ一言を添えて。

 水の都では、自分の助言がなくてもレネがルゥアを癒せたことを、言葉の限り褒めている。一緒にいることが楽しいという、何気ない報告がそこに混じっていた。

 灰の町で書かれた手紙には、浄化を行ったことが書かれていた。体調に異変はないこと。けれど、自分をノクターの監視対象にしてほしいと願う文が、ひどく簡潔に書かれている。

 祈りの町で書かれた手紙は、レネがもうすぐ自分の感情と向き合えそうだ、必ず癒してやりたいという内容だった。彼女が前を向けたら、自分のほうが置いていかれるかもな、という冗談も書き込まれている。

 一番新しい手紙は、ミストアルプ地方で書かれたもの。レネがノクターになることを決意してくれたことが、喜びに少し乱れた文字で綴られている。彼女は必ずいいノクターになる。紹介する日が今から楽しみだ、と。

『レネが無事にノクターになれたら、俺は引退しようと思う。彼女が望むなら、その未来を支えていくつもりでいるんだ。今まで、たくさん心配をかけて悪かった。もう安心して大丈夫だから』

 大丈夫。

 何度も、何度も、エリアスが口癖のように繰り返していた言葉。その言葉が、ひどく恨めしかった。

「置いていかれたほうは、ぜんぜん大丈夫じゃないわね」

 切れ長の目を再び窓の外に向けて、老女がぽつりと呟く。その口元には苦笑が浮かんでいるけれど、涙をこらえていることが、声の震えから伝わって来た。

「こんなことを言っても、あなたを混乱させてしまうだけかもしれないけれど」

 遠く、美しいグラデーションを描く空の彼方に目を向けたまま、声の震えを消し去ったマリエルが言葉を続ける。

「エリアスは、生きることから逃げていたわけではなかったの」

 他者の感情を背負い、悲しみに飲まれそうになりながらも、死に急いでいたわけではなかった。幼いエリアスを引き取り、育て上げたマリエルは、そう言って強く目を閉じた。

「浄化のできなくなった、不完全なノクターだと周りから蔑まれても逃げたりしなかった。ただ生きるために、自分のあり方を変えようとしていた。生きる道を、探そうとしていた」

「それなのに、なんで」

 冷静に放ったはずの言葉が思った以上に鋭くて、レネは口をつぐんだ。揺らぐことのない緑色の目が、そんな彼女に向く。

 レネは深く息を吸うと、つかえたままになった言葉の先を声に出す。

「なんで、あんなことをしたの……? 私のことなんて放っておいてくれれば、エリアスは消えてしまうことはなかったのに」

 向かいに座っていたマリエルが静かに立ち上がる。

 何を言われるのだろうかと身構えるレネの隣に屈んだ彼女は、静かにその頭を優しく撫でた。

 事あるごとに、頭を撫でられたことを思い出す。あれは、彼自身がしてもらってきたことなのだろう。

「放っておけないほど、エリアスにとってあなたは大切な存在だったのね」

 命を懸けてでも、守りたいと思うほど。

 その言葉が重くて、重くて、押し込めたはずの涙が再び溢れ出す。

 黒い鱗粉が、なぐさめるように降り注いだ。

 窓から差し込む柔らかな日差しが、悲しみに寄り添うように部屋を照らし続けた。


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