3-3
◇◇◇◇
豪華客船ドゥルシラ号のホールでは、カーペット敷きの床の上に座らされた人々が恐怖に引きつった顔で息をひそめていた。人質になっているのは200人あまり。
海賊が襲撃した時、ドゥルシラ号には乗客と乗務員合わせて約800人が乗っていた。多すぎる人質は制御しきれない。
そこで、パーティが開かれていたホールの出入口を抑えてそこにいた人々を監禁し、あとは逃げるにまかせたのだった。
人質のひとりがそっと目を上げた。
自動小銃と手榴弾で武装した海賊が等間隔で人質を取り囲んでいる。監視役の12人はもう5日間もこの状態だ。さすがに注意力を欠いている。
もしかすると反撃のチャンスがあるかもしれない。軍隊経験のある人質の男は思った。
だが、視線の先に流血の跡をとらえてすっかり気勢をそがれてしまう。
数時間前のことだ。ギガロックを名乗る海賊の首領は、こともあろうに人質の中で最も幼い子供とその母親をいけにえの羊に選んだのだった。
人の命を奪うことを何とも思わない海賊は、誰であれ妙な動きをする者があればためらうことなく引き金を引くだろう。
犠牲は自分ひとりではすまない。反撃は考えてはいけないことだ。
人質の男が視線を戻そうとしたとき―――黒い影がよぎった。
ホールにある3か所の出入口の前にはバリケードが築かれている。内から開けてやらない限り、誰も入れないはずの場所に突如現れた黒づくめの男。
その姿を視界にとらえた海賊は言いようのない恐怖に襲われた。反射的に自動小銃を向けたもののトリガーは引けなかった。
そのままの姿勢で固まったように動けなくなっていたのだ。海賊だけではない。人質も驚きの表情のまま固まっている。
一時停止
本物のギガロックがホール内の人々の時間を止めたのである。人質の安全を考えた場合、この方法が最もリスクが少なくてすむ。
他の海賊に気付かれる前に、200人あまりの人質全員を安全な場所に移動させなくてはならない。
と言っても時間を止められた人々は自分で逃げることはできない。動かない人々を他の誰かが運ばなくてはならないということだ。
人質の止まった時間が再び動き出した。気が付くと、青い空の下、船の甲板の上にいる。周囲を見回しても武装した海賊の姿はない。
「ここはどこだ?」
「わたしたちホールにいたのよね」
「いつの間にこんな所に来たんだろう」
「海賊はどこへ行ったの?」
自分に起こった事態を把握できない人々は混乱していた。
騒ぎを聞きつけて集まってきたのは兵士たちだ。船は人質救出の拠点になっているアビュースタの軍艦だった。
人質には何がどうなっているのかわからないが助かったことは理解できた。恐怖から解放された人々は抱き合い涙を流して喜び合った。
甲板の隅でそんな様子をながめている軍人がふたり。ミュウディアンのリアンクール少佐と副官のヘットガー中尉だ。
「これは瞬間移動、でいいのよね?」
リアンクール少佐が確認するように尋ねるとヘットガー中尉はあごに拳を当てる。
「そうとしか考えられません」
少佐は考えながら言葉を紡ぐ。
「あれだけの人数を一度にテレポートさせるなんて聞いたこともないわ。特殊能力者が何人必要だと思う?」
「最低でも70人でしょうか」
「中尉はそんなに大勢の気配を感じた?」
「いいえ」
「・・・・・・・・・」
ふたりは顔を見合わせる。
「どういうことかしら?」
テレポートは珍しい能力ではない。多くのヴァイオーサーが持っている“よくある”能力のひとつだ。
だが、どれだけのものをどれだけの距離ジャンプさせられるか個人差の大きい能力でもある。自分自身がジャンプする場合と、望んだものをジャンプさせる場合がある。
他人をジャンプさせるのは自分がジャンプするよりも難易度は高い。
リアンクール少佐とヘットガー中尉がブリーフィングルームに戻ってみると、騒然としていた。集まったミュウディアンたちは興奮している。
この中に劇的な人質救出に関わった者はいないと判明したところだった。
では、一体誰が200人からの人質を救ったのだろう。謎は深まるばかりだが今は考え込んでいる場合ではない。
人質全員の無事が確認された。これで、遠慮なく海賊を討伐できる。また人質を取られても面倒だ。間を置かずに攻撃を仕かけるべきだ。
ゴーサインが出ると、2、3人ずつのチームを編成したミュウディアンはドゥルシラ号に突入した。
本来ならば18人全員でセイラガムを名乗っている首領と相対したいところだが、居場所がわからないためにこうするしかなかったのだ。
