7.沈黙の歌い手 3
祈りの町、フィオルナは、大きな湖のほとりに佇む赤レンガの町だ。湖に立ち込める朝靄の風景や、夕暮れ時の水鏡に映る景色を見に、観光客が立ち寄る名所でもある。
交易と漁業で栄えてきた土地ではあるが、湖に出没するヴェルナートという魔物の被害に長いこと悩まされているのだという。
ヴェルナート。別名、泣き水の魔犬。水源にしみ込んだ人の悲しみから生まれたとされる犬のような姿の魔物は、人によく似た声で泣き、近寄って来た者を食い殺すという危険な存在だ。
神殿から遠く離れたフィオルナは、代々セイリスの祈歌によって守られてきた町でもある。町の中心には祈りの塔と呼ばれる祈歌を捧げるための塔があり、歴代のセイリスたちが祈歌を奉じることで魔物を遠ざけてきた。
しかし、先代のセイリスが予期せぬ事故により他界したことで、町の人々の生活は一変してしまったという。
祈歌を奉じる者がいなくなった町ではヴェルナートによる被害が増え、湖や近隣の川での漁ができなくなった。
祈歌によって保たれていた町周辺の結界がなくなったことによる被害は、漁業だけに留まらなかった。やがて街道沿いの森にも出没するようになった魔物により、交易にも影響が出たばかりか、観光に来る旅人も途絶えてしまったという。
もともと祈歌に頼り切っていた町だ。自警団はあるものの、魔物の討伐に慣れた者はおらず、町の住人は身をひそめるしかなかった。
支援の要請を受けた神殿は急ぎ新たなセイリスを遣わせることを決め、選ばれたのがセレナだったというわけだ。
傾き始めた日の光が、赤レンガの町を鮮やかに照らし出している。その町並みはとても美しいが、通りに人の姿はほとんど見えない。少しずつ空が茜色に変わる夕暮れ時。静寂に沈んだ街は、不気味な雰囲気に包まれている。
「様子がおかしいな」
不意に足を止めたエリアスが、足元に視線を落として呟く。町の入り口から続く通り。赤レンガで建てられた家の壁。踏み固められた雪。そのどれもが、まるで墨を被ったように、黒く薄汚れているのだ。
「これ、何?」
レネが眉を顰める。その隣で、セレナが不安そうな表情を浮かべた。
その時、背後から通りを駆ける足音が聞こえた。
振り向くと、息を切らした青年が慌てた様子で走ってくる。
「なあ。急いでるとこ悪いけど、町長はどこにいる?」
早々に鎧戸を閉める家が多い中、偶然通りがかった青年にエリアスが声を掛けると、家路を急いでいた青年は町の中央にそびえる塔を指差した。
「あ、あそこ。塔の、すぐ隣。『銀の門』って呼ばれてる町政舎があるから、行ってみてくれ」
「銀の門?」
「悪い。案内してやれないけど、行けばすぐわかるから!」
息を切らした口調でそれだけ言い置いて、青年はすぐそばの建物に逃げ込むように入っていった。
黒い汚れは、町中に広がっている。
人ひとり。猫の子一匹見かけない通りを歩き、三人は祈りの塔がそびえる広場へと辿り着く。
高台に作られたその広場の脇。他の建物と同じ赤レンガを積み重ねた、少し大きな建物が町政舎だろう。町の青年が言っていた通り、鈍く輝く銀の門が厳かな雰囲気を醸し出している。
夕暮れが迫る時間だが、カーテンの閉められた建物には明かりが灯っているようだ。
ひやりと冷たさを感じる門を通り、重厚感のある扉を叩く。わずかな間が空き、白くなりかかった髪をひっつめた年配の女性が現れた。四角い眼鏡の向こうからセレナの外套に付けられた銀ボタンの紋章を見つめた彼女は、慌てて三人を中へと通す。
建物に入ってすぐの広間には、来訪者を迎えるカウンターが設置されている。今は時間外なのだろう。無人のカウンターには人の姿は見えない。広間の壁や天井に等間隔に取り付けられたランプが、無機質な空間を寂し気に照らしている。
執務室だろう。広間から長く続く廊下の脇には深い色合いの木製扉が並んでいる。それぞれの扉の向こうには人の気配があり、どこか慌ただしい足音や緊迫した話し声が響いてくる。
臙脂色の毛足の長い絨毯が敷かれた建物を進み、一番奥の執務室に通される。
使い込まれた上質な書き物机に向かい、書類に目を通していたのは、少しばかり疲れの浮かぶ表情をした初老の男だった。白いシャツの上にゆったりとした青藍のローブを纏った彼に、年配の女性が耳打ちをする。途端に、男性の表情がぱっと輝いた。
「ああ、よかった! 到着が遅れていらしたので、気が気ではなかったんですよ!」
彼は、戸惑うセレナに向かって勢いよく頭を下げる。
「セレナ様、でよろしいでしょうか。旅の疲れが取れていないところ、非常に申し訳ないのですが、今すぐに祈歌を捧げていただきたいのです」
町長は、今にもセレナに掴みかかりそうな勢いで言葉を並べる。その切羽詰まった様子に、室内の空気が張り詰めていく。
「あの、何かあったんですか?」
