9.凍土の夢 1
夜の書院は、世界各地に散らばるノクターたちの所在を掌握し、ときには支援を行うための組織だ。新たにノクターとなる者は、夜の書院が実施する試験を受けた後、誓約の儀を果たす必要があるという。
世界中に支部を持つ夜の書院だが、レネが受験地に選んだのは彼女が初めてエリアスと出会った街、ルーセルに作られた支部だった。
まるで城かと思ってしまうような、荘厳な印象の石造りの建物。その扉には、黒い輪と六芒星を象った印が刻まれている。夜の書院のシンボルだ、とエリアスが教えてくれた。
堂々とした足取りで中に入り推薦状を提出したエリアスは、にこやかな受付嬢に案内されて建物の奥へ入っていくレネに、笑顔で手を振った。別行動になることを知らされていなかったレネは、緊張しながらも割り当てられた部屋へと足を進めた。
ルゥアに関する筆記試験。基礎能力の適性審査。魔力値の測定と属性の適性審査。複雑な性格診断テストと面接試験。実地に赴いて行われる、実技試験。
泊りがけで、四日間にもわたって行われた試験の合否は、五日目の朝にはあっさり知らされた。
誓約の儀は十日後に執り行うことを告げられたレネは、夜の書院を出たところで待ち構えていたエリアスと再会した。
事前に、レネの合否を聞いていたのだろう。エリアスは、彼女の顔を見るなり、肩まで伸びた黒い髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。よくやったな、と。
「誓約が済むまで、しばらく街に滞在だな」
そう言ったエリアスは、ちょうど一年ほど前に泊まった宿へとレネを案内した。
旅に出たまま帰らない息子を案じていた宿の炊事婦は、レネの顔を見るなり優しい笑顔で温かい食事を出してくれた。その隣では彼女の面影を残した青年が、皿洗いを手伝っている。
「あの。その方、もしかして……?」
「気が付いたかい? ようやく帰って来た放蕩息子さ。あんたたちが旅立った少し後に帰ってきたんだよ」
遠慮がちに聞くレネに炊事婦は快活な笑顔を向け、青年は皿を洗う手を動かしながら、楽しそうに鼻歌を歌う。小さな宿屋のけして広くはない食堂に、穏やかな時間が流れる。親子の間には笑顔が溢れ、黒い蝶はどこにもいない。ただ、幸せそうな空気だけが辺りに漂っている。
胸を温めるような、穏やかで幸せな光景。
ああ、幸せそうだ。
ふとそう思った瞬間、レネの胸がちくりと痛んだ。ずっと閉じ込めていた悲しみが存在を主張するような、そんな痛み。
私には、そんな幸せはどこにもないのに。
黒い、どろどろとした感情が、熱を持って喉の奥に込み上げる。それを飲み下すように、レネは慌てて首を振った。
私は大丈夫なんだから、と。
大丈夫。悲しみなんて、もう乗り超えられる。
楽しそうな鼻歌は、途切れることなく続いている。
食堂の片隅で、不意に視線を落としたレネの横顔をエリアスが静かに覗き込んだ。いつもの温かい声が、レネの名前を呼ぶ。
「どうした?」
微かな問いかけに、レネは一瞬、言葉を探して黙り込む。
「……ねえ、エリアス」
微かな声は、深く響く鼻歌に掻き消されることもなく、隣に座るエリアスにきちんと届いた。どうした、と視線で問いかけてくる彼に、レネは静かに言葉を返した。
「エイラに、行ってもいい?」
呟いたレネの言葉は、わずかに震えていた。すぐ横。少し伸ばせば手が触れそうなほど近くにいるエリアスは、静かに凪いだオリーブグリーンの目をレネの少し後ろに向けた。
「エイラ?」
問い返すエリアスの声に、レネは静かに頷く。
「うん。私の、生まれ育った村」
呟いたレネの目の前を、突然黒いものがよぎった。はっとして視線を上げる。エリアスの意味ありげな視線の先を追って、振り返る。
黒い鱗粉が、まるで降りしきる雪のようだった。光のように。闇のように。砕いて粉にした黒曜石のように輝く鱗粉が、レネの後ろに降り積もっては儚く消えていく。
幸せな時間が流れる、食堂の片隅。そこに、ルゥアがいた。
大人の背丈ほどもありそうな、巨大な翅。その翅は、あちこち裂けて穴が開き、どうやって飛んでいるのかわからないほど傷ついている。黒く塗りつぶされたような色合いの胴体は醜く膨れ、細い足もところどころ欠けている。
少し前。山小屋で出会った老婦人のルゥアを思い出す。長い月日を宿主と共に過ごしたはずの黒い蝶は、艶やかな漆黒の翅を持ち、息を飲むほど美しかった。けれど、今目の前にいる蝶は、少しもきれいだとは思えなかった。同じ、ルゥアのはずなのに。
誰の、と問うまでもなく、レネにはその蝶がものだとわかった。
「なんで……? 私、大丈夫なのに」
微かな呟きが、レネの口から零れた。
「……レネ?」
