幕間 魂魄共振
「ああ……どうして、僕はぁ……【死んで】、しまったんだろぉう」
吹きすさぶ砂煙に巻かれ、ゆらゆらと揺れる濃緑色の体表。
その姿は、遠目からでもグールだということが見て取れた。
赤い霧に包まれた志麻霧市を越えた、不毛の大地。
荒涼とした奈落都市を、そのグールはただ歩き続けていた。
都市と名は付いているものの、実際にその地にあるのは半ば崩れ、放置されたままの建物と、そこかしこでうごめく死体だけで、そこに生者の住処は欠片も無い。
かつて志麻霧市の市民だったモノも、バークウェアの民であったモノも、ここでは貴賤無く平等に動く死体だった。
グールが死体を作り、新たなグールが生まれる。
生まれて、死んで、生まれ、死ぬ。
さながら無間地獄のようなリサイクルシティ。
「どこにぃ行ったんだろうぉ……あのぉ人たちはぁぁ」
奈落都市を徘徊するグールが呟く。
だがグールの発声器官に、しっかりとした言語を操るような機能はない。
せいぜいが唸り声を上げることくらいしかできないはずであった。
にもかかわらず、そのグールからは確かな【声】が発声されていた。
よくよくそのグールを観察すると、実際に声が喉の奥から出ているわけではなく、声と口の動きも一致していないことが分かる。
音の根源――それは大気中の粒子を震わすことで発生させる、合成音であり。
そのため音の振幅にビブラートが足りず、どこか間延びした音に聞こえていた。
そもそもグールというのは本能で動く腐肉でできた化け物であり、通常ならば言葉を発する前に、思考すること自体が無いはずである。
にもかかわらず、そのグールは発声し、意志までも感じさせる。
つまり、このグールの形をしている【モノ】は、例え外見がグールに見えても、中身は別のモノとも言える――新たな【異形】であった。
その異形の名は、かつて――名波健瑠、そう呼ばれたモノだった。
◆ ◆ ◆
「ちくしょう! なんでこんなことに! こんな所来るんじゃなかった!!」
それは誰の言葉だったのか。
遠くから聞こえてきたその嘆きの言葉に――側頭部から血を流し、四つん這いの状態でうずくまったまま――健瑠は心底同意した。
「……ごほっ、まったく……本当に、なんでこんなことに」
身体を動かす気力も底をついた今。
健瑠の霞んだ視界に写るのは、グールと略奪者たちの襲撃でショーウィンドウは割られ、至る所に破壊痕を残し、今なおそこら中で死体が量産され血痕をまき散らしている、見るも無残な――地獄のような光景だった。
ほんの二十四時間前、白鳳学園の生徒たちは目的地のプリビレッジ・モールに到着した。
だが、ホッとしたのもつかの間。
モールは夜半にはグールの大群に取り囲まれてしまい、それでもなんとか、モールの出入り口をバリケードで固めたものの、救援の来ない籠城戦にすでに救いは無かった。
電気の通わない、真の夜の闇を、モールで売られていたキャンプ用品の灯りだけで凌ぐ心細さ。
そして外からは引っ切り無しに続く、入り口や窓を叩く轟音と唸り声。
グールは決してあきらめない、疲れない。
休むことなく続く建物の外壁を揺るがす轟音と、腹の底を揺るがす唸り声に晒され、モール内の人々の精神は、あっという間に消耗していった。
それでもなんとか耐え凌ぎ、朝の光を待ち望んでいた人々に、更なる絶望が襲いかかる。
それが――この世界の略奪者による、襲撃であった。
赤い霧を越える暁の陽光が見せるのは、観たくもなかった街の破壊という異変。
それが暴徒による街の破壊なのだと知る頃には、何もかもが手遅れだった。
蟻の群れが砂糖菓子に集う様に、ショッピングモールという宝の山に集う、略奪者たちの荒波。
それはモールに張り付いていたグールの群れをたやすく引き裂き、砕く。
そしてモール内へと侵入すると、建物内で荒れ狂う大渦へと変化した。
外から強行突入した略奪者により、破壊されるバリケード。
決壊したダムのように、雪崩れ込む略奪者と、それに続くグールの大群。
建物内に留まっていた人々は、その暴虐の波に次々と呑み込まれ、散っていった。
「こんなことなら……あの時、先輩に付いていけば……」
最早ピクリとも動けない健瑠は、脳裏に別れ際の綜たちの姿を思い浮かべた。
(いつから僕は……こんなに意固地な性格になったんでしょうね)
健瑠はキャンプ用品の灯りを探す際、工具店にあった釘打ち機を密かに持ち出し、武装していた。
それは周りの人間をどこか信じきれない、疑心暗鬼な臆病さが、健瑠にそんな行動を取らせたのかもしれない。
結果的に、掴みかかってきた略奪者を、その釘打ち機でハリネズミにし。
追っ手を牽制しながら、なんとかここまで生き抜くことはできた。
――だが、できたのはそこまでだった。
乱闘の際に負った傷は深く、いまだに出血が止まる気配はない。
血の臭いを嗅ぎつけたのか、周りからじわじわとグールの唸り声が近づいてきているのも分かる。
(もっと素直に生きていけたら……僕は――)
四肢の感覚はとうに失く、流した血の量は多く。
仮に今から輸血し、治療を受けたところで、この身が死にゆく進行を止められないのは、健瑠自身にもよく分かっていた。
そもそもこの怪我で、四方から迫ってくるグールから逃れる術などない。
もう思考するのも億劫になり……健瑠は最期の時を、静かに待つ覚悟を決める。
