44:一番大切な人(6)
自室に戻ったクローディアは、王女のドレスを脱いで動きやすい桃色のワンピースに着替えた。それから大切な絵本たちを鞄の中に詰め込むと、ランドルフと手を繋ぎ、城の外へと歩いていく。
本当なら王女――いや、もう元王女だけれど――の門出なので、もっと華やかに送り出されてもおかしくはなかった。けれど、そうすると準備に時間がかかる。一刻も早く辺境に帰りたかったクローディアは、普通に出て行くことを選んだ。
父は慌てて、それなら辺境に向かう馬車くらいは準備させてくれと追いかけてきた。クローディアはいらないと思ったのだけど、ランドルフは「馬車があると助かる」と言う。長い距離を移動することになるし、旅は少しでも快適な方がいい、と。だから、馬車だけは父に甘えることにした。
そうやって父に準備してもらった馬車は、すぐに城の外にとめられた。
そこに、ジルフレードとヴァルターがやってくる。ジルフレードは神殿が発行したクローディアたちの婚姻を証明する書類を持って、辺境から王都まで駆けつけてくれたのだ。
ランドルフとクローディアは彼らと再会の言葉を軽く交わした後、馬車に乗り込んだ。みんなが乗り込むと、ゆっくりと馬車は動き出し、王都の街を走り始める。
窓から見える景色が流れ、どんどん城が遠くなっていく。
「あ、そうだ。ちょっと寄り道させてくれ」
王都の街を進んでいる時に、ふと思い出したようにランドルフが言った。御者に向かって行き先を告げると、馬車がゆるりと方向転換をする。
クローディアは隣に座るランドルフの服をちょいちょいと引っ張って尋ねた。
「ランドルフ、どこに寄るの?」
「……十年前、『救いの天使』と出逢ったあの闘技場に」
ランドルフの言葉にジルフレードが眉を顰める。その横で丸くなっていたヴァルターもぴょこんと立ち上がって、ランドルフを見上げた。クローディアも今さら何のために、という視線をランドルフに向けてしまう。
ランドルフはみんなの視線を受けて、気まずそうに頭を掻いた。
「『救いの天使』との思い出に区切りをつけたいんだ。これからはクローディアを一番大切にしていくって、改めてあの場所で誓い直したい」
そうしないと「救いの天使」にもクローディアにも中途半端なことをしそうで恐い、とランドルフは呟いた。
これまでの十年、ずっと心の支えになってくれていた天使。どこの誰かも分からない、空色の髪の少女。彼女はもう闘技場にはいないけれど、それでもあの場所で感謝と別れを告げたいらしい。
「それで、ランドルフの気持ちがすっきりするなら、いいよ」
クローディアがそう言ってランドルフを見上げると、ランドルフはほっとしたような顔をした。彼は「ありがとな」と呟いて、大きな手でクローディアの頬を包み込む。翠の瞳を愛しげに細め、甘く優しい眼差しでクローディアを見つめてくる。
その視線だけで、ランドルフに愛の告白でもされているような気持ちになってしまって、クローディアは思わず頬を熱くした。ランドルフは照れるクローディアの頬にそっと指を滑らせて、甘い声で囁いてくる。
「クローディア、可愛い」
「ひゃっ」
囁きついでに頬に軽くキスをされて、クローディアの心臓が大きく飛び跳ねた。その様子を思いきり目撃してしまったジルフレードは深いため息をつきながら言う。
「ランドルフ。君は昔から一度こうと決めたらそれを貫くタイプですし、恋を自覚したらクローディア姫に一途になるだろうと思ってましたけど。まさかここまでデレデレになるとは思いませんでした。……クローディア姫、覚悟した方がいいですよ。たぶん、これから溺愛ルート一直線です」
「ええっ」
ジルフレードの言葉にあわあわしているうちに、闘技場に到着した。
馬車からランドルフが降り、クローディアに手を差し出してくる。クローディアはその手の上に自分の手を乗せ、ゆっくりと馬車から降りた。
見上げた視界に入ってくるのは、赤茶のレンガで作られた高い塀だった。闘技場を囲むように設置された塀は、王都の街並みに馴染み、戦う場所と言うよりも観光名所のような印象を受ける。
ランドルフと手を繋ぎ、闘技場の中へと歩き始めた、その時。
「おれさまも行きたいんだぞ! とっても楽しそう!」
ぴこぴこと小さな羽をはばたかせながら、ヴァルターがこちらに向かって飛んで来ようとした。けれど、その小さな体はすぐに金髪眼鏡の副団長によって捕獲される。
「ダメですよ、ヴァルターくん。ここは二人きりにしてあげましょう」
「えええー? 嫌なんだぞ、おれさまも一緒に行って楽しみたいんだぞ!」
ヴァルターはもふもふの手でジルフレードをぽかぽか叩きながら、逃げようとする。
それを見て、まあ一緒に連れて行ってもいいかと、クローディアはヴァルターを手招きしようとしたのだけど。
「ヴァルターくん。ここに王都の有名なお菓子屋さんで買ってきたフルーツタルトがあるんです。良い子でお留守番できるなら、食べてもいいですよ」
ジルフレードの言葉を聞いて、ヴァルターの表情が一瞬で変わった。
「おれさま、実はとっても良い子なんだぞ。だからここでちゃんとお留守番できるの。くふふ、フルーツタルト、絶対食べるんだぞ!」
このもふもふ竜、相変わらず食いしん坊だった。ふんわりしたしっぽをぶんぶん振りながら、もふもふの両手を上げて踊っている。
ジルフレードがこちらにちらりと視線を向け、「行ってください」と促してきた。
「……行くか」
「うん」
ランドルフに手を引かれ、今度こそ闘技場に向かって歩きだす。
レンガの塀の向こうには真っ白な建物がある。どこまでも見栄えを重視しているような外観をしていて、綺麗だけれど全く闘技場という感じはしない。
ランドルフは華やかな装飾が眩しいその建物の中には入らず、赤茶色の塀に沿うようにして歩いていく。
そうして、小さな休憩所のような場所まで来ると足を止めた。
「ここだ」
ランドルフがそう呟いた瞬間、クローディアは思わず目を瞬かせた。
赤茶色のレンガの塀。そのすぐ傍にある柔らかな緑色の木々。ささやかな植え込み。その反対側には白い闘技場の壁がそびえ立ち、見上げれば青空が覗いている。足元は明るい灰色のタイルが規則正しく並び、奥の方には小さな木のベンチがひとつ置いてあった。
(私、この場所、知ってる……)
春の風がふわりとクローディアの髪をなびかせ、空高く吹き抜けていく。
そう、「あの日」もこんな青空の下で、柔らかな風が吹いていた。クローディアの頭の中に、遠い日の記憶が一気に甦ってくる。
(ここは、確か……)
――クローディア八歳、まだまだ幼かった頃。
騎士たちが腕を競うという武闘会を観戦するため、クローディアは家族と一緒に闘技場を訪れていた。騎士たちの戦いが一番よく見えて、なおかつ安全な王族専用の席に座り、試合を観戦する。
けれど、その試合は決して面白いものではなかった。クローディアはぷくっと頬を膨らませて不機嫌な顔になる。
試合をしている騎士は炎や水の魔法を華麗に操り、得意気な顔をしながら戦っている。
魔法と魔法がぶつかり合う激しい音。
大袈裟に飛び散る火花。
魔力のないクローディアにとって、それはとても不快なものだった。
こんなの騎士なんかじゃない。魔術師の戦い方だ。
だから、本物の騎士の戦い方をする青年が現れた時――クローディアは目を見開いた。




