永らく永らく
真っ白い空間、そう形容したくなるほどに白がそこでは目立っていた。
壁紙、蛍光灯、それらすべてが真っ白だった。
すれ違う女性は少しだけ会釈をして去ってく。その服装も純白のナース服に白く丸い帽子だった。
生を意識しすぎているばかりに無を感じさせる空間。それがそこの印象だった。
虚無感。
それを感じてしまうのは私が病人と近しいからなのか、それとも別の理由からなのか。
手に紙袋を下げて廊下を歩けば、点滴を腕にさし、点滴台につかまりながら歩いている老人が目の前に見えた。
青い入院患者用の服を楽に着ているその老人の顔の皺は深く、腰は猫背気味に曲がっていた。
頭髪はあまり見えず、肌色が見えるほどに禿げていた。袖から見える腕はやせ細り、体は全体として小柄に見える。
年齢にして米寿は過ぎたころあいだろうか。幾度の苦労を感じるような肉体の老化だった。
「おお、これはこんにちは」
老人側も私を見つけたのか、近づきがてら声をかけてきた。その声はややしわがれており、それでも耳に入りやすかった。
「ああ、お久しぶりです」
挨拶を返しながら、少し会釈をする。
「確かにお久しぶり、ですか」
物事を思い出すように瞳を天井に向けると、納得したように何回か頷く。
「そうですね。あんまり顔見ませんでしたね。駄目ですよ?妹さんを寂しがらせては」
少しだけふざけたような口調での、笑み混じりの忠告に、私も少しだけ笑みをこぼしながら答えた。
「はい、気を付けます。あいつも結構寂しがり屋ですので」
老人は私の答えに、そうですか、とにこやかに笑みを浮かべながら満足したように頷く。
「こんな場所では、あんまり人とのつながりも意識できませんしね」
床を遠い目でじっと見つめながら、老人はそうつぶやいた。その見つめた場所も、やはり白だった。
「……ちゃんと、気を付けるようにします」
「ええ、そうした方がいいと思いますよ」
老人の言葉の中に含まれていた意味をくみ取り、反省していることを示すように言葉を発すると、老人の口角の皺が深くなった。
「寂しさは人を弱くしますから。病気の時はなおさらです」
孤独。
社会性とは世の中に対する免疫のようなもので、少し世の中と関係を断つだけですぐに衰えてしまう。
そんな状態で世の荒波に投げ出されようなら、病原菌に食いつくされて息も絶え絶えになってしまうのだろう。
それは精神、心の状態とて例外ではなく、孤独というのは辛い状態に相違ない。
裸のままで冷凍庫に入り続ければ、すぐに体は壊れてしまうだろう。
病は気からとはよく言うが、やはり健全な肉体は健全な精神に宿るものだ。
「……そうですね、妹には余計な負荷をかけたくないです」
そう私が言うと、老人は揶揄うように笑う。
「兄弟仲がいいようで何よりですね、全く」
「ええ、よく言われます」
その言葉に、肩をすくめながらこちらも苦笑で返す。
少しだけ周囲の環境が為にお互いの遠慮した笑い声が響くと、老人は腰をとんとんと調子を確かめるように叩いた。
私はそれを終了の合図と受け取り、少しだけ会釈をする。
老人はやはり一連の会話に満足したようで、カラカラと音を立てて点滴台を押し始めた。
「では、また」
移動の最中、そう一言だけこぼして私の横をすれ違った。
「ええ、また」
すれ違う直前に私もそれに返し、歩を進めた。
……短い会話だった。
昔の私は、老人というものは人との会話には飢えているものだとばかり思っていた。
それは交友関係の減少と、それに伴う本音を離せる場の減少にあると考えていたが、その固定観念はあの老人によって覆された。
あの老人との会話自体も言うべき事柄は言っておきながら、そこには確かに人間味があった。
現実を生き抜いてきた人間には、どこか余裕が垣間見えるものだ。
人とは自由になりたがるくせに、どこかに居場所を求める生き物だといえる。。
自身の居場所にしっかりと碇を下ろせているものの方が、どこへでも行けるのだろう。帰る場所が明確なのだから。
何回か交流を繰り返していたが、そのたびにどこかしら感嘆したり得るものがあの老人からはある。
人生は長さよりも深さで判断するべきなのだろう。
それならば、長く深く生きた人間はどんな精神状況なのだろうと不意に思いついた。
それははたして正常な人間だと言えるのだろうか。海の底で呼吸できる人間を、果たして人と言っていいのだろうか。
それを恐れることも、また愚かだろうが。
そんなとりとめのないことを考えていれば、足が目的地で止まった。
「374」
目が悪い人のためにでかでかと青い文字でそう扉の下部に書かれている部屋。
そこが私の目的地だった。
部屋のプレートを確認して名前があっていることを確認し、コンコンコンと三回ノックすれば、内側から、どうぞ、という声が聞こえた。
ガラガラと扉を開いてみれば、パタパタと風で揺れるカーテンとぼんやりと外を見る少女の姿が見えた。
ベッドの上で布団を膝までかけてその少女は座っており、肩甲骨のあたりまで伸びた黒髪が風に靡いて頬にかかっていた。手には本を持っており、読みかけなのか中途半端な頁を開いていた。
服装は先ほど会話した老人と同じ病衣。所々皺が見えるものの、日常的に替えているようで汚らしさはなかった。
窓から入る日差しがカーテンに煽られて不規則に揺れた。顔の半分をその光に照らされていた少女が、人の気配に向き直るように顔をゆっくりとこちらに向ける。
その体は少しやせ気味で、腕の皮の上から薄く骨の線が見える。瞳はどこか眠そうで、黒光りする瞳の半分ほどを瞼が覆っていた。
ぼんやりとした瞳の焦点がゆっくりと私に合うと、少しだけ不貞腐れたような表情になった。
「お久しぶりね、兄さん」
やけにお久しぶり、のところだけ強調しながら、少女は私に言葉を投げた。




