7.沈黙の歌い手 2
「エリアス! あれ!」
木立の中を細く縫うように続く山道。ろくに整備すらされていないその道の傍ら。冷たい雪の中、まっすぐに伸びた古木に背中を預け、座り込む人影が見えた。
投げ出された足と、力なく地に落ちた腕。
その存在に気付いてほしいとでも言うように、黒い蝶が激しく羽ばたいている。走り寄ったレネが、人影の脇に膝をついた。
顔を隠すように目深に被った外套のフードを、さっと取り去る。光を集めて束にしたような、長い金の髪が木漏れ日に輝いた。
滑らかな白磁のように透き通る肌と、形の良い桜色の唇。親しみやすさを感じさせる、やや太い眉。きつく目を閉じていても、美しさを損なわない端正な顔立ち。
倒れていたのはレネとそう変わらない、十代の後半といった歳ごろの少女だ。
「そいつ、セイリスか?」
一拍遅れて駆け寄ったエリアスが、少女の着ている白い外套を見て口を開いた。その襟元に使われている銀の飾りボタンには、神殿の紋章がはっきりと彫り込まれている。
「セイリスって、祈歌の歌い手?」
神殿に所属する聖職者の中には、祈歌と呼ばれる魔力を込めた歌により、さまざまな力を発揮する者がいる。そういった、祈歌の歌い手をセイリスと呼ぶのだ。
レネの言葉に頷いたエリアスが、少女の肩に手を置いた。
目立った外傷がないことを確認した彼は、なるべく体を揺らさないよう、鎖骨の辺りを指先で叩く。
「おい、しっかりしろ」
何度目かの呼び掛けに、少女は長く息を吐き、ゆっくりと瞼を持ち上げた。どこまでも透き通った、金の瞳が現れる。
「よし、気が付いたな。水、飲めるか?」
少女は震える両手で差し出された水筒を握ると、こくこくとまるで小動物のような仕草で水を口に含んだ。
ぼんやりとしていた少女の瞳に、徐々に光が戻ってくる。それを確認したエリアスは、使い込まれたリュックを背中から下ろすと、レネに声を掛ける。
「レネ。悪いけど、こいつ持てるか?」
森の出口が近いとはいえ、ここはまだ魔物の縄張りの可能性がある。のんびりと過ごすのは危険すぎる。エリアスが持っている魔物除けの香も、そろそろ燃え尽きる頃合いだろう。心許ない細い煙が、香炉の端から立ち昇っている。
レネはエリアスの言葉に頷くと、大きな荷物を背中に背負う。ずっしりとした重みに、肩ひもが食い込む。これまで荷物を全て青年に任せてしまっていたことが、少しばかり恥ずかしくなった。
エリアスは少女に背中を向けて屈みこむと、乗るようにと仕草で伝える。
少女は疲労からか気恥ずかしさからか、ゆっくりとためらいがちにエリアスの肩に手を掛ける。
ふと、遠くから誰かのすすり泣く声が聞こえた気がした。少女がエリアスにおぶさるのに手を貸しながら、レネは辿ってきた森の小道を振り返る。そびえる木々の向こうに消えていく道には、人はおろか、魔物の姿も野生の動物の姿も見当たらなかった。
幸いにも、それほど進まないうちに生い茂る木々は消え、頭上に晴れた空が見え始める。その先には、雪の積もる草原地帯が広がっている。空から降り注ぐ光が、辺りを眩しく照らし出していた。
魔物の心配がなくなったことを確認したエリアスは、近くを流れる川のほとりで少女を背中から下ろした。
「怪我、してねえか?」
エリアスの言葉に、セイリスの少女はどこか怯えた様子でぺこりと頭を下げる。
「守りの地に向かう途中か?」
祈歌によって得られる効力は、多岐にわたる。穢れた土地を浄化したり、広範囲に治癒術を展開したり、魔物を遠ざける結界を張ることもできるといわれている。そのため、祈歌を操る力を身に付けたセイリスは、やがて神殿の守りが届かない土地へ遣わされるのだ。
目の前の少女は、エリアスの問いかけに少し困った様子で頷いて見せた。
「なあ。あんた、声はどうした?」
出会ってからここまで一言も喋る様子のない少女に違和感を抱いたエリアスが、少女に問いかける。その途端、金色の美しい瞳が揺れ、大粒の涙が零れ落ちた。
「ちょっと、どうしたの?」
突然泣き出した少女に、レネが慌ててハンカチを差し出したときだった。彼女のそばを、ルゥアが舞った。
「……たし、は……」
苦しそうな表情で掠れた声を絞り出した少女は、喉元を押さえて首を振った。
「……何か、訳ありか?」
エリアスの言葉に、少女は涙をこぼしながら頷く。その手が動いて、何かを描く仕草をする。
「悪い。紙もペンも持ってねえんだが……」
少女の意図を汲んだエリアスが、苦笑を浮かべる。困ったことに足元に棒切れくらいはあるのだが、三人が座る河原は石ころだらけで文字を書くどころではない。
「あっ、これは?」
不意に立ち上がったレネが、川辺に近付く。
流れの緩やかな淵に、アクアリーフが自生していた。深く水の澄んだ場所に生えるアクアリーフは、水底から長い茎を伸ばし、水面に子供がちょこんと乗れそうなほど大きな葉を浮かべる植物だ。夏になると、淡い色合いの大きな花をあちこちに浮かべる。休眠期の今は、数枚の葉が水辺に浮いている程度だ。
