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愛すべき子どもたち

「それでねぇ、翔ったらまだふて寝してるのよー」


 あはは! と豪快な友加里の声がリビングに響いた。

 先程から声が大きいのは、わざと二階にまで聞こえるようにするためだ。


「恋愛対象外なだけじゃなく、サカったかわいい坊っちゃんだと思われてたなんて、息子ながら情けないわぁ」


 友加里の声に合わせて、ドンッ! と天井が鳴った。二階の自室にいる翔が暴れているのだ。


「ふん、床板に当たる暇があったら、理緒ちゃんに当たって砕けてきなさいよねー」


 ぐびり、と友加里はビールを飲んだ。息子の恋を肴にした晩酌はいつもよりペースが速い。

 息子の切なさもわかる洋平は、眉を下げて漬物をつまむ。


「いやぁ、でも理緒ちゃんも翔のことは悪く思ってなかったんじゃないかなぁ」

「そりゃあ、そうでしょ。じゃなきゃ筆下ろしなんて…」


 ドンッ!! ドン、ドンッ!!


 さしずめ、黙れ! クソババア! といったところか。

 友加里はハン、と鼻で笑う。


「ほんっと、図体ばっかり大きくなってヘタレなんて救いようがないわね!!」


 二階に向けてひときわ大きく怒鳴った友加里は、すぐに声を落とした。


「…正直、理緒ちゃんは、異性として好きだって言えば翔のこと受け入れるわよ。あれだけ翔にベタ甘なんだから、ちゃんと翔のことを男として見ると思う」

「じゃあ、俺たちが仲介してやった方が…」


 同じく声をひそめた洋平が言うと、パパは甘いんだからぁ、と友加里が笑った。


「そんなの、つまらないわよ。しばらく肴にさせてもらうんだから」


 せいぜい地団駄踏んでいればいいわ、と友加里は缶をあおった。


 親の心、子知らずとはいえ、些かかわいそうな気もするが。

 こっそりとため息をついた洋平は、自らの不甲斐なさを心の中で息子に詫びる。


 何より一家の中心である友加里に、洋平が敵うはずもないのだから。



 ◇◇◇◇



「理緒、翔ちゃんに告白されたって本当?」

「うん。付き合ってって言われたから、いいよって言ったんだけど…。なんか怒っちゃって」


 向かいの山田さんからのタレコミで、なぜ翔が怒ったのかまで、春子は知っていた。帰宅がいつもより遅れてしまったのは、家の前の駐車場で山田さんの奥さんに捕まったからだ。

 山田さんから話を聞いたときは、やっぱりとは思ったものの、ここまでだったか…と脱力もした。


 見た目はかわいくできたはずなんだけど、中身がここまで残念になったとは。

 どこで間違えたのだろう。


「そりゃあ…。筆下ろしなんて言われたら怒るわよ」

「え? なんで? ていうかお母さん何でそこまで知ってるの?」


 まだ子どもである理緒にはピンとこないだろうが、ご近所さんをナメてはいけない。毎日何時に出かけるか、今どんな男と交際しているか、洗濯を何日おきでしているか、近所の目と耳はいつでも向けられている。


「それにしても、何でそんな話になったの? 翔ちゃんはやらせてくれって言ったわけでもないでしょ?」

「……だって私なんて翔ちゃんから見たらオバサンじゃない。そんな年上に期待することなんて、それしかないかなって」


 翔につきまとう女の子たちは肌はぴっちぴちの、きゃっぴきゃぴ。大学の頃の男友達は『不細工でも若けりゃイケる』と言っていたので、若さに可愛さが加われば無敵だろう。いくら理緒が長年翔と付き合いがあるからと言って、同じ土俵には上がれない。


「うーん…。理緒はそれでいいの?」

「……ほんとは、よく、ない」


 うつむいてしまった娘の顔は、痛みを堪えるように歪んでいる。


 そうよね、と春子はため息をついた。


 理緒は翔が生まれたときからずっと、翔を愛して守って導いてきた。それは子を慈しむようなもので、異性に対するものではなかったかもしれないが、本当に今も子どもだと思っていたら理緒は交際自体を断っただろう。