気遣わし気なエリアスの言葉にいたたまれなくなって、話の途中だというのに、レネは静かに席を立つ。
足早に宿の階段を上がり、割り当てられた簡素な部屋に駆け込み、扉を閉めようとする。しかし、すぐに追いついてきたエリアスが、扉の隙間からするりと部屋に入り込んだ。
荒い息遣いが妙に滑稽に思えて、レネは苦笑を漏らした。
「見た? 今の。汚いルゥア」
自嘲するように口角を釣り上げて無理やり笑いながら、レネが震える声を出す。
「汚くない。そんな風に言わなくて大丈夫だ」
エリアスの手が動いて、レネの背中に回される。
とん、とん、と。
まるで小さな子供をなだめるように、大きな温かい手がレネの背中を優しく叩く。規則正しく繰り返されるそのリズムに、気持ちが少しずつほどけていく。
「あのルゥア、私のだよね?」
「ああ」
静かに問いかけるレネに、エリアスは静かな、どこか優しい声で答える。彼の視線が時折虚空に向けられていたことを思い出して、レネは強く目を瞑った。
「ねえ。エリアスは、いつから知ってたの? いつから、見えてたの?」
「……最初から」
エリアスが一瞬視線を落とし、ため息のように微かな声を漏らした。
―――一緒に来な。きっと、必要なことだろうから。
初めて会った日に、言われた言葉を思い出す。きっとエリアスは、あの瞬間からレネの傍らにいたルゥアに気が付いていたのだろう。
「なんで、教えてくれなかったの?」
まるで責めるような口調に、言葉を放ったレネ自身が驚く。
「ううん。どうして、私にはわからなかったの?」
他人の悲しみなら、はっきりと見えていた。旅を始める前から、黒い蝶の存在だって知っていた。それなのに、レネ自身の生み出した蝶は見えなかったのだ。今の今まで、ずっと。
「レネ」
静かな声で、名前を呼ばれる。
「悪かった。教えたくても、教えられなかった」
エリアスは、静かに言葉を並べていく。
「レネ。おまえ、ずっと悲しみを見ないふりしてただろ。自分に起こった出来事をなかったことにして、忘れて、悲しみから目を逸らして、気付かないふりをしてただろ。俺と出会ったときから、ずっと」
ルゥアは、宿主の心のあり方に影響される。いつか、エリアスが言っていた言葉だ。心が傷つくことで生まれ、心が癒えることで心に還っていくルゥア。けれど、宿主が悲しみに向き合わなければ、その姿は誰にも認識できないのだろう。
エリアスの手が動き、レネの頭を静かに抱き寄せる。
「出会ったときから、おまえのルゥアはずっと不安定だったんだ。今にも悲しみに飲まれそうで。でも、癒やすべき傷をおまえ自身が忘れ去ろうとしていたから、ときどき姿さえ保てないでいた」
それだけ大きな傷だった。
それだけ、大きな悲しみだった。
胸の奥がじくりと痛んで、腐り落ちていくような、深い深い穴が空いてしまうような、そんな感覚が甦る。ずっと。エリアスと出会ってからずっと、忘れていた感覚だ。
黒い鱗粉が視界に散って、エリアスの腕に力が篭る。
窓の外では、新芽を付け始めた木の枝を夜風がそっと揺らして過ぎた。
「忘れてしまうんなら、それでもよかったんだ。悲しみから目を背けて、ぜんぶ忘れて、そうやって生きていくことだって間違いではないから。けど、おまえは完全に忘れ去ることもできないでいたから……」
ふとした瞬間に痛む心。そのたびに虚空に向けられたオリーブグリーンの目と、優しい言葉が甦る。
エリアスは、ずっと見守ってくれていたのだろう。レネがウィープにならないように。悲しみに飲まれてしまわないように。ずっと。
「いつかきちんと忘れるか、傷を受け入れられるまでそばにいようと思った」
「……私、忘れてなんかいない」
エリアスの腕の中で、レネが微かな声を出す。その言葉に、エリアスが息を飲み込んだ気配が伝わった。
「……」
「忘れてるわけじゃない。本当は、ぜんぶ覚えてるの」
だけど、心が痛くて。心臓が腐ってしまうような、ぞわりとした感覚を。ふとした拍子に荒くなる呼吸を。他人の幸せに嫉妬してしまう醜い心を、見えないように蓋をした。
「聞いて。エイラの村は、今はもう、なくなってしまっているの。一年前に。私はそれをきちんと知っているし、理解もしてる。だから、大丈夫なの」
ただ、自分の悲しみを、きちんと整理しておきたくて。ノクターになる前に。
微かな声で告げるレネに、エリアスが頷く。
「ああ。おまえが自分のルゥアに気付いたってことは、ちゃんと向き合うときが来たってことだと思う」
そう言ったエリアスは腕を緩め、正面からレネと視線を合わせた。
「レネ。おまえにとって故郷の姿を目にすることは、たぶんかなり辛い経験になるはずだ。それでも行くか?」
エリアスの言葉に、レネははっきりと頷いてみせた。