レネはその葉を一枚、力任せに引っ張る。けれど、太くがっしりとした茎は簡単にちぎれてくれない。
「レネ、いいアイディアだ」
レネの隣から手を伸ばしたエリアスが、小さなナイフで茎を切る。
アクアリーフの葉を受け取った少女は、微かに笑顔を見せ、分厚い葉の上に尖った石で整った文字を書いた。
『セレナ』
「セレナ? おまえの名前か?」
少女は静かに頷き、大きな葉に言葉を綴っていく。
『守りの地に向かう途中、魔物の群れに襲われてしまって。怖くて、気が付けば声が出なくなって』
並ぶ言葉を軽く頷きながら読んだエリアスは、少女の前にしゃがみ込んだ。
「ちょっといいか?」
エリアスが少女の首元に大きな手を翳す。
「癒やしを」
エリアスの深い声が辺りに響き、その手に柔らかな光が宿る。光は目を閉じた少女の喉を包み込み、やがて吸い込まれて消えていく。
少女の金色の目が開かれる。
しかし、少女の口から零れたのは、微かな呼吸音だけだった。
「外傷は確かにないみたいだな。どっちかと言えば、ルゥアに食われたな」
「ルゥアに?」
問い返すレネの隣で、少女が聞き慣れない単語に首を傾げている。
「声を失ったとき、大声で泣いていなかったか?」
エリアスの言葉に、セレナが微かに頷いた。
「ルゥアは、悲しみを吸い取る精霊だ。宿主が泣かなくて済むように、その声を奪っちまうことがあるんだと。そんなことをしても、心はまったく癒えねえんだけどな」
エリアスはそう言って、苦笑を浮かべる。
「ま、心が癒えれば声も戻るはずだ。だから、心配するな」
不意に、何かに怯えるように、少女の表情がくしゃりと歪む。思わずその背中をさすったレネの手に、ルゥアがふわりと止まった。その瞬間、セレナの感情の一部がレネの脳裏に流れ込んでくる。
怖い。
寂しい。
行かないで。
どうかお願いだから、そばにいて……。
強い恐怖と孤独感が濁流のように心に流れ込み、思考が麻痺する。荒くなる呼吸をどうにか抑え込んだレネの手から、黒い蝶が飛び立った。途端に感情の波が引き、呼吸が楽になる。
「魔物じゃ、ない」
ぽつりと呟いた言葉に、エリアスが信頼の篭る目を向けてくる。視線でどうしたのかと問われ、レネは少女の背中に手を置いたまま口を開く。
「あの、セレナ……さん」
遠慮がちなレネの声に、セイリスの少女は怯えの残る視線を向けてくる。
「違ってたら、ごめんなさい。もしかして、声が出なくなったきっかけは、魔物とは違うんじゃない?」
その瞬間、少女の背中がびくりと震えた。小さな背中をゆっくりと撫でながら、レネはふと迷う。これは、言葉にしていいのだろうか、と。
「もしかしたら、だけど。もしかしたらあなたは、誰かと、はぐれた?」
ゆっくりと。言葉を選びながら問いかけるレネの前で、座り込んだままのセレナが天を仰いだ。
その口が大きく開き、声にならない叫びがレネの心を震わせる。金の目元から流れた涙だけが、ぽたりぽたりと流れ落ち、消えていく。
不安と恐怖に塗りつぶされて、言葉がどこにも見つからない。ただ、胸を圧迫するような絶望感だけが消えることなく心を蝕む。そんな感覚が、伝わってくる。
声もなく泣きじゃくる彼女の肩を抱きしめたまま、どうしたらいいのかわからずに途方に暮れる。レネが助けを求めるように視線を送ると、エリアスの穏やかな目がそこにあった。
そのまま。
そう言われた気がして、レネは少女の肩を支える手に力を籠めた。
風が、空を渡っていく。どこまでもからりと晴れ渡った、冬の空を。川のせせらぎが絶え間なく耳に届く。どこから運ばれてきたのか、枯れ葉がその水面を揺蕩う。
ひとしきり泣き続けた少女が顔を上げた頃。エリアスは小鍋で沸かした湯でお茶を淹れ、座り込むレネとセレナに差し出した。
ゆっくりと頭を下げ、美しい所作で喉を潤した少女は、再びアクアリーフの葉に再び丁寧に文字を綴り始める。
『護衛の者がいたんです。魔物と戦って、私を逃がしてくれて。でも、はぐれてしまったまま、見つからなくて。けがをしていたのに』
小石を握る手が、小さく震える。
掛ける言葉が見つからず、レネはただ俯く。
「あんたは、どうしたい?」
彼女の代わりに、エリアスが口を開いた。
「探しに行きたいか? 助けが必要なら、手伝ってやる」
セレナの目から、止まったはずの涙が一粒だけ零れる。
泣き腫らした後だというのに、赤くなってもなお美しい目元を手の甲で強く拭って、少女は静かに首を振った。
『守りの地に行かないと。もう、ずいぶん待たせてしまったんです。私の役割を、ちゃんと果たさないと』
少女はペン代わりに握っていた小石を置くと、両手を強く握る。
「んじゃ、その守りの地までは一緒に行くか。声が出ないんじゃ、説明も大変そうだしな」
穏やかに笑いかけるエリアスに、少女は深く頭を下げた。




