痛みを知る人
その言葉に、少女の顔色はどこか虚を突かれたものに変わった。
怒気はまだ心の中に燻ってはいるものの、女性が浮かべたその表情は、自己陶酔気味の自嘲ではなかったことが気にかかった。
何かに苦しみ、そんな自分を心底憎んでいる者の顔だった。
「……そう、ですか」
不意の言葉に対応することができるほど今の彼女の心には余裕はなく、そんな御座なりの対応しかすることはできなかった。
怒気という炎に一番効くのは衝撃という名の水であり、頭から浴びせた側も、浴びせられた側も何も言えず、ただ沈黙だけが二人の間に我が物顔で座っていた。
「……経験、したんですか?」
その沈黙を断ったのは、少女の側からだった。経験の前につくべき形容詞を省略したのは、少女の配慮であり躊躇の結実だった。
「した、というよりかは、している、といった方がいいかもしれないですね」
沈黙の間、無表情を貫いていた女性は、少女の言葉に何でもないように返した。
少女は、女性の感じた不幸が現在進行形である、という事実に少し驚きながら、言葉を返した。
「……それは、どんな?」
少女の言葉に、女性は不敵なようで空元気のような、強気と弱気が同居している笑みを浮かべた。
「……不幸自慢、し合いますか?」
その言葉に、少女は少し失敗したと表情に表すように、臍を噛んだ。
「……すみません、浅慮でしたか?」
「いいえ。ただ、それは不毛でしかありませんから」
片方が不幸を語れば、片方の不幸が比較されてしまう。
どちらも不幸には変わりないのに、心の中の天秤はどちらが重いか比べたがる。それは両者にとって不愉快でしかないし、それで生じてしまった棘は抜きがたい。
少なくとも、お互いに抱えているそれは、お互い初対面で公開するべき代物ではなかった。
だからこそ、様々な事実を一言に込めて少女は言葉を投げた。
女性の方を向くことはできず、手元を見つめながらではあるが、一の言葉に十以上の思いを込めて。僅かばかりの会話でも、この目の前の女性は受け止めきってくれると少女は信じていた。それこそ、嫉妬すら覚えるほどに。
「……貴女が、兄に惹かれる理由が分かりました」
少女の言葉に、女性は分かりやすく驚愕の表情をありありと浮かべた。
その後、少しだけ伏し目がちになりながら、どこか気恥ずかしさすら持っている様子で呟いた。
「……分かって、しまいましたか?」
「はい、分かってしまいました」
少女はそういうと、女性に向かって笑顔を向けた。普段の口角を上げただけではない、心からの、それでも何処か落ち目を感じてしまうような、夕方の太陽のような笑顔を。
「……私も、貴女と似たようなもの、ですから」
女性は、その少女の笑顔と言葉から感じた、切なさと悲しさと愛おしさに胸が詰まった。
この少女が耐えているのは、病気と罪悪感だけではなかった。
兄にそれが気づけないのは道理である。寧ろ少女からしてみれば、気づいてほしくないことであろう。
胸の内に秘めて秘めて、ひたすらに我慢し続けていたのだろう。
余りに、余りに残酷だった。
「……いつから、ですか?」
女性がそう問うと、少女は遠い瞳になりながら考えて、すぐに首を振った。
「……分からないですね、いつの間にか、です」
女性はそれを聞き、「……そういう、ものですものね」としか返すことができなかった。
切なく、空しく、寂しく、愛おしい。
少女の心中はいかばかりか想像しただけでも、女性の胸は締め付けられた。
その胸の内の感情がないまぜになってしまったのか、女性の瞳からは意識せずに塩辛い奔流が流れてしまっていた。
「……あの、ごめんなさい、辛い、ですか?」
流石に少女は荷物を背負わせすぎたと感じたのか、そう言ったが、女性は首を横に振った。頭を動かすたびに、女性の瞳から雫が舞った。
「……こちらこそ、変に泣いてしまってごめんなさい。ほんとに泣きたいのは貴方なのに」
それは少女にとっては、同情や共感に似たものであれど、不愉快ではない感情だった。
余りにも、その女性の涙は純粋だったのだ。
分かってくれる人が兄の他にもいるのだと、寧ろ兄以上に理解してくれる人がいるのだと、陽だまりのような温かさがそこにはあった。
少女はポケットに入れてあったハンカチを差し出すと、女性は受け取り、目じりに残る涙を拭いた。
「いえ、大丈夫です。……なんというか、泣いてもらって……その、嬉しかったです」
今度少女が浮かべたのは、はにかむような笑みだった。
純粋な、年相応な笑顔だった。
夕日が山裾から離れて天に昇っていくのを、女性は感じた。
その笑顔を見て取ると、女性も笑顔で返した。
「……久々に泣いちゃいました。いや、恥ずかしいですねなんか」
パタパタと赤くなった顔を仰ぐように女性が掌を振ると、今度は少女が微笑ましいものを見るような瞳になった。
「感受性が豊かなんですね。いいことだと思いますよ?」
「いいことではあると思いますけどね?この年で人前で泣くっていうのはちょっと……」
「いいじゃないですか、感情を隠すよりかは正直なほうがよほどいいですよ?」
「……妹さんが言うとシャレにならないですよそれは」
女性がなんとも言えない顔でそう返すと、少女は柔らかく悪戯っぽく笑いながら「そうですね」と返した。
そこからは、腹に何も抱えていない、ただの談笑が始まった。