ただ一つだけ、自分の命を最後に刈り取る|グール(相手)の顔だけは、見てみたかった。
「…………えっ?」
――呆けた呼気が、かさかさになった健瑠の唇から漏れる。
四つん這いのまま、動けない手足をそのままに、頭だけを目の前に居るグール(死神)に向け、目を開けた。
ゆっくりとこちらに覆い被さるように、手を伸ばしてきたグールは。
緑色の肌をした、血まみれの――名波健瑠だった。
「は……? 僕……えっ、な……ぁ、なんで?」
そこに居たのは、毎朝鏡で見る自分と同じ顔をした、一匹のグール。
よく観察すれば、肌の色の違いや、薄汚れた全身に纏ったぼろぼろの服など、自分との違いに健瑠も気付けただろう。
だが焦燥し息も絶え絶えの今の健瑠には、そのことを理解するだけの注意力も残っておらず、ただ呆けた顔を曝すことしかできなかった。
そんな健瑠を、肌の色が違う健瑠が緩慢な動きで抱きしめる。
傍から見れば、それはまるで、仲の良い双子の兄弟のようにも見えただろう。
そして――じゃれ合いのように、ぞぶりと健瑠の肩口に――歯が突き立てられた。
「あっ……ぐあ! ぐ! グール……!?」
気づいた時には健瑠の身体には、肩口だけでなく。
集まってきた無数のグールによって、腕や太もも、全身に無数の歯を突き立てられていた。
「あがが、ぎっ! こ、こんなところで……こんな死に方で、僕……は!」
樹木の蜜に集まる昆虫のように。
健瑠の周りに群がったグールによって、体内から血肉が奪われていく。
生命力の喪失、健瑠の命は今ここに潰えようとしていた。
(……僕、は……ぼく……は…………もう……一度…………逢い、たい!)
命の輝きが少しずつ失われるのと共に、知性と理性も剥がれ落ちていく。
それでも健瑠の混濁していく意識に残されていた、一つの願いがあった。
その一心がトリガーとなり、焼き切れそうな精神の奥底で――魂現技能が発動した。
――それは、【名波健瑠】固有の魂現技能――『波』を操る能力。
過去の【名波健瑠】たちが使っていたのは、大気を『波』で震わせることで、遠くに声を届けたり、疑似的な合成音で対象をかく乱する用途の、本来は補助的な性質の能力だった。
だが、死に際の健瑠が発生した『衝撃波』は、周りのグールを一斉に薙ぎ払い。
モールの外壁に叩きつけるほどの、物理的に強い威力を放っていた。
能力の異常なまでの出力上昇。
その現象には、健瑠を最初に襲ったのが過去の自分――【第五十四期・名波健瑠】のグールであったことが作用していた。
他のグールとは違い、弾き飛ばされることもなく。
未だに、健瑠の肩に食らいついたままのグール。
その理由は、健瑠が放った『波』に共鳴し、グールの健瑠もこだまのように、同質の『逆相音波』を返すことで、自分の周囲の衝撃波を相殺したことにあった。
同一存在の二人の健瑠の間で、『波』は反響し合い、際限なく増幅する。
その現象は、互いの持つ固有震動。同一の【魂】が引き起こす、【魂魄共振】へと繋がっていった。
【魂魄共振】――それは二人の同位存在によって引き起こされる、未知の現象。
それはバークウェアにおいて、異世界転移現象が観測されてから発現した現象であり。
近年研究が進むも、今なお謎が多い、ブラックボックス現象だった。
その神秘の玉手箱の蓋が今、二人の名波健瑠によって開かれた。
溢れ出た『波』は周囲のグールを呑み込んでいく。
そして熟れた果実が一気に果汁をぶちまけるように、周囲のグールを弾け飛ばした光景を最後に、生者の健瑠の意識は暗転し、消えうせた。
◆ ◆ ◆
「きっとぉ待ってて、くれるよねぇ……優しいからさぁ」
間延びした音が、奈落都市を歩く一匹のグールの周辺から聞こえる。
それは、グールであった【第五十四期・名波健瑠】の肉体。
知性と理性を失い、ただ本能のみで動く器であったその身体に、同種の、死の淵を覗くことで極限にまで思考がそぎ落とされた、健瑠の願望と知識・感情が色濃く転写された。
健瑠の思念の『残留波』が、まるで亡霊のようにグールに憑りつき、肉体に定着している。
もはやそこに居るのは、二人の名波健瑠を混ぜ合わせ、合成したような一匹の化け物に過ぎなかった。
「あぁぁあ~……会いたいなぁ……はやくぅ会いたいな、会いたい、会いたい、会いたいんだぁ、会いたいぃぃぃ!」
高く通る声だけが荒野に響く。
そこに生前の皮肉めいた口調は欠片も無く、人間らしさをも失くし、己の願望の赴くままに吠える獣がいるだけであった。
グールに襲われ壊れかけた精神に、最後まで残していた思慕の情。
それがこの疑似的な人格を持つ、【怪物】の原動力だった。
「あぁぁ……ほしいぃよぉ……一緒にいてよぉ、どこぉ……どこだよぉぉぉお!」
子供のように泣き叫び、人の温もりを欲する、どこか憐みを誘う存在。
だが、それはすでに人とはかけ離れ、人に害をなす存在の――モンスター。
決して人とは相容れず、共に生きていくことはできない、なぜなら。
「ずっとぉ一緒にいたいんだよぉ! ひとつにぃなろう、だからぁいいよねぇ……っべたいいぃい……食べたいぃ、食べたい、食べたい、たぁべぇたいぃんだぁよおおぉぉぉ!」
――生前の情愛は捻じれ、歪み――
グールの本能と融合した、まったく異質なモノへ変質していたからだ。