首領を発見したチームはすぐに他のチームに連絡を入れ、全員で対抗する手はずになっている。
豪華客船の中は戦場と化した。海賊の中にも幾人かのヴァイオーサーが混ざっているためミュウディアンも油断できない。
リアンクール少佐とヘットガー中尉も客船の中を突き進む。
だが、他のチームとは様子が異なっていた。ほとんど戦うことなく海賊たちを武装解除させていったのである。
それはリアンクール少佐の持つ一風変わった特殊能力によるものであった。
それは精神解放―――――
相手の緊張や不安を取り除きリラックスした精神状態にするという能力である。セラピストになったらよさそうなヴァイオスだが、意外なことに戦いの場でも有効であった。
興奮し冷静さを失っている者の熱を冷まし闘争心をくじくことができるのだ。殺し合うことなく敵に戦いを放棄させることができれば誰も傷つかない。
これほど平和的で無駄のない戦い方はない。
こうして無傷の捕虜を得たリアンクール少佐は、他のどのチームより速く首領の居所を突き止めた。だが、たどり着いた時には船長室はもぬけのからだった。
「そんなはずは・・・・・・ ボスは船長室にいるって言ったんだ」
困惑した様子の捕虜は嘘をついているようには見えない。
少佐は壁に埋め込まれている金庫に目を留めた。金庫を隠すために飾ってあったであろう絵画が床に落ちている。
ヘットガー中尉が扉に手をかけるとすんなり開いていく。鍵は外れていた。
「どうやら、あなたたちは見捨てられたようね」
少佐の言葉に捕虜はがっくりと膝を付いた。金庫の中は空だったのだ。
「格納庫に案内して。ドゥルシラ号には緊急時のための高速艇が積んであるのよね。あなたもこのままじゃ気がすまないでしょう?」
失意の捕虜の目に怒りが浮かび上がる。充分な報酬を約束した首領の言葉を信じて今まで付いてきた。ところが、その首領は金を持って自分だけ逃げようとしている。
(裏切りなんか許すか!)
少佐の予想通り海賊の首領は格納庫に向かっていた。
今なら、仲間のヴァイオーサーがミュウディアンの相手をしている今なら、脱出できる。高速艇に乗り込むことさえできれば逃げおおせる自信はあった。
ところが、格納庫にたどり着いてみると、頼みの綱の高速艇は原型を残さないまでに破壊されていた。
「くそっ! ふざけたマネしやがって!! どこのどいつだ!」
怒り心頭の首領は足元に落ちていた船の破片をけりとばす。
宙を舞った破片が床に落ちて大きな音をたてた。思いがけない大音量に目を向けた首領の全身が強ばる。視線の先に黒い人影があった。
闇が動いたのかと思った。全身黒づくめの男がこちらに向かって歩いて来る。
束ねた黒髪が背中に流れ落ち、一房の前髪が顔の上にたれさがっている。黒い肌に埋めこまれた瞳も黒曜石の黒だ。
顔立ちは恐ろしいほどよく整っており、それがかえって畏怖の念をかきたてる。
軍服もブーツもグローブも、身に着けているものすべてが真っ黒だ。
(―――ホンモノだ)
自分が偽者だと知っている首領は目の前の黒ずくめこそが、本物のクリュフォウ・ギガロックであるとすぐに気が付いた。
圧倒的な威圧感をまとって近づいてくる本物に気圧され、一歩、二歩と後ずさる。
このまま逃げ出したい衝動にかられるが、セイラガムに背を向けて生きていられるはずもない。
それでも、ほんの少しこの場に足止めできれば、あるいは逃げられるかもしれない。
首領はごくりとつばを飲み込んで床をけった。宙高く舞い上がり無数のエネルギーのつぶてを放つ。
セイラガムは頭上から降って来る光のつぶてをシールドで防ぎ、首領に向けて伸ばした手でものをつかむような仕草をした。
すると、首領の身体は空中で停止したまま動かなくなる。
まるで見えない大きな手につかまれてしまったかのようだった。セイラガムが手を振るとその動きに合わせて首領の身体も振りまわされ床にたたきつけられる。
「がはっ!!」
全身を強打した首領がうめき声をあげた。
セイラガムが使ったのは魔法の手。
この能力は自分の手の動きに連動して目には見えない巨大な手を操るもので、片手を軽く動かすだけで相手に大きなダメージを与えることができる。
今のセイラガムにはうってつけのヴァイオスだ。派手な戦闘でミュウディアンに気付かれる事態は避けたい。
ただし、見えない手を出現させ操るにはかなりの集中力を要する。ましてや病み上がりのセイラガムは体力がなくひどく疲れやすい。
そのため周囲を充分に警戒することを難しくしていた。
(だれかいる!)
