10.想い草の別れ 1
重い羽音が耳に届いた気がして、レネは静かに振り返る。
どこか冷たさを感じさせるベビーブルーの瞳に、歪な黒い影が映り込む。大きく肥大したルゥアが、裂け目だらけの翅を懸命に動かして宙を舞っていた。重そうな体は、今にも地に落ちてしまいそうだ。
「なんで……?」
まるで不吉なものでも見たかのように、レネが震える声を出した。
エイラの村に留まる悲しみを全て浄化したら、それで終わりだと思っていた。自分の持っている悲しみも、すべて消えてなくなるのだろうと。そうして、前に進んでいけるものだと思っていた。それなのに、千切れた翅を無様に羽ばたかせる黒い蝶はいまだにその姿を保っていた。
「なんで、消えないの?」
レネの表情に、恐怖の色が滲んだ。
「もう、悲しみは癒したでしょう。村の人たちは、もう浄化したのに。それなのに、なんで消えてくれないの?」
頭の中が痺れて、不安な感情のままに言葉だけが次々飛び出し、ルゥアを否定した。
「私は悲しくなんかない。ルゥアなんか、必要ない。私はもう、大丈夫なのに」
「レネ! やめろ!」
血相を変えたエリアスの大きな手が、レネの口を塞ごうと迫ってくる。しかし、言葉は止まらなかった。
「お願いだからもう、私の前から消えてよ! 気持ち悪い!」
その瞬間、レネの目から零れた水滴が、ひどくゆっくりとその頬を伝った。
何で、涙なんか。
苛立つ気持ちに任せて、乱暴に目元を拭ったレネの手が、止まった。その手の甲。拭い去った涙の代わりに、真っ黒なタールが付いていた。
哀血。エリアスが、いつかそう呼んでいたもの。
傷ついた心から流れる、血。
そこから美しい黒い蝶が生まれ、翅を広げて飛び立つ。一羽。また、一羽。次々に宙へと舞い上がった蝶は、目の前に浮かぶ巨大なルゥアに吸い込まれ、姿を消していく。そのたびに、ルゥアはより大きく、より醜く変貌を遂げていく。
巨大な翅が一枚増え、すでにあった翅が千切れ、細い体は抉れ、捻れ、汚れていく。そうしてルゥアは、少しずつ蝶の形からかけ離れていく。それでも黒い涙は止まらず、レネの悲しみを癒そうと、次から次へと小さな蝶は生まれ続けた。
その巨大な翅が大きく広がって、レネを包み込もうと迫ってくる。
恐怖に思わず目を閉じた瞬間、誰かの腕がレネの体を抱きしめた。
「レネ!」
耳に馴染んだ優しい声。温かい手。いつだって欲しかった言葉をくれた声。レネの心に不安が生まれるたびに、誰よりも早くそれを感じ取ってくれた人。
「エリアス?」
おかしいほど掠れた声で名前を呼ぶと、闇に閉じていく視界の中、温かいオリーブグリーンの目が優しく細められた。
巨大な蝶の翅が少しずつ迫って、視界が徐々に暗くなる。
怖い。
強張った体からレネの気持ちを察したのか、エリアスの腕に力が篭った。
深い闇色の翅が閉じ、真っ暗な空間に閉じ込められる。夜の底。自分の指先すら見えない闇に、レネの呼吸が早くなる。
とっさに炎を灯そうとしたレネの手を、エリアスの手が包み込んだ。
「レネ」
こんな状況に置かれているというのに、その声を聞くだけで気持ちが和らいだ。
「レネ。おまえ、向き合えていなかったんだ」
「そんなはず……っ」
そんなはずはない。
心の奥で、声がした。
忘れてない。理解してる。村で何があったかは覚えているし、それを説明だってできる。だって、悲しみはもう乗り超えたから。
目の前を、砕いた黒曜石のような鱗粉が舞った気がした。きらりきらりと舞い落ちる光が、混乱する心を静めていく。
本当に?
ふと、思う。
本当に自分は、悲しみと向き合っていたのだろうか。
震える手を持ち上げて、静かに胸に当てる。ぽっかりと穴が空いていくような。真っ暗な闇に飲まれていくような。そんな感覚が甦る。
エリアスと出会って、薄れていた感覚が。
「ちがう」
薄れていたんじゃない。見ないふりを、していたんだ。悲しみを受け入れられなくて。心が抉れていくような感覚を忘れたくて。必死に、必死に、目を背けた。
「受け入れて、なかった」
耳の奥に、雪が流れ込むときの轟音が響いた。おびただしい悲鳴と、両親が自分を呼んだ声。その口調さえも鮮明に甦っては、心を抉る。一瞬のうちに雪に掻き消された村の様子が、細部まではっきりと脳裏に甦っては、悲しみを誘う。
今、やっと気づいた。大丈夫じゃ、なかった。
「私、悲しかったんだ。悲しかったことにすら、気が付いていなかったんだ」
そんなふうに必死に目を逸らさないといけないほど、心が傷ついていたんだ。
言葉にしたら、止まらなくなった。嗚咽を漏らしながら。声を上げながら。泣いて、泣いて、泣いても、悲しみはなくならない。滾々と湧き上がる水のように、絶え間なく心を塗りつぶしていく。
「レネ」
エリアスが、静かに名前を呼んでくる。ただ、隣にいることを伝えるように。
温かい声。温かい手。その温度にすがるように、目を開ける。
「悲しかったな」
頭の上から降って来るような言葉に、レネは小さく頷く。
「苦しかったな」
首を縦に動かすたびに耳元をくすぐる、衣擦れの音が心地よかった。
「よく、頑張ったな。もう、大丈夫だ」
目を見開いて視線を上げるが、暗闇に紛れたエリアスの顔はどれだけ目を凝らしても見えなかった。ただ、優しい声だけが伝わってくる。
ぼたり、と。
顔を上げたレネの頬に、生温かい何かが落ちる。微かな悲鳴を上げるレネの頬を、エリアスの手が拭った。けれど、まるで降りしきる雨のように、大粒の雫は次々にレネの頬を濡らしていく。
「ルゥアが……」
真っ暗な闇の中だというのに、二人を包む巨大な翅が溶け出しているのがわかった。
大きすぎる悲しみに飲み込まれて、ルゥアが限界を迎えたことが、はっきりとわかった。
「ルゥアが、消えちゃう」
「ああ。悲しみに飲まれた」
生温かい雫に触れた頬が、手が、体が、じくじくと痛んだ。
降りしきる雫からレネを守るように、エリアスの体が覆いかぶさってくる。
「私、ウィープになるの?」
恐怖と不安に震える声で、レネが呟いた。その瞬間、エリアスの微かな声が耳に届いた。
「ならねえよ」
どこか優しい声は、深い暗闇の中でも彼が笑顔を浮かべていることを伝えた。




