1.準備
穏やかな日差しがお堀の水面に乱反射し、石垣に光の模様を揺らしている。風もなく、木々は青々と輝き、小鳥のさえずりは朗らかに響く、まさに“平和”を絵にしたような光景であった。
そんな、緩やかに流れる時間とは不釣り合いに、城の周りは、厳かな沈黙を纏ったたくさんの警官隊に囲まれていた。カーキ色の戦車や装甲車が内堀通りにズラリと並び、せっかくの美しい日本の春の絵を、のんびり眺めようとする通行人は一人もいなかった。
竹橋にある、元新聞社跡で、今は一橋家の屋敷となっているビルの一室、窓際の席を陣取り、松井勝利は双眼鏡越しに堅牢な「東京城」を眺めていた。この部屋は、本来なら、松井のような人間が入れる場所ではない。城を見下ろすこの部屋に入ることが許されるのは、少なくとも“旗本”クラス以上の人間。町人風情がたった一人で居座り、窓から外を眺めるなどあり得ない行為であった。
外側から中が見えないように、この部屋の窓ガラスには特殊なフィルムが施されている。それは松井が仕込んだわけではなく、このビルの主、一橋宗竜の指示によるものであった。
長年、ジャーナリストとしてヨーロッパやインド、ブラジルなどで過ごしてきた松井が、2年前に日本に戻ってきたのは、この一橋宗竜の影響が大きかった。松井と宗竜は東大法科の同窓で、出自こそ違え、どういう訳か妙に馬の合う二人だった。片や、徳川宗家と親戚筋の名門、一橋家の嫡男、そして松井は下町のカメラ屋の息子。身分としては交わりようもない二人であったが、ともに幼い頃から剣道に勤しんできた偶然が、本郷のオンボロ道場で二人を引き合わせたのだった。
学生時代からジャーナリズムに関心のあった松井は、卒業後すぐに渡米し、語学力と情報処理能力を身体に叩き込んだ。宗竜は学生時代から既に、家業である不動産業と建設業に携わっており、この国を根幹から支える名家の長になるべく、帝王学を身につけていった。
初めは政治記者を目指していた松井だったが、次第に興味はビジネス界へと移り、ブロックチェーン、IOT、衛星ビジネスなどの取材で一定の評価を得てから、やがて現在の専門、医療ビジネスの分野で活躍するようになった。
そして、日本にいる今、松井が最も大きな関心を寄せているのが「徳川宗家」の「世継ぎ」問題。図らずも、最初に夢見ていた“政治”の分野に足を踏み入れたのだった。
およそ100年前から、政治とビジネスはそれ以前よりももっと密接になった。教科書に載っているので、小学生の子供でも知っていることだが、あの「ウィルス革命」により、いわゆる“政治家”による政治は崩壊した。かつて政治の中枢として存在した「内閣」や「国会」などのシステムは、今では名前だけを残して、全く機能していない。松井はアメリカでの最新医療ビジネスの取材をきっかけに、今や世界の先端医療の中心地である日本に注目するようになった。そして、必然的に、この国最大の企業、徳川家の主幹事業である「徳川製薬」と「徳川病院」を調べることになり、松井は、この一族の驚くべき経営手腕と先見性の虜になったのだ。
徳川家による日本支配が明確にスタートしたのは今から10年前、天皇家が東京城を立ち退いて京都御所に戻り、代わって徳川家が入城したときからとされているが、正確にはそうではない。
20世紀の後半から、人類が近い将来、ウィルスとの闘いを余儀なくされると見越した徳川宗家20代当主、徳川孝が、資財を投じてワクチンの研究を進め、あの2020年“絶望の1年”に終止符を打ったのは余りにも有名だ。
徳川孝が優れていたのは、資財全てを、直接ワクチン研究だけに投じたわけではなかったこと。有望な研究者を多く抱えた大学や製薬会社を金銭面で支援することで、開発された薬品の独占販売契約を取りつけていったのだ。さらに各地に小規模のクリニックを経営し、密かに臨床実験の場も確保していた。加えて、流通網を得るため、物流大手の株式も購入していたため、ワクチンが開発されたときには、既にそれを量産できる工場と、全国に、万国に輸送できるシステムを作り上げていたのだ。全国の病院には、ワクチンを無償提供する代わりに、病院理事の権利を得た。また、国からは莫大な助成金も獲得した。旧時代の豪族でもあった徳川家なので、元々不動産は豊富に所有しており、それらを次々と都市へと開発していった。これが、病院や保健所を中心とした街、現在の“病院衛星都市”となる。まずは大病院を作り、その周囲に商店街をつくる。次にそこへ通じる鉄道やバイパスを通し、それぞれの沿線に住宅地を設けた。
