9.凍土の夢 3
瓦礫の山と化した村は、ひどく重苦しく、物悲しい雰囲気に包まれている。
「まだ、村人の悲しみが残ってる。浄化しないと、いけない」
エリアスは言葉を区切り、何かを懸念するように震える自分の手を見つめた。
「エリアス。やらなきゃいけないなら、私にやらせて」
レネの言葉に、弾かれたようにエリアスが振り向く。その目は大きく見開かれ、息を飲むほどの動揺が浮かんでいる。
「だめだ、やめろ」
「どうして? この間も、そう言って教えてくれなかった」
互いに視線を絡ませたまま、沈黙が広がる。風の音だけが、二人の間を過ぎ去った。
エリアスは長いため息を吐くと、言葉を絞り出す。
「代償がいるからだ! 時には、命に係わるほどの。おまえには、やらせたくない」
普段からあまり感情の揺れを表に出さないエリアスが、声を荒げるところを始めて見た。
「生きてる人間が悲しみを癒すのに、手を貸すこととは違うんだ。もう癒えることのない悲しみをこの世から消すには、誰かが代償を払うしかない」
「あなたがやったように、悲しみを代わりに背負えばいいの?」
何かを悟ったような強い目で、レネがエリアスの瞳を覗き込む。誤魔化しはいらない。そう言いたげなレネに、エリアスのこめかみを汗が一筋伝った。
「悲しみを引き受けること。あるいはノクターの幸せだった記憶。感情。残された時間。支払うものは、悲しみの重さと釣り合えば何だっていい。けど、何を選ぶにしたって、軽くはない」
「それなら、なおさら私がやる」
「レネ!」
咎めるように名前を呼ぶエリアスに、レネはひどく悲しそうに笑った。
「だって私が村のみんなにしてあげられること、これが最後なんだよ。お願い、やらせて」
ゆっくりと立ち上がったレネに、エリアスは眉間に深く皺を寄せて苦し気な表情を浮かべた。目を閉じろ、と、短い言葉がレネの耳に届く。
「目を閉じて、ルゥアを呼ぶんだ」
瞼を閉じると、あちこちをさ迷う黒い蝶が見えた気がした。悲しみに疲れ、絶望の中をさ迷い、傷ついてぼろぼろになった蝶の群れ。宿主を亡くし、さ迷っている悲しみの群れ。
「おいで」
囁くようなレネの言葉に応えるように、無数の黒い蝶たちが村の一角に集まってくる。
以前、灰の町でエリアスが集めた蝶よりも数が多い。行き場を失くした悲しみが集まって、空を真っ黒に覆い尽くしている。暗い感情が渦巻いて、空気が重くなった気がした。耳を塞ぎたくなるような羽音が頭に響き、絶望が肌を刺す。息が、苦しい。
「レネ、大丈夫だ。あとは、言葉で癒やせ」
エリアスの手がレネの背中を支える。たったそれだけで、不思議と息苦しさが消えた気がした。
「言葉でって、何て言えばいいの?」
「浄化は契約だ。おまえのやり方でいい。悲しみから解放してやれ」
エリアスの言葉に、レネが頷いた。
灰の町。一度だけ見た、エリアスの浄化を思い出す。あの時、語りかけていた言葉を。
レネは大きく息を吸い込むと、心のままに言葉を放つ。
「みんな、助けられなくてごめんね。苦しかったね。冷たかったね。痛かったね。でも……」
あの時エリアスは、悲しみを引き受けると言っていた。けれど、自分に受け止められるだろうか。自分の悲しみさえ受け止めきれずに、ずっと見て見ぬふりをしていた自分に。他者の悲しみを全て受け止めて、笑って歩むことはできるだろうか。
自分は、そんなに強くないのに。
口から出かかった言葉を、レネは飲み込んだ。ここで言葉を間違えたら、悲しみが二度と消えない気がして。
目を閉じて、弱い自分を受け止める。誰かの悲しみを背負うことはできないけど、代わりに開放することはできる。
「でも、もうその悲しみは終わりにしよう。代わりに、幸せだったころの私の記憶をあげるから」
辺りに渦を巻くように舞い飛んでいた蝶たちが、仄かな光を放ち始めた。
ゆっくりと光りが散るように、蝶が世界に溶けていく。
最後の一羽が光に変わった瞬間、ひどいめまいに襲われた。足元から力が抜けたレネの体を、エリアスが支えて座らせる。
目の前に広がる廃墟群。そこが故郷のエイラの村だということはわかるのだが、なぜか、何の感慨も湧かなかった。悲しみはすべて消えた。それなのに心のどこかが空っぽで、自分が自分ではなくなったような、不安定な感覚に襲われる。それがほんの少しだけ、寂しく感じた。
「よくやったな。上出来だ」
エリアスが、レネを支えていた手を離した。
「……嘘だよ」
レネが、絞り出すように言葉を放つ。
「私、エリアスみたいに悲しみを背負ってあげられなかった。そんなに強くなれなかった」
「悲しみはちゃんと消えたんだ。おまえのやり方は、間違いじゃない」
「でも」
それでも自分を責めようとするレネの頭を、エリアスが撫でた。
「いいんだ。肩代わりすることだけが、正解じゃない。おまえはちゃんと、悲しみを開放したんだから。けど」
エリアスが、また苦しそうな表情で俯く。
「頼むから、もう二度と浄化に関わろうとしないでくれ。今回は村とお前の間に繋がりがあったから、おまえ自身の過去の記憶を代償にできたかもしれない。けど、次はそうはいかないかもしれない。おまえには、犠牲になってほしくない」
「……はい」
静かに頷いて、レネは明るい日差しに照らされた風景に目を向ける。
廃屋の立ち並ぶ村を、静かな風が吹き抜けていく。遠い空を行く雲と、確かな温度で降り注ぐ光。そこには、もう陰りはなかった。
ただ一つ。大きく悲しみを吸いこんだルゥアの姿を除いて。




