きりきり舞い
その日の私はスーツを身に纏っていた。
あちらこちらの企業を歩き回り足が棒のようになったまま、私は一つの契約の報告のために本社に戻っていた。
メールなどの報告でもいいのではないかと考えたが、大事な事情は面と向かって言うべきという社訓が私の勤めている会社にはあるため、それに倣うことにした。
仕事場がオフィスを離れつつある世の中の現状と真逆だとは思うが、どうしても人間が行う仕事である以上譲れない場所はあるべきだろう。
少なくとも私はそう解釈していたし、その信念に賛同もしていた。
仰々しい入り口をくぐれば社員のキーを通す改札のような場所があり、そこへと幾人もの人間が列をなしながらも遅れることなく、するすると飲み込まれていく。私もそれに倣って、財布の中に忍ばせていた会社員である事を示すカードを取り出して改札の読み取り口に通す。
するとピッという微かな電子音が鳴って、前の人間に続くことが許された。
判を押したような服装をした人間が流れていく。これが「社会人」という物の製造レーンの中と言われても私は納得してしまうだろう。
時刻は二時ごろ。外回りから帰ってきた時間にして早く、出勤には遅すぎる時間にしてはそこに人が多く、私自身がそれなりの企業に勤めているということを感じさせる。
改札を抜けると広大なエントランスが私の目の前に広がった。中央付近は吹き抜けとなっており、上の階を行き交う人が下から見える。
階の端の方にはベンチやらテーブルやらがおかれており、慰み程度に観葉植物や自動販売機がおかれている。それを囲み談笑するものもいれば、電話を片手に忙しそうにせかせかと歩き回る人間も見える。
それでも仕事という統一意識から抜け出すことができるものはいないようで、歩きながら聞こえてくる会話の中身は商談やら企画、開発やらで仕事に関することしか耳に入ってこなかった。
それが必要なのが資本主義の権化たる企業の在り方なのだろうが、どうにも目隠しをしたまま同じ方向を無理やり向かされていると感じてしまう時がある。穿った見方だろうが。
上の階に行くためにエレベータの間に陣取り、上へ矢印が向いているボタンを押したとき、私の右横に人が近づいてくる気配を感じた。
目線を少しだけ横に向けてみると、その視線を感じたのか横に立つ人が軽く手を上げつつ言葉を向けてきた。
「やあ、営業の上がりかい?」
その声は渋く、その癖低音すぎるということはなく耳触りのいい中低音だった。耳にすっと入ってくるその音に私の姿勢は不意に伸び、男性に向かって軽く会釈を行った。
「はい。丁度一つ契約が片付いたところで」
「そうかい」
私の言葉に納得したように頷いた男性は、ピシッと全く皺や埃など見当たらないような紺色の薄いストライプの入ったスーツを着ていた。
首に下げているのは赤色のネクタイ。柄もなくごく普通のものだが、エルドリッジノットで結ばれているそれは純白のYシャツと相まって存在感が十分すぎるほどにあった。
鼻は高く、それと相まって堀が深く感じ目が奥にあるようにすら見える。その眼光は力強く、白髪が混じり始めた黒髪が頂点を覆っていても、なお若々しさを感じさせられた。
エレベーターが到着したことを知らせる音が鳴って扉が開いた。私は先に中へと乗り込み、開ボタンを長押しした。
中には誰もおらず、降りる人もおらず、乗る人間も私とその男性以外にはいなかったため、男性が乗り込んだことを確認すると私は開ボタンから指を離し、自分の行き先である5階のボタンを押した。
「何回ですか?」
「同じ階だ」
「了解です」
男性の行き先を押そうとして迷った私の指は、その男性の答えによって力を失って降ろされた。
振動が静かに響き、エレベーターの上に取り付けられている車輪が駆動しているのが感じ取れる。上部には階を表すランプが点灯しながら左へと動いており、今何階から何階へ移動しているのか示している。
「契約というと、件の病院か?」
「はい。MRIは一括で導入していただけるそうです」
静かな空間を破った男性の言葉に静かに答えると、男性は少しばかり弾んだ声で答えた。
「それはいいね。何割引きだ?」
「三割です」
「結構結構」
私の言葉に満足したように少しだけ頷く。
医療用の機械というのは値段の変動が激しい。本体の値段が変動するわけではなく、明確に言えば施設によって買う値段が違う、と言えばいいだろうか。様々な思惑や交渉の成果によって、基本的に定価よりも安値で取引される。9割引きなども中には存在するのだ。
そんな中で満額とはいかないまでも3割、というのは上々の結果と言えるのだろう。
「となると純利益だけでも億行くな」
「はい、恐らくは」
「詳しくはその中か?」
男性は私の手に持っていたビジネスバックに目を向けた。
それが資料のことをさしているのだろうと察し、頷く。
「はい。正確なものは部長から上がると思いますが」
そういうと、男性はおどけるように肩をすくめながら、エレベーターの壁に取り付けられていた鏡に背中を預ける。
鏡が男性の背中を反射し、男性の体から影を奪った。
「まあ、せいぜい待っているとしよう。どうせなら課長の口から直接聞きたいがね」
笑いながら揶揄うように吐かれた言葉に、私も笑みを返しながら答える。
「それをすると越権行為になってしますよ。許してくださいよ専務」
形式上は部長の仕事となっているため、それを私が専務に伝えてしまうとなると仕事を与えられた上司をすっ飛ばして部下が直接報告に行く形となり、部長の管理能力を問われかねない事態となってしまう。
それを分かっているからこそ、こんな風に冗談めかして言っているのだろう。
専務。それと課長。
課長というのは今の私の肩書だ。営業部の課長。そのため専務、という肩書は私にとっては上司も上司であり、どうにも頭が上げられない存在だ。
幸運なことに私はその立場で結果を出し、睨まれながらも可愛がられている。
問題のはその睨まれている、という方。
これにはいかんともしがたい原因があり、それもこれまた単純明快なのに解決が困難なのだから困ってしまう。
「ああ、そう。越権行為と言えば、課長」
「はい、なんでしょう?」
話を変えるように吐かれた言葉に、私の耳は鋭敏に反応をした。
その反応を私が示したことを確認してから、男性は目を細めるとともにより低い声で、厳かとすら形容できる声で言葉を放った。
「私の娘との関係、どうなっている?」
睨まれている原因。それは端的に言えば、こういうことなのだ。