この形が当たり前になってきた21世紀後半には、“政治家”は完全に徳川家の言いなりだった。当時、政治家は“選挙”で選ばれていた。つまり、当選するためにはたくさんの町人の票を集める必要があったのだ。徳川家のおかげで命や生活が安定している町人が圧倒多数である街において、徳川家に関わる人間が当選するのは、もはやごく自然の流れだった。主は21代の孝仁になっていた。徳川家と縁のない人間は、徳川家にすり寄ることで政治生命を延ばそうとしたため、結果、全ての政治家は、徳川家の方針に従わざるを得なくなった。
しかし、ここでもまた、徳川の賢さがあった。このような立場を得た場合、過去の豪族なら、やりたい放題に身内を優遇し、経済を独占するものだ。しかし、徳川孝仁は、そのようなことをすれば人心が遠ざかることも熟知していた。選挙の候補者も平等に選び、また身内からはほとんど政治家を出さなかった。また、政治家に金をばらまくようなことは一切せず、代わりに市民のためには惜しみなく、多額の寄付をした。特に子育て支援と、限界集落の保護には金をかけ、激減していた日本人の平均所得を倍増させることを宿願に定めていた。同時に、税収の激減で、多くの省庁が民営化の方向に進むと、次々とそれらを売却し、公が担うべき重責は、次々と徳川家の管轄になっていく。“政治家”にこそならなかったが、徳川家はまさに“国”そのものになっていったのだ。
そして、ついに、2110年、国家の最期の質草として、「東京城」が差し出され、徳川家がこれを謹んで手に入れたわけだ。実にお見事な、華麗なまでの、政権掌握であった。
そして、間もなく、新たな城主として徳川家を迎えた東京城には、真新しい天守閣が完成する。
今日はその内覧会があり、各国要人が、城内に招かれる日だ。壮麗な天守はすでにこの屋敷の窓からもよく見える。日本の伝統的な宮大工の技術を遺憾なく発揮されつつも、同時に日本のお家芸であるところの最新テクノロジーで徹底管理されているこの城は、城主に劣らず、賢く堅固な要塞となって、世界の目に披露されることになるのだ。
松井のいるビルからは、ちょうど天守の最上階が覗ける。覗き見は不敬に当たるので、見つかれば即逮捕、拘束だが、ここは一橋家、警察も簡単には踏み込めない。松井は改めて、宗竜とともに竹刀を交えた日々に感謝するのだった。
あの天守閣のどこかに城主・徳川孝仁がいる。そして松井の分析が確かなら、まもなくその政財界の大将軍は、人生の幕を閉じようとしている。
城内には、明かにいつもと違う緊張感が漂っていた。アメリカの大統領を始め、中国の国家主席、EUの代表、インドの首相、サウジの王様、ASEANの貿易管理委員長など、世界のリーダーたちが一堂に集まるのだ、万に一つも失敗は許されない。
天守の内覧会の仕切りを任されていたのは徳川家の重臣、徳川製薬専務の本多昭二であったが、直接に式典の進行と警備に当たるのは、徳川家の嫡男、徳川裕太の秘書で、深山千春であった。
裕太はまだ大学を出たばかりの23歳であったが、徳川家の次期当主になる人物だ。偉大なる経営者、徳川孝仁の唯一の弱点は、長いこと子供がいないことだった。60歳を過ぎたとき、ついにこの裕太を授かったが、これについては、実の子供なのか?本当はどこかからの養子ではないか?と、マスコミが必死に真相を追求したが、出てくるのは都市伝説としては面白い、ゴシップレベルのものばかりであった。
裕太の秘書を務める深山千春は、オックスフォードとハーバードを主席で卒業した秀才であった。両親の身分は決して高くなかったが、類い希な情報処理能力と知識、また数カ国語に通じている点、異常に発達した記憶力などが評価され、20代前半で徳川製薬の重役秘書になり、そこからはトントン拍子にランクを上げ、今や時期当主である裕太の第一秘書に収まっている。遠くない将来、裕太が当主になれば、千春はこの国を統べる将軍の、一番近くにいる人間になる。
「クリントン大統領、大手門に到着です。」
耳たぶで煌めくピアス型のイヤホンから、アメリカからの客人の到着が伝えられた。
「専務に連絡を、私は若君をお連れします」
深山は歩みを止めないまま、簡単に指示を出すと、すぐさま裕太のいる御殿に向かった。
無事に式典を終わらせるため、万全の準備はしている。一ヶ月前から、空港と港は完全に封鎖し、海外からのテロリストの侵入を阻んだ。さらにこの1週間は、東京に出入りする人間をすべてチェックしており、ましてや東京城の半径2キロ圏内に近づく者は片っ端から拘束している。やり過ぎのようにも感じるが、2089年のアメリカ大統領暗殺や、2099年のアマゾンCEOの爆殺など、実現不可能とされていたテロが実際に行われたことを考えれば、用心に用心を重ねるに越したことはない。
