コンプレックス
「いつもお兄さんは言ってますよ、妹は凄いと」
春のそよ風のような柔和な笑みを浮かべたまま、女性は日差しがほのかに入るだけが光となっている病室の床を踏んだ。
女性の言葉に少女は少しだけ考えこむと、口角をやや上げた。
「そう、なんですね。嬉しいですね」
声の調子もあげ、絞り出すように満面の笑顔を浮かべた少女に対して、女性はその笑みを絶やさないままベットそばの椅子に腰かけた。
すると女性は机の上に置いてあった本を見つけ、少しだけ驚いた声を出した。その本の表紙は赤い皮を思わせる質感のものであり、読み終わったことを示すようにスピンが本の最後尾に鎮座していた。そして黒く縁どられた白い文字で大きく、『全球凍結』と書かれていた。
「この本、最近話題ですね。私も読みましたよ?」
すると少女も反応を示したのか、心の深層の少々の華やぎが表情という地層に顔を出した。
「そうでしたか、面白いですよね?これ」
「ええ。少し陰鬱なストーリーですが、それでも懸命に努力する主人公には、月並みな感想ですけど感動しましたね」
「……そう、ですね。本の世界の人々ですけど、私も感動しましたし、尊敬もします」
少女は少しだけ言葉に詰まった。それでも、なんとか口を動かすことに成功し、音の羅列を発することができた。
その様子を冷静に見ていた女性は、その本を静かに手に取った。
「……確かに、凄いですよね。自分の行く末が定かでないのに努力できる人って」
ね、と女性は少女に同意を促すように語り掛けると、少女はそれに抵抗もせず頷きを返した。
「努力なんて、できる人とできない人がいますから。努力が才能っていうのはいい言葉だと思いますね」
笑みをこぼしながらの少女の言葉に、女性も返すように頷く。
「ええ、何事にも必死になれるというか、それに向かって立ち向ける人っていうのは、何れであれ惹かれる人ですよね」
「私もそう思います」
流れるような少女の返答に女性は笑みを深めた。
「……兄は、貴女にとってそういう人ですか?」
少女は、先ほどとは違う種類の躊躇いを口の中に忍ばせながら、それでも興味が勝ってしまったのか、言葉が発せられた。
女性は虚を突かれたように目を丸くしながら、それでも先ほどよりも大人っぽい、しかし子供のようにも思える悪戯心を含んだ笑みを浮かべた。
「それは、貴女の方がよく知っていることだと思いますよ」
綺麗なカウンター。今度は少女の方が虚を突かれた形となったが、同じようにすぐに破顔した。
「……ずるい人ですね」
「あら、ご兄弟にそろって言われるなんて、心外ですね」
どこか拗ねたように、あるいはふざけたように膨れる女性に対して、少女は揶揄うように続けた。
「兄にもずるいと言われたんですか?それなら相当ずるい人なんですね」
「言われてしまいましたよ。私は鏡を見ろって言いたいのですけれどね?」
「それは確かに。そうですね」
知らない人間同士でも、共通の友人の誰かの話題を引き合いにしたら会話は繋がる。それを表すかのように、苦笑交じりであったりはするが、少なくとも少女は笑みを浮かべていた。
それをみている女性の瞳はとても優しさに満ち満ちており、成分を調べてみたら慈悲すら存在していると思える表情で、二人の会話は行われていた。
そのまま、暫く少女と女性の会談は、二人の行く末を左右する人間を議題において続いていた。
暫く談笑が続いて話題が点々とした後、話題は結局ウロボロスのように、共通で特定の人物へと舞い戻った。
「でも、最近はお兄さんも仕事やら何やらと、凄い努力しているようですね」
そう女性が発すると、少女の顔は分かりやすく曇った。
それでも太陽が雲に閉ざされたのは僅かな一瞬で、すぐに晴れ間に戻った。
「そう……みたいですね。あまりそういう顔は見せてくれませんけど」
「それはしょうがないですよ。男っていうのは格好つけたがる生き物ですからね」
「そうなんですね」
「ええ、そうなんです」
女性の言葉に少女は風に吹き飛ぶ泡のように微かに笑うと、その表情をやや沈鬱なものに変えた。
それを目の前で認識してか、女性の表情もはた目から見たらわからないが、その内部構造の歯車を切り替えていた。談笑用の軽いものから、海の底に耐えうるものへと。
