最終話:朝靄の別れ
最終話:朝靄の別れ
東の空が濃紺の夜を溶かし、淡い茜色と金色の光芒を世界へ注ぎ始めていた。
朝靄が静寂の海のように広大な大地を覆い、復興を刻む鉄槌の音すら、いまはまだ眠りの中にある。風が駆け抜けるたび、吹き晒しの丘の上で三人の着衣がさざ波のように揺れた。
「……引き止めはしねぇよ。お前が一度踏み出した足は、たとえ世界の果てまで行こうと止まりはしねぇ」
ガゼルが大盾の底を静かに大地へ沈め、深々とした息を吐く。無骨なその双眸には、鉄の檻を破り抜けた戦友へ手向ける、静かな敬意と温もりが宿っていた。
「ヒルデ姉さん、風が冷たくなったら……包帯を、ちゃんと巻き直すんだよ」
ルカは胸の前で拳を小さく抱きしめ、澄んだ瞳に朝光を映しながらまっすぐに見つめ返す。
ふたつの温かな温もりに視線を巡らせたヒルデは、背に担いだ鉄の刃にそっと手を添え、ふっと唇を緩めた。かつて血と怨念の泥に塗れ、漆黒の殺意を宿していた瞳には、いまや曙光を浴びる湖面のような静謐な笑みが広がっていた。
「ああ。……また、どこかの酒場でな」
風に溶けてゆくような、短い約束。 白髪の女騎士は踵を返し、一度も振り返ることなく、光と影の混ざり合う朝靄の荒野へと踏み出していった。
遠ざかるひとすじの影を、ふたりの仲間は言葉もなく、その背中が果てなき地平の霞へと溶けて消えるまで見つめ続けていた。
エピローグ:果てなき風の先へ
どれほどの時が流れただろうか。
頭上に広がる青空はどこまでも澄み渡り、偽りの天蓋に遮られていた日差しが、果てしない荒野をあたたかく照らし出している。
踏み締める土の感触。乾いた風が運んでくる草と土の匂い。 白髪をなびかせながら歩むヒルデの足取りに、かつての世界を覆っていた重苦しい絶望の影はもうなかった。背に担いだ大剣の重みだけが、共に修羅場を潜り抜けてきた確かな証として、彼女の背中に寄り添っている。
ふと、立ち止まる。
荒野を吹き抜ける風が止み、静寂が訪れたその一瞬。 包帯を巻いた左手首を、そっと抱きすくめた。
かつて腕を蝕んでいた漆黒の鱗も、肉を裂く異形の爪も、世界中の歪みを喰らい続けた暗い孔も——すべては消え去り、包帯の奥にあるのは激戦の焔が刻んだ傷を抱く、赤く温かな「普通の自分の腕」だ。
けれど。
——トクン。
皮膚の奥、骨の隙間、血の流れる静かな水脈の底で。 じん、と掠かな熱が脈打った。
自身の心臓が刻む律動とは違う、いとおしいほど拙く、ささやかな拍動。
絶望の淵で手を伸ばし、この腕を喰らい尽くそうとしたあの日、エレボスは逃れえぬ「凶悪な影」だった。自分を脅かし、夜ごと死の冷気で苛む呪縛そのもの。
けれど、暗闇の深淵をともに潜り抜け、狂気と誇りを分け合い、最後にいのちを差し出されたいま、その影の色は変わり果てていた。
陽が差せば、大地に必ず寄り添う影がある。 光が強く差せば差すほど、その足元で深く、揺るぎなく寄り添う黒い孤独。 それは払い落とすべき呪いなどではなく、孤独な歩みをともに照らし出す、生涯分かつことのできない「半身」だったのだ。
世界中の「咎」を飲み干し、絶望の澱みをすべて洗い流したあの異形の魂は、滅びの灰となったのではない。一切の毒を削ぎ落とした純粋な「生命の種子」となって、この萌芽に満ちた地平のどこかへ弾けて舞い降りたのだ。
血の巡る水脈を通じてダイレクトに伝わってくるのは、遠い、気の遠くなるほど遥かな地の果て——氷の閉ざす極北の集落か、あるいは打ち捨てられた泥の村か。 その冷たい暗闇の中で、寒さに震え、世界の不条理に怯えながら今まさに産声を上げようとしている、あまりにも小さく哀れな命の気配だった。
(……見つけたぞ、影)
ヒルデは左腕をそっと胸元に引き寄せ、包帯の上から手首を強く抱きしめた。
あの日、化け物となった自分を抱き抱えてくれた冷たい影。 かつては絶望の泥の中で彼が差し出した黒い手をとり、影に引かれるままに戦い続けた。
けれど、今度は違う。
異形の爪も黒孔もない、傷痕だらけの温かい「人間の腕」で、新しく生まれ落とされる小さく脆いその命を、ただ温かく抱き上げるために。
「どれほど小さく生まれ変わろうと……逃げ切れると思うなよ」
ゆっくりと顔を上げ、眼前に広がる世界を見据える。 雲の切れ間から注ぐ光が、どこまでも続く地平線を黄金色に染め上げていく。
「待ってろ。……今度は私が、お前を見つけてやる」
指隙から溢れる朝光のなかで囁いた言葉に応えるように、腕の奥で小さな鼓動が、愛おしげにもう一度だけ強く脈打った。
白髪の女騎士は愛惜を込めて左腕をさすると、新しい風が吹き抜ける広大な『境界なき地平』の果てへ向かって、迷いのない足取りで歩み出していった。
【第一部完】