むしろ、ここまでやってもまだ、深山は気を緩めてはいなかった。外部からの敵の侵入は防いだ、しかし、既に“内部”に敵がいないとは限らない。天守閣の建設が始まり、その内覧会が企画されたときから、深山はそれ以降、城に出入りするようになった人間を徹底的に調べ上げていた。官僚や財界の人物や、そこに付き従って来る者、清掃、工事、営業などで城を訪れる業者、堀の回りを日常的にランニング、犬の散歩で近づく者、観光客やツアーガイドに至るまで、深山得意のAIを使った情報処理で、一人一人、生い立ちから経済状況、政治思想まで細かく調べて管理しているのだ。
それでもまだ深山には不安があった。自分が知りうる情報など、世界が持つビッグデータのほんの一部であることを、深山はよくわかっていた。そして、もし、誰かが本気でこの城を爆破しようと思えば、偽の情報でブロックされた、一件人畜無害な人物が、本人も気付かない内に凶悪なテロリストになっていることなど、ごく当たり前な世の中なのだ。それは深山が一番よくわかっていることだった。
そこで深山は、裕太にも本多にも内緒で、部下に、ある指示を出していた。警備部の極めて信頼の置ける2人に、密かに拳銃を携帯させ、いつでも抜けるようにさせていた。ボディチェックをかいくぐり、城内に持ち込まれたプラスチック製の毒針銃を、徳川家の人間に向ける輩を認めたら、躊躇なくそれを射殺するよう、深山は厳かに、彼らに伝えていた。無駄口を叩かない二人の警備員は、静かに頷き、もう一度、その日の警備の人員配置と来城者リストを頭に入れ直したのだった。
「失礼します。深山です。」
ドアをノックしてから声をかけたが、部屋の中からは何の反応も無かった。深山はもう一度、
「失礼します。」
と言うと、返答を待たずにカメラに人体認証をさせ、ドアを開けた。
大きな窓からは日の光が燦々と差し込み、その広い部屋を余さず暖かい色で満たしていた。デスクには誰もいなかったが、今、深山が入ってきたドアからは見えない向きの応接ソファに人の気配を感じた。
「若君、アメリカのクリントン大統領がお着きになりました。お出迎えの準備を。」
なるべく急かさない速度で深山が言うと、ゆっくりソファから体を起こし、裕太の憂鬱そうな後頭部が見えた。
「若君、お支度を。」
なかなか立ち上がらない裕太に、深山がもう一度声をかけると、今度は怪物が海に沈んでいくように、ゆっくりソファに崩れ落ちていった。
深山はソファに歩み寄り、裕太を正面から見える位置に回り込むと、肩を支えて無理矢理体を起こした。
「今日が大切な日であることは何度も説明しました。」
今度は少し厳しめに、深山は23歳の青年に言葉を突き刺した。裕太は目線を合わそうとせず、明らかに不機嫌そうに脱力したままだった。
「体調が優れない・・・。」
消え入るような声で裕太は言葉をこぼしたが、深山はそれが聞こえていないフリをして、力づくで裕太をソファから抱き起こした。
「式典が終わってから診察させましょう。取りあえず急いで大手門へ。」
深山は決して腕力のある方ではなかったが、裕太が華奢であることと、こうしたことが日常茶飯事であることで、裕太を立ち上がらせることには慣れていた。裕太の両脇から腕を背中に回し、自分の胸に押しつけるように体重を移動させて、座っていた者を直立させる。流れるような一連の動作で、裕太はまんまと立ち上がることが出来ていた。立ち上がり、そのまま今度は裕太の方から深山のことを強く抱きしめる。鼻の頭を深山の首筋に押し当てるようにして、裕太は深山に甘えた。裕太の手が、深山の背中をゆっくり這い降りて、やがてその手が臀部にかかり、むしり取るかのようにそれを揉み上げた。深山はそこまで黙ってやらせておいてから、
「はい。今はここまでです。スーツが皺になるので。」
あくまでビジネスライクに裕太の体を離し、手早く互いの服の乱れを直してから、客人を迎える準備に入った。
部屋を出た途端に、裕太は若君の顔になった。行き交う部下たちが道を空け、頭を下げるのを見ると、朗らかに「おはよう」と声をかけるのだった。誰もが認める、聡明な徳川の世継ぎ、しかし、その正体は、深山がいなければ何も出来ない臆病者。部下たちが頭を下げているのは、本当は自分に対してなのだ、と、深山は腹の中でほくそ笑んでいた。
アメリカ大統領に続いて、EUの代表が到着した旨、深山のイヤホンに連絡が入った。
「待たせておいて。」
松の廊下の真ん中を、深山は今、「天下人」として歩いていた。