背後に人の気配を感じた時にはすでに、すぐ近くにまで接近を許していた。
驚いたセイラガムが振り返ると濃紺の軍服に身を包んだ男女が立っていた。柔らかな雰囲気をまとった若い女と口ひげの男だ。
マジックハンドを行使中とはいえ、こんなに近付くまでまったく気配を察知できなかった。このふたりが強力なミュウディアンであることの証だ。
「危ない!」
リアンクール少佐が叫んだ。
セイラガムは首領に向き直りながら自分の身体をシールドで包み込む。
マジックハンドで宙に浮いたままの首領は、セイラガムがミュウディアンに気を取られているすきに腕一本の自由を取り戻していた。
放たれた無数のつぶてがセイラガムを襲う。光のつぶてはシールド壁にぶつかって消滅する、、はずだった。
ところが、無数のつぶての中のふたつだけが、シールドを突き破ってセイラガムの安全圏に侵入して来た。
ひとつは黒髪を束ねていたリボンを引きちぎり、もうひとつはセイラガムの首筋をかすめた。
拘束を解かれた長い黒髪がふわりと宙に広がると同時に、皮膚を切り裂かれた首筋から鮮血が噴き出す。
セイラガムは床のリボンに視線を落とした。フィヨドルが結んでくれたものなのに。
「へっ、油断したな」
セイラガムと呼ばれる男に傷を負わせた首領は、宙に浮いたままホンモノを見下ろしている。引きつった笑みを浮かべて。
シールドは常に全力で展開しているわけではない。1の力の攻撃に対し10の力でシールドを展開しても、無駄に生体エネルギーを消費するだけだ。
相手の攻撃力を見極めて、必要以上のバースを消費しないようにシールドの強度を調節しながら展開しているのだ。
戦闘訓練を受けた特殊能力者は、それが無意識のうちにできてしまう。
同じ攻撃をもう一度受ける場合、攻撃の威力がわかっているのでより無駄の少ないシールドを展開することがでる。
もちろん保険をかけて相手の攻撃力の2倍から3倍の力で展開するのだが、もし、威力が桁違いのものになっていたなら、シールドはもちこたえられない。
首領の攻撃は訓練を受けたヴァイオーサーの習慣を利用した巧妙なものだった。
わざと先程と同じ攻撃を仕かけ、無数のつぶての中にふたつだけ威力を高めたものを紛れ込ませることで、相手に気付かれないようにするという念の入れようだ。
ましてやこの至近距離では気付いても防ぐ間はない。
魔法の手を行使中のセイラガムは首領に向かって伸ばした右手をぐっと握りしめた。すると、首領の身体はぐしゃりとひしゃげ、赤い液体を飛び散らせて動かなくなった。
奇妙な叫び声を残して死んだ首領を見つめるミュウディアンたちは、ゴクリとつばを飲み込んだ。あんな死に方はしたくないものだ。
セイラガムが握りしめた手を開くと、しぼりかすになった首領の身体は自らの血でできた池に落ちた。
血だまりはもうひとつ。セイラガムの足元にもできていた。首筋からはまだ血が噴き出している。
ふいに身体がふわりと浮くような感覚にとらわれたセイラガムはひざを床に着いた。全身の力が抜けていくようだ。
「早く止血した方がいいわ」
リアンクール少佐がその場から動かずに警告した。のろのろと顔を上げたセイラガムの黒い顔には衰弱の色が見て取れる。
「今からそちらに行くけれど攻撃しないでね。私たちにあなたと戦う意志はないわ」
少佐はヘットガー中尉に動かないよう合図を送り一歩前に踏み出す。セイラガムが敵意を見せないことを確認してから慎重に接近した。
「傷を見せてちょうだい」
勢いよく吹き出す血は簡単に止められそうにはない。
「傷口を焼いて止血しましょう。ここに座って」
セイラガムは高速艇の残骸に背中をあずけて腰を下ろした。
「首に手を当てるわよ」
声をかけてから行動にうつすのはできるだけ刺激しないようにするためだ。
「いい? 焼くわよ」
少佐の手の平に高温の熱が生まれ“ジュッ”という皮膚の焼ける音がする。
「ぐっ!!」
セイラガムは奥歯を噛みしめて悲鳴を飲み込み激痛に耐えた。途切れそうになる意識を必死に繋ぎ止める。
気を失ってしまったら元の姿に戻ってしまう。ミュウディアンの目の前で正体をさらす訳にはいかない。
乱れた呼吸を整える間、セイラガムはリアンクール少佐を観察していた。
柔らかな雰囲気をまとう彼女はとてもミュウディアンには見えないが、全身からあふれるバースが彼女の能力の高さを物語っている。油断はできない。
(きれいなひとだな。ファラムリッドさんとはちがう感じだけど・・・・・・)
同じ年頃の女性を見ると必ずファラムリッドを思い出すのだ。比べてしまうのも無理はない。
「そんなに見つめられると恥ずかしいのだけれど」
少佐の言葉にうつむくセイラガムはただのうぶな男にしか見えない。
「少佐、水です」
ヘットガー中尉が投げてよこした水筒のふたを開けセイラガムに手渡す。黒ずくめの男は一気に飲み干そうとしてむせってしまう。
大量の血が抜けてしまった彼の身体は水分を強く求めていたのだ。激しく咳込んで目に涙を浮かべている様はまるで小さな子供のようだ。
リアンクール少佐は正直なところ戸惑っていた。
目の前の黒づくめの男が本物のクリュフォウ・ギガロックであることは間違いない。だが、彼女がイメージしていたものとはあまりにもかけ離れている。
本人を前にしていると死神のイメージからどんどん遠ざかっていくようだ。
端正な顔立ちをしており、ばらけた長い黒髪が妖艶な美しさをかもし出している。確かに黒ずくめの姿はいかにも禍々しいが、中身まで真っ黒とは思えない。
咳が収まったセイラガムはよろよろと立ち上がった。ふと思い出したように少佐を振り返る。
「どうして。助けてくれたんですか?」
黒ずくめがはじめて口を開いた。
「あなたが人質を救出してくれたからよ」
少佐の言葉をセイラガムは否定しない。やはり、とうなずき合うミュウディアンたち。
「自分がクリュフォウ・ギガロックだったとしても?」
「セイラガムはたった今、あなたが倒した」
少佐はいたずらっぽく笑った。
「私たちの任務は海賊討伐なの。それ以外の命令は受けていない」
セイラガムはリアンクール少佐を見て、ヘットガー中尉を見て、それからおもむろに口を開く。
「ありがとう」
思いがけない言葉にミュウディアンたちは少なからず衝撃を受けた。死神だ、悪魔だとののしられる男の口からでた言葉とは思えなかった。
少佐はもっと彼と話をしてみたい衝動にかられたがすでにセイラガムの姿はなかった。
「ヘットガー中尉、私たちクリュフォウ・ギガロックにお礼を言われちゃったわね」
「リラクゼーションを使ったのですか」
「いいえ、使わなかったわ。彼は感情が高ぶっているようには見えなかったから必要ないと思ったの」
「確かに。まったく感情を見せませんでしたね」
リアンクール少佐はふと思い出してつぶやく。
「そう言えば彼から甘い香りがしていたわ」
「これじゃないでしょうか」
ヘットガー中尉は床に落ちていたリボンを拾って少佐に手渡した。
ちぎれたリボンには装飾文字で“ママン・マニ”とプリントされている。チョコレート菓子で有名なパティスリーの名前だ。
「ギガロックとチョコレートねぇ」
「つながりませんね」
「いいえ。そんなこともないかもしれないわ」
少佐はセイラガムがチョコレートをほおばる姿を想像して微笑んだ。案外似合っているような気がする。実際に言葉を交わした今だから言えることだった。
セイラガムになったルシオンの状況を知りたいオレはテレビの前に貼り付いていた。隠密裏に行動しているあいつの名が出ることはない。