思わず口を挟んだレネを一瞥した町長は、焦りを隠すこともせずに答える。
「祈歌の守りが消えてから、ヴェルナートが急増しているんです。すぐにでも祈歌を奉じていただかないと、町がめちゃくちゃになります」
セレナの目が大きく揺れ、ほっそりとした手が外套の襟もとを強く握り込む。
「待ってください。彼女、今、声が出ないんです」
横から割って入ったエリアスの言葉に、部屋の扉に手を掛けた町長がぴたりと動きを止めた。
「どういうことですか? 声が出ないとは?」
動揺した様子の町長の言葉に、エリアスが事情を説明しようとしたときだった。
「町長! ダメです。昨日とは比べ物になりません!」
ノックもせずに、中年の男が部屋に飛び込んでくる。
その瞬間、窓の外でけたたましい音が鳴り響いた。
鐘。
薄闇に包まれた町を静寂から呼び覚ますように、甲高い鐘の音が町のあちらこちらで響き渡っている。
部屋に飛び込んできた男を押しのけて、町長が廊下へ出ていく。その後ろ姿を追いかけて、レネは高級そうな絨毯を踏みつけ、階段を駆け上がる。
上階の窓に、人が群がっていた。
「ああ、これはひでえな」
背の高いエリアスには、人だかりの向こうが見えるのだろう。彼の口から、珍しく真剣な声が漏れる。
「何? 何があったの?」
必死に背伸びをするレネに、エリアスが魔物だ、と呟いた。
「ヴェルナートの群れに、町が襲われてる」
彼は町長に視線を向けると、静かに問いかけた。
「なあ。戦える人間は、どのくらいいる?」
「そ、それが……」
もともと祈歌の守りに頼りきりだったフィオルナの町に、魔物と渡り合える人間はほとんどいないのだろう。エリアスの言葉に、町長は言葉を濁して俯いた。
その言葉に、後から階段を上り切ったセレナの顔が青ざめる。
窓から町の様子を見ていた町長が勢いよく振り返る。彼は縋るようにセレナが着ているローブを掴んだ。
「お、お願いです! セイリスのお力で、どうにかなりませんか」
必死に懇願する町長に、セレナの表情が苦し気に歪む。その肩からルゥアが羽ばたき、黒い鱗粉が静かに散る。
ゆっくりと首を振る少女に、いつの間にか彼女を取り囲むように輪を作った住人たちが落胆の表情を向ける。あちこちから上がる他人任せなため息と、誰かを否定する囁き声。
そのざわめきに、レネの脳裏にいつか聞いた声が浮かび上がる。
『―――レネ。ああ、レネ。何とかできないか。おまえだけが……』
不意に甦った苦い記憶に、レネの目が強く閉じられる。深く、深く息を吐き、もう一度開いた目。透き通る水のように淡い色彩のその目には、強い光が篭っていた。
「責めないでください」
すっと、輪の中に歩み出たレネに、あちこちから戸惑いの視線が向けられた。
その視線を気にも留めずに、レネはセレナと正面から向き合う。
「ねえ。はぐれたのは、あなたの大切な人だった?」
光をそのまま宿したような、大きな金の瞳が潤む。セレナは何か言おうと口を開き、何も言えずにただ頷いた。
「悲しみと不安でいっぱいなのに、この町の人を守るために、全部押し殺してここまで来たんでしょう? 本当は、その人を探しに行きたかったのにね」
レネの言葉を肯定するように、少女の瞳が大きく見開かれた。どうしてわかるのか、そう問いかけるような視線に、レネは苦笑を浮かべて言葉を続ける。
「わかるよ。せっかくここまで来たのに何もできなくて、途方に暮れてるのもわかってるよ。でもね、私は全部ひとりで背負わなくてもいいのにって思う」
レネの視線がすっと動いて、辺りを見渡す。二人を取り囲むように立ち尽くす群衆が、一斉に視線を逸らした。その人だかりの向こう。エリアスだけが、目を逸らさずにレネを見ていた。
おまえのやりたいようにしていい。
オリーブグリーンの穏やかな瞳が、そう言っている気がした。
レネの口元が、安心したように少しだけ緩む。
「ごめんね。私、今あなたの悲しみを癒してあげることができないんだ。でも、その悲しみが消えるまで、一緒に責任を背負ってあげる。あなたがまた歌えるようになるまで、何年でも」
レネはそう言うと、へたりこんだままの町長と目を合わせた。
「私が、魔物を倒します。それでいいでしょう?」
集まった人の輪から、ざわめきが起こる。
「倒すって、君はいったい……?」
誰の口から出たものかもわからない問いかけに、レネは肩を竦める。
「私は、ただの旅人です。でも、一応それなりの魔力はあるので、全滅できなくても数くらいは減らしてみせます。みなさんにとって悪い話ではないと思うので……。えと。行ってきます」
淡々と語ったレネは、周囲の同意も得ずに一歩踏み出す。ざわめきと共に人の輪が崩れ、彼女を通した。
「俺も行きます。ご安心ください。俺も彼女も、それなりに魔法の心得はあります」
エリアスが、困惑する町長に笑いかける。その姿に、人の輪の中からおずおずと手が上がった。