 まともな交際だと思わなかったのは、ひとえに理緒の自信のなさから来ているのは明らかだ。

 もちろん、残念な発想も大きいけれど。


「理緒、あんたは頭はいいのにバカよねぇ」

「…なに、いきなり」


 顔を上げた娘は不機嫌そうだ。

 長いまつげを不安に震わせ、への字口をしていても愛らしかった。


「とりあえず、翔ちゃんの好きな茶碗蒸しでも作って、会いに行ったら?」


 友加里はきっと二人のすれ違いに気づきながら、晩酌でも楽しんでいるだろう。

 春子が興を削ぐわけにはいかないが、このくらいの後押しは許してほしい。


「バカな子ほどかわいいって言うしねぇ」


 春子の呟きに、理緒は不思議そうに首をかしげた。



 ◇◇◇◇


「こんばんは。翔ちゃんいますか?」

「あら! 理緒ちゃん! 早かったわね」


 出来立ての茶碗蒸しを手にチャイムを鳴らすと、ほんのりと酔いがまわった顔で、友加里が招き入れてくれた。


「早かった?」

「ううん。なんでもないわ。翔なら部屋にいるから上がってちょうだい」


 ニコニコを通り越して、にやにやしている友加里に茶碗蒸しを渡して、理緒は階段をそっと登った。


 今まで何度となく上り下りした瀬尾家の階段。

 こんなに長く辛く感じたことなんてなかった。


 一つ一つ上がるたび、理緒の不安が大きくなっていく。


 ―――翔ちゃんがなぜ怒ったのかがわからない。

 私の方が七つも年上なのに、翔ちゃんが今何を考えているかちっともわからない。


 もしかしたら、翔ちゃんは性的な経験ではなくて、交換日記などから始める古風な男女交際に興味があったのだろうか。


 だから、筆下ろしなどと言った理緒に、怒ったのだろうか。


 途端に強い後悔と羞恥が襲ってくる。


 もしかして、もう嫌われてしまったのかもしれない。

 ババアが色目を使って、と気持ち悪く思われたのかもしれない。


 もんもんと考えるうち、翔の自室前に着いてしまった。


 ほんのりと翔の匂いがする。

 胸に吸い込むと、ぎゅっとしめつけられるようだ。


「……翔ちゃん」


 ガタッ、ドスン!


 部屋の中で、鈍い音がした。

 音はすぐにやみ、痛いほどの沈黙が流れる。


 二人が喧嘩することは、今までだってたくさんあった。

 それでもいつも、理緒が翔を呼べば、翔は拗ねた顔をしながらも必ず応えてくれた。


「……翔ちゃん」


 もう一度呼ぶが、やはり返事はない。

 代わりに、ズッと鼻をすする音がした。


 ―――翔ちゃんが泣いている。

 翔ちゃんが私のせいで泣いている。


 ―――翔ちゃん。翔ちゃん。


「ごめんね、翔ちゃん」


 声とともに、ぼろぼろと涙がこぼれた。

 一度堰を切ったら、もう止められない。


「わた、私。七つも年上のくせに、経験もあんまりなくて、翔ちゃんの役にも立てなくて」


 翔は理緒にたくさんの気持ちを教えてくれた。

 慈しむこと、成長を喜ぶこと、慕ってもらえるくすぐったさ。そして手元から離す寂しさまで。


 ―――なのに、なにも返せない。

 嫌わないで、翔ちゃん。

 まだ、離れていかないで。


「ご、めんねぇ」


 とうとう膝をついた理緒の目の前で、かちゃり、とドアが開かれた。


「……なに、謝ってんだよ」


 理緒の視界は涙でくもり、翔がどんな顔をしているかが見えない。


 気が昂った理緒は、謝る理由を考えた挙げ句、やはり翔が怒ったであろう一番の原因にたどりついた。


「…上手に…筆下ろしできないから…」

「だから! いい加減そこから離れろよ!」


 翔の剣幕にびくり! と理緒の肩が揺れた。


「俺は…理緒のことが好きで、理緒と付き合いたいって言ったんだ!」


 最後の方はやけくその叫び声だったが、きちんと理緒の耳には届いた。


「え…?」

「理緒が俺のこと、子どもだって思ってるのは知ってる。でも俺はヤリたいから理緒と付き合いたいんじゃない。理緒が好きだからヤリ…じゃねえ!」


 バリバリと勢いよく翔が頭をかきむしった。


「とにかく!! 俺は理緒が好きなんだ! 俺と付き合って、年の差なんて忘れるくらい惚れさせてやる!」

「……翔ちゃん……」


 理緒の頬に流れる新しい涙を拭おうと、翔が手を伸ばしたそのとき。


「翔ー? 盛り上がるのもいいけど、廊下の窓あいてるわよー」


 あっはっはー! 丸聞こえー!


 友加里の階下からのヤジに、ハッと二人が固まる。


 遠くからジョンの鳴き声がする。通りを歩くらしい人の声も。


 そう、それが聞こえるということは…。


「……早く言え!! クソババア!!!」



 ―――こうして、翌日には年の差カップルの顛末がご近所中に知れ渡ることになったのだった。







お読みいただきありがとうございます。

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