だが、海賊とミュウディアン部隊の動向は逐一報道される。そこからあいつの状況を推測することはできる。
今、テレビのスタジオじゃ大論争の真っ最中だ。
人質救出の詳細がわかってくると、208人の人質をテレポートさせたのは誰かという話題で盛り上がっていた。
今回投入されている18人のミュウディアンが力を合わせたとしても、到底不可能だとはっきりしている。だとすると誰が、という流れになった。
クリュフォウ・ギガロックを名乗っていた海賊の首領はニセモノらしいという情報が伝わってくると、人質を救出した方がホンモノなんじゃないかと言うヤツが現れた。
特殊能力研究の第一人者って肩書のそいつは、208人もの人間を一度にテレポートさせることができる者は他には考えられないと主張した。
ところが、第一人者は他のコメンテーターたちからいっせい攻撃を浴びるハメになった。
セイラガムがアビュースタ人を救ったりするはずがないと言うんだ。大量破壊兵器に人命救助などありえないからあれはセイラガムじゃないだと。
どういう理屈だよ!
「ふん。会ったこともないくせに。勝手なことぬかしやがる」
オレは鼻を鳴らした。
あいつを心なんか持たない大量破壊兵器と言い切るコメンテーターには心底腹が立つ。
そのセイラガムが、フォート・マリオッシュを消滅の危機から守り、アリアーガの子供たちを殺人ウイルスから救ったんだと大声で叫びたい。それができないのが悔しい。
確かに、敵とみなした相手には容赦ない死神ではあるが。
セイラガムが人質を救出したという事実は、うやむやの内に闇に葬り去られてしまうのだろう。本人はそんなこと、気にもかけやしないが。
客船に乗り込んでいたミュディアンたちが帰投しはじめていると、アナウンサーが繰り返してる。終わったんだ。あいつもじきに戻って来るはずだ。
「ホットチョコレートでも作っといてやるか」
思いついてキッチンに行くと水音が聞こえる。ミニキッチンのとなりはシャワールームになっているのだ。
「帰ってたのか」
オレはほっと息を吐き出して肩の力が抜けるのを感じた。なんだ。緊張してたのか。
水音を聞きながらホットチョコレートとコーヒーをいれて戻った。
ところが、コーヒーを飲み干してもまだシャワールームから出て来ない。
ずいぶん長いな。せっかくのホットチョコレートが冷めちまう。様子を見てみるか。
シャワールームのドアを開けると、シャワーの水は床に座り込んだルシオンの身体を打っていた。あわてて水を止めると寝息が聞こえる。
なんだ。眠ってやがるのか。いつでもどこでも寝れるからって、シャワーの最中に寝るなよな。
狭いシャワールームの中には軍服やらブーツやらが無造作に脱ぎ捨ててある。
なんだコレ!
心臓がドクンとはねた。黒い服から赤い水がにじみ出ていたのだ。一気に血の気が引いて行く。
「ケガをしてるのか!!」
あせる気持ちを抑えながらルシオンの身体を調べたがこれといった傷は見つからなかった。首筋の火傷以外は。
軍服にしみこんでいたのは返り血なんだろうか。それにしちゃ顔色が悪い。やっぱりなにかあったんだ。
問い詰めたいところだが今は休ませるべきだ。元々病み上がりで体調はよくなかった。とりあえずベッドまで運んでやるか。
こいつ、こんなに軽かったっけ。
ヨッコラショと抱きかかえて予想外の軽さにドキリとした。こんなにも細っこくて小さな身体に、どれだけの重荷を背負わされているのかと思うと胸が痛んだ。
せめてそばで支えていてやりたい。
そんなことをごく自然に思う自分に溜息をつく。
「金にならないことはやらない主義だったのにな」
でも。ま、いいか。
オレの腕の中で眠ってるルシオンの無防備な寝顔を見ていると、そんな気分にもなるってもんだ。