クラリネットを嫌がる子
食事を口へと運ぶ。
味もわからない緊張、というのは最初はしていたが、今はそこまでではない。人間なんにでも慣れてしまうものだ。
鳥を口に含んで咀嚼してから白米をかきこむ。鳥の程よい弾力と甘辛いたれが口の中に広がり、その中で米と絡み合って味わい深い香りをいっぱいに広げる。
それをごくんと喉奥へ持って行ってから味噌汁を飲む。
お行儀よく音を立てないように口の中を満たす液体は、静かなうま味を有していた。美味い、と目を見張るものでもないが、落ち着くいい味だ。
日本人にしかうま味という概念がないというが、どうにも勿体ない話だ。食は人生を豊かにするというのはまさしくそうで、極端な話、毎日の温かい食事こそが仕事などの生存競争を生き抜く現代人の活力であり、うま味というのは日本人だけが携帯できる戦闘糧飯なのだ。
それは活かさないと罰が当たるというものなのだろう。
「どう?本日のお味は」
「ん。美味い」
「そう。ならよかったわ」
変に強情を張るのもどこか申し訳ない気がして、思うがままの率直な感想を述べた。
それを聞くと女は少しだけ微笑み、一口分の白飯を箸でとって口の中へと運ぶ。
無言の空間が食卓の中に生まれると、その中にはどうしたって咀嚼音と食器の音が顔を出す。
それは一人暮らしの身としては他者の存在を示すものであり、どこかしらで寂しい気持でもあったのか私の気持ちが落ち着いてしまうところもある。
しかし最近は来ることが頻繁になりすぎて、半ば慣れつつあるというのも正直なところだ。
希少価値があるものほど有難がるというのは人間の性であるが、同時に慣れやすいというのも難しいものだ。有難み、というのを感じる機会というのは機会を繰り返すたびに減ってしまう。
「今日は割と簡単なものだったから、少し不安だったわ」
そんな事など微塵も思ってないように女は言う。
この食卓は自分にしては十分すぎるものだと感じてしまうが、どこか完璧主義のきらいもある女からしてみればそうなのだろう。
「お前にも不安を感じる場合があるんだな。意外だ」
「あら、愛情故の不安よ?」
揶揄うように言葉を投げてみれば、女はにんまりと笑顔を浮かべて返す。
思い付きで投げてみたインハイが思い切り打ち返された。
場外弾を放ったその表情はこちらをからかう様で、大人と子供が同時に瞳の中で踊っていた。
艶やかな顔はこちらを見つめ、どこか煽情的ですらあった。
その様子に私の言葉は思わずつまり、そんな私の状態に満足が行ったように女は笑みを深くする。
「……よくもそう歯の浮くような言葉がポンポンと出るものだ」
せめてもの抵抗とばかりにそう悪態まがいの言葉をサラダをつまみながら投げた。
「正直なのよ。美徳でしょ?」
「ああ全くだ」
悪びれもせずに味噌汁をすする女に皮肉を返したが、やはり微笑むが返ってくるだけで何の成果もなかった。
一つ話が落ち着いたことを確認すると、私は会話をもとの路線に戻そうとした。
「……この家に来るのはいい。だけど家には帰れ」
これは私の一会社員として出た言葉でもあったが、同時に道徳心も深く籠められていた。
その言葉が意外だったのか、女のまつ毛がひくと動いた。
「……あら、随分と譲歩してくれたわね」
「そうでもないとおまえは本気で帰らないだろう」
ため息交じりにいった言葉に肯定を返すように、女は肩をすくめた。
確かに今までならば、帰れ、と壊れた機械のように言っているだろうが、それでは目の前の女は動かないとようやく理解できた。
悲しいかな、ならばこちらが少しばかり譲歩しないといけないのだろう。居直り強盗のような理不尽さは感じるけれども。
「そもそも、お前はどうしてそんなに家に帰りたくないんだ」
ため息交じりに、恐らくは何回か問いかけた気がする言葉を発する。
きっとこれが初めてなのだろう。心の中で何回も言っていただけで。
「なんとなく、ね」
理由を問いかけたのに感覚で返してきた。
その発言を発した顔を呆れたように見つめると、女は私の顔を見返した。
「インスピレーションって大事じゃない?家にいる瞬間、ああ嫌だと感じるの」
感覚、というは確かに大事だ。第六感というものか。
物事に不可欠な要素ではあるだろう。
女は理論よりも感覚を重視する、というこ事を聞いたことはあるが、まさしくそれなのだろうか。
しかしどちらにしろ、私としては質問に対する適切な答えとは思えなかった。
「それがここにいる理由にはならないだろう」
「ええ、そうね」
臆面無く女は言うと、手元にあったお茶をすする。
「……お前のお父さんは、話しをしている限りはいい人だったぞ」
「そうでしょうね。うちでもいい人だもの」
「だったら何故」
私が問いかけると、女は思い出すように上の方を見た。
そのあと机に肘をつき、心底嫌だというように吐き捨てた。
「嫌なのよ、いい人すぎて」
「……どういう意味だ?」
私が問いかけると、女は少しだけ言うのを戸惑った後に口を開いた。
「察しがよすぎるのよ。その癖腫物扱いするの。しなくてもいいことは勝手にしちゃうくせに、してもいいことはわざわざこっちに許可伺ってきたりね」
ようやく心の中で分からなかったものが理解できて、どこかすっきりした。
「お前は確か……」
「連れ子よ。母方のね」
ここは避難場所、というわけか。
なんとなく事態が把握できたため、落ち着きを取り戻すために味噌汁をのど元へと流し込む。
連れ子、頭のいい娘と察しのいい父親。
何とも悲しいくらいに不器用だな、と感じた。
「ここに依存だけはするなよ」
「言われなくともわかってるわ、安心して」
何のため釘を刺しておいたが、手をひらひらと降りながら何ともない様子で言い返してきた。
そのまま食事を続けていくと、思いのほか鳥の味付けがご飯の進む味付けで、茶碗の中に盛られた白飯がいつの間にか姿を消していた。
「おかわりは?」
「もらうよ」
空になると同時に向けられた掌に茶碗を預けると、女は台所へと向かった。