エピローグ:―十九路の夜は明ける―
U22国際青年囲碁選手権から、三ヶ月。夏が過ぎ、秋風がほんのりと色づき始めた北京・中国棋院の中庭には、心地よい静けさが流れていた。
中国棋院の中庭。石畳の上に置かれた碁盤を囲んで、今日もいつもの三人がいる。
カチリ。
「……そこ、甘い」
ユエが即座に指摘する。
「うるさい。今読んでたところ」
シェン・シンが眉をひそめる。
「読んでたなら、なおさら悪い」
「あなた、口が辛くなってない?」
「事実しか言ってない」
即答。
「……ほんと、性格は変わってないわね」
「そっちも」
軽口。だが石は鋭い。
盤上では、一手の緩みも許されない。
その様子を、少し離れた場所から見ている男が一人。
「……騒がしいな」
魯 凰。
相変わらず無表情。だが、ほんのわずかに口元が緩んでいる。
「二人とも、会話にリソースを割きすぎだ。読みが浅くなる」
「はいはい評論家さん」
シェン・シンが手を振る。
「じゃああなた、打ってみなさいよ」
「断る。勝つのがわかっている対局は退屈だ」
「うっわ、出た」
ユエが呆れたように笑う。
「そういうとこ、ほんと嫌われるよ?」
「問題ない。好かれる必要がない」
即答。
「……でも」
魯 凰が、ほんの一拍置く。
「“面白い碁”は、別だ」
その言葉に、ユエがわずかに視線を上げた、そのとき。石畳の向こうから、荷物を肩に背負った見慣れた風貌の青年が歩いてきた。黒のジャケット、少し伸びた前髪。そして――あの、どこか“読まずに打つ”ような不敵なまなざし。
「よーっす」
軽い声が、中庭に落ちる。
三人が同時に振り向く。
「……は?」
シェン・シンの声が、完全に素で漏れる。
「……え?」
ユエも、珍しく固まる。
魯 凰だけが、わずかに肩をすくめた。
「言っただろ。“あいつが来た”と」
「いやぁ、迷ったわ。広いなここ」
光志はのんびりと歩いてくる。
「……なんでいるの?」
ユエが、ようやく言葉を絞り出す。
「ん? ああ、来月から中国プロリーグ出ることになってさ」
軽い。とにかく軽い。
「はあ!?」
今度はシェン・シンが叫ぶ。
「ちょっと待って!? なんでそんな急展開!?」
「俺も昨日聞いた」
「もっと早く聞け!」
「無茶言うなよ」
魯 凰が一歩前に出る。
「正式な交流枠だ。試験的だがな」
「日中棋士交流プロジェクト? ……試験的で済ませていい話じゃないでしょ」
シェン・シンが頭を抱える。
ユエは、しばらく光志を見つめて――
「……ほんとに来たんだ」
小さく、そう言った。
「来た」
それだけ。でも、そのやり取りだけで、なんとなく全部伝わる。
「中国棋院も、君の碁に興味があるらしい」
「……あの“創造性”か。読みを超えて、感覚で打つあの碁。正直、AIよりも厄介」
魯 凰が淡々と言う。
「へぇ、ありがたい話だな」
「正確には、“理解不能だから解析したい”だ」
「褒めてないよな、それ」
「褒めてはいない」
「正直すぎるだろ」
シェン・シンがじっと光志を見る。
「……あなたの碁、正直ムカつくのよね」
「え、いきなり?」
「読めてるのに、なんか外してくるでしょ」
「褒めてる?」
「半分はね」
「残り半分は?」
「腹立つ」
「なるほど」
ユエがため息をつく。
でも、その顔はどこか楽しそうだ。
「中国のリーグ、そんなに甘くないよ!」
「知ってる」
「ボコボコにされるよ?」
「それも知ってる」
「……それでも来たの?」
「来た」
また、それだけ。
ユエは少しだけ黙って――
「……バカ」
小さく言う。
「知ってる」
魯 凰が、じっと光志を見る。
「君の碁は、まだ“未完成”。でも、だからこそ面白い。……次は、必ず勝つ」
「おう」
「半目どころでは済まさない」
「それは勘弁してくれ」
「保証はしない」
光志が周りを見渡す。
「俺も最初に言っておく。俺は、中華料理にはうるさいからな。案内よろしく」
「は?」
三人同時。
「それ……棋力関係ないから!」
ユエが即ツッコミ。
「棋院来て最初の話題がそれ!?」
ユエが盛大にため息をつきながらも笑いながら言うと、手の持つスマホにぶら下がった、くすんだ緑のパンダのキーホルダーが揺れる。
「大事だろ」
「大事だけど今じゃない!」
「いや今だろ」
「今じゃない!」
ひとしきり騒いだあと。四人は自然と、碁盤の前に集まる。
誰が言い出したわけでもない。ただ――そこに盤があるから。
「で、誰から打つ?」
シェン・シン。
「どうせなら順番にやるか」
光志。
「時間、足りる?」
ユエ。
「足りなければ延長すればいい」
魯 凰。
「まさか……こんなに早く、あなたと打つ日が来るとは、思ってもみなかったわ」
「……あの夜の対局は、なんだったのよ?」
「あの夜の対局って?」
シェン・シンが首をかしげながら尋ねる。光志は少し照れたように答えた。
「まだ終わってなかったんだよ、あの対局は」
ユエは少しだけ膨れた表情で、腕を組む。
風が吹く。石畳をすり抜けて、盤上をかすめていく。
白と黒の石が、ほんの少しだけ冷たくなる。その感触が、なぜか妙に心地いい。
「……ちょっと待って、今の風、絶対こっちの読み乱したでしょ」
「言い訳が雑」
「いやでも体感で二目くらいズレた」
「風で二目動くなら、もう別の競技」
そんなやり取りが、どこからともなく聞こえてくる。
遠くない未来――再び国際棋戦で、彼ら四人が同じ盤を囲む日が来るだろう。
そのとき、どんな十九路の物語が紡がれるのか。今はまだ、誰にもわからない。
勝つ者。負ける者。変わるもの。変わらないもの。
そして、たぶん――どうでもいいことで揉めるやつもいる。
全部ひっくるめて、盤の上に並んで――物語は、まだ続く。
そのとき、どこか遠くから、聞き慣れた声がした気がした。
《いやぁ〜……結局、続くんですよねぇ》
幻影ちゃんの、あの調子?
《“終わったと思った対局ほど、延長戦が長い”ってやつです》
誰もいないはずなのに、なぜかそんな気がして。ユエが、くすっと笑う。
十九路の夜は、明けたようだ。でも――次の一手は、もう始まっている。
O・W・A・R・I...




