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『十九路のノクターン』―AIとパンダと、時々、君。―  作者: 蒼井 理人
第四章―白と黒の彼方―

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第三十四局|感想戦

国際囲碁ワールドカップU22が閉幕して、数日。

東京の夏は、ほんの少しだけ角が取れて、夜風にやさしさが混じっていた。

その日の夕方。光志のスマートフォンが、小さく震えた。

「光志、久しぶりに高校の囲碁部に行ってみない?」

短い一文。それだけで、胸の奥にしまっていた何かが、静かにほどける。


久方ぶりに足を踏み入れた部室は、変わっていないようで、ほんの少しだけ様子を変えていた。

畳の匂いも、古い碁盤に染みついた木の香りも、窓から差し込む斜めの光も――どれも記憶の中とほとんど同じだ。

それでも、よく見れば、わずかな違いがある。時間が積み重なった分だけ、空気に微かな厚みが増しているようだった。

けれど、あの頃の気配は、確かにここに残っている。静かで、真剣で、どこか心地よい空間。言葉が少なくても、盤を挟めばすべてが通じていた、あの時間。

ただ――“あの頃の自分たち”だけが、そこにいなかった。


「……狭くなったな」

独り言のように呟きながら、光志はカバンを置く。

そのとき、視線が止まる。パンダのキーホルダー。

白地にピンクの耳。少しだけ擦り切れた縁。それでも、どこか誇らしげな顔。ユエが大切にしていた限定モデルのレアものだ。指先で、軽く揺らす。


──あの日。駅のベンチ。

──無言で差し出した、小さな約束。


「また会えたら、返そう」

あのときは、軽く言ったはずなのに。今では、それがやけに重たい。

「……返すの、もう少し先でもいいか」

言い訳みたいに呟いた、その瞬間。

カタン。

扉が開いた。

「準備できてる?」

振り向くと、ユエが立っていた。

変わっていない――そう思う。

けれど同時に、確実に何かが変わっていることも分かる。

対局場ではない場所で見る彼女は、妙に大人びて見えた。纏う空気が、以前よりも少しだけ遠い。

手にしたスマートフォンの端で、くすんだ緑のパンダのキーホルダーが揺れている。かつて光志が持っていた、あの少しおどけた表情のパンダ。

一瞬だけ、視線が交わる。

何かを言いかけて――互いに、やめた。言葉にしてしまえば、そこで何かが終わってしまう気がした。光志は無言のまま、自分のキーホルダーを外し、そっとカバンの中へしまう。

ユエもまた、何も言わない。ただ、小さく揺れるパンダだけが、二人のあいだに残された時間を、かすかに示していた。

ただ――盤の前に、座る。

「じゃあ……始めようか」


パチリ。

黒石が置かれる。

少し遅れて、白石。

その音が、やけに澄んで聞こえた。

序盤は、静かだった。

様子を見るような、探るような手。

けれど、その一手一手に、言葉よりも多くのものが込められている。

(変わったな)

光志は思う。

(でも、変わってない)

同時に、そうも思う。

中盤。

中央で、火がつく。

光志が広げた模様に、ユエが踏み込む。

鋭い一間バサミ。

まるで距離を測るような、正確な一手。

「……前より、攻めが深いな」

「そっちこそ。逃げなくなった」

短い言葉。

でも、その奥には、何年分もの時間が詰まっている。

ユエがさらに一手。

間合いを取るような、柔らかい受け。

「間合いを取らなきゃ、届かないこともあるから」

その言葉に、ほんの一瞬だけ、手が止まる。

光志は、わざと無理な肩ツキを打った。

届かない距離に、橋をかけるみたいに。

「……それ、無茶」

「いいんだよ。届くまで打つ」

ユエが、少しだけ笑う。

「……ほんと、不器用」

「知ってる」

石が絡む。

離れかけて、また寄る。

切れて、繋がって、また分かれる。

盤上の形が、どこか二人の関係に似ていた。

そのやり取りを、少し離れた場所で見ている存在がある。

光志のカバンの横。

半分だけ顔を出したパンダ。


そして――

《いやぁ……これはまた、だいぶ高度な“感想戦”ですねぇ》

幻影ちゃんの声が、ひそやかに漏れる。

《通常、感想戦というのは“どこが悪かったか”を検討する場なんですが……この二人の場合、“どこが言えなかったか