「……さっきの話じゃないですけど、努力できる人って、凄いですよね」
そのすごい、という言葉が指す対象が何なのかは、すでに明白だった。
「確かに。お兄さんは凄い人だと思いますよ。愚直なくせに、一生懸命周りを見ようとしていて」
「はい。そう思います」
女性の言葉に、少女は深く頷いた。
それと同時に、表情が悲し気な物へと移り変わっていく。
「……努力って、先が見えない物じゃないですか」
「ええ、そうですね」
二の句を継ぐ前に、女性は少女の目を見て頷く。
「……怖い、じゃないですか。目の前が何も見えないって」
少女がそう言葉を返すと、女性は再度深く頷いた。
「ええ。目隠しされたまま、その先になにもない、奈落に行ってしまうのではないか、方向が間違っているのではないか。そんな風に思ってしまう時はあります」
「そういう時って、……どうしますか?」
女性は、その少女の言葉に対して即座に返答することができなかった。
今の少女の精神状況、今までの会話の内容。そしてこれから話さなければいけない会話の内容。それらを加味し、ゆっくりと確かめるように言葉を発した。
「……誰かに、助けを求めますね」
「……助けを、ですか」
その少女の表情には、意外であるとありありと書かれていた。
「ええ。この先がどこに繋がっているのか。自分が分からなくても、だれか分かっていそうな、知識がある人を頼りますね」
その言葉に、少女は少なからず不満を覚えていた。
それもそうだろう、と女性は内心で少女の反応に頷いていた。
兄に対して迷惑をかけたくないのに、帰ってきた返答が人を頼れ、ということだったのだから。
そんな風に少女の心の中を察しながらも、少し弾むような口調になって女性は言葉を続けた。
「でも、ですよ?貴女にはどんな暗闇であろうと、お兄さんって先導者がいるじゃないですか」
――悲しいことだが――女性の思惑通りに、その言葉によって再度少女の口は一拍止まった。それを見て、女性の表情は変わらずとも瞳の色が変化を遂げた。
人の闇をのぞき込んでいるような色へと、心優しい尋問官へと。
それでも少女は無理やり口を動かそうとした。
しかし。
「……そうですね、とてもありが――」
「ありがたいことだけど、罪悪感もある、ですか?」
少女の言葉を無遠慮なまでに断ち切る女性の言葉に、少女の目は大きく開かれ、驚愕の表情を浮かべながら女性の顔を見返した。
同時にその言葉は少女の心に風をよんだ。それも、とてつもない規模の物を。
少女の口の中は砂漠と化した。すでに容量を減らしつつあった唾液の海は荒れ狂う風に大敗し、一瞬にしてその姿を消した。
女性は少女の内面の動揺を察するように胸の内で苦々しく思いながら、少女の瞳を見返したまま言葉として続ける。
「お言葉ですけれど、見ているだけで分かります。貴女は無理をしていると。……痛々しいほどに」
その言葉を発するとき、女性は自分の表情筋に待機を命じた。決して同情や悲しみを見せないように、ただただ明確に事実として、こちらにシグナルが伝わっているということを少女に伝える。それだけを意識することに努めた。
そのおかげからか、少女には混乱の最中その言葉を自分の中で咀嚼する余裕が生まれた。
その心の余裕に住み着いたのは、抵抗感だった。
目の前の女性も感じたことがあるその感情は、端的に言えば無遠慮な共感に対する怒りだった。
「……貴女に、私の何が分かるっていうんですか?」
少女はなんとか自制したのか、その言葉から怒気は僅かしかあふれ出てはいなかった。だが、その中には確かに火種が煽られるのを待っているのだろう。
そんな少女の表情を見返したまま、女性は無表情で、何の気負いもなく言葉を発した。
「分かりますよ。我慢してる人間の表情が見え隠れしてますから」
「だからそれを何故分か――」
答えになっていないと少女は断じ、言い訳のような言葉と女性の言葉を認識し、その心の中の火種に乾いた風を吹かせた。
今にも立ち上がらんとするような少女の言葉を途中でたち、それでも静かに女性は言った。
自らを嘲笑するような、物悲しい笑みを浮かべながら。
「貴女がしている表情はね、私が家の鏡でよく見る顔なんですよ」




