1. side 柊
もう三日も会社を休んでいる。胃がずっとキリキリしている。最後に固形物を食べられたのはいつだろう。ベッドとトイレを往復し、寝る気力もなければもう吐くものもない。体は疲れていて睡眠を欲しているのに、頭の中は次から次に仕事のことばかりを考えている。起き続けている頭が寝てくれることはなく、暗い部屋にいながら鮮明な意識を追い続けている。いっそSNSを徘徊した方がいい。少しは目が疲れて眠くならないだろうか。手を伸ばしたスマホは充電切れで、役に立たない。諦めて目を閉じても延々と回り続ける脳みそに、誰か殴って気絶させてはくれないだろうかと願わずにはいられない。
ぷつり、と沈んだ意識が断ち切られる感覚がした。外を走るバイクの音に意識を浮上させられたらしい。新聞配達だろうか。うっすらと明るい部屋が、少しは眠れたのだろうという時間の経過を知らせてくる。どうせもう眠れない、最後に二度寝をしたのはいつだろうか。今日こそは仕事に行かないとまずいと思いながら、ゆっくりと体を起こす。用を足し、歯を磨いて顔を洗う。消えてくれない隈をそっと撫でたところでその冷たい感触に、撫でたと思ったのは隈の写った鏡だということに気づく。言うまでもなく疲れている。そろそろトイレットペーパーが切れそうだ。胃腸薬も昨日の夜に飲んだのが最後だったはずだ。外に買い物に行かなければ。仕事に行くにはまだ早い、先に買い物に行こう。全く食欲もなければ胃は悲鳴をあげている。それでも何か食べ物を手に入れないといけない。段々と日が昇ってきている。カーテンを閉め切っていても聞こえる蝉の声が、まだ自分の五感が機能していることを教えてくれる。
充電が終わっていたスマホの天気アプリを開く。家の鍵と財布、一応エコバッグも持って外出前の確認を済ませる。近所のドラッグストアに行くだけだ。徒歩五分。誰も自分のことなど見ていない。ジャージを履いて、半袖のまま、サンダルに爪先を引っ掛ける。玄関の鍵を開けてドアを押し開ける、つもりだった。
横に倒れたままの鍵に触れられない。両足はサンダルにおさまっているのに。左手に持ったエコバッグは財布の重みでたわんでいる。鍵を起こすはずの右手は鍵を摘む形をしたまま血が一切通っていないかのようにぴくりともしない。
その右手を見つめたまま、何が起こっているのか理解できなかった。ガチャっと鍵は開くはずなのに。ただのアパートの玄関だ。そう簡単に鍵が壊れることはない。玄関の近くに立てかけた姿見には微動だにしない自分の背中が写っているだろう。どこか冷静な自分がいることが気持ち悪い。体が動かない。いや、動かせない。ドアをグッと押してトイレットペーパーを買いに行かないと、気持ち悪くなったら困るのに。
インターホンが鳴った。こんな平日の朝早くに一体誰だ。しがない男の一人暮らし。二階建てのアパートにオートロックなどと言う小洒落たものはついていない。つまりこの扉一枚の先に誰かがいる。どうしたらいい、まだ動けない。
ドンドンと目の前で扉を叩かれる音がする。自分の名前が呼ばれている。耳は聞こえる。聞き馴染みのあるその声に無性に泣きたくなる。この声の主を迎え入れなければ。外に出るわけじゃない、と思った時、あれほど開けられなかった鍵はなんともあっけなく縦に起こされた。
ガチャリと響いた音を聞きつけたのかインターホンの主は外から扉を開いた。そこに立っていた男の顔を見て、柊は声をあげて泣き叫んだ。
玄関先で泣き崩れた柊にギョッとしたインターホンの主、椿はどうした、大丈夫かと声をかけるもただ泣き叫ぶ柊を抱えてベッドまで運んだ。狭い6畳のワンルームを迷うことなく進んでいく。トイレットペーパーがいるんだ、と泣く声から聞き取った言葉に椿は要領を得ず、小さくシャツの裾を握り続ける柊を放り出すこともできず、ただその背をさすり続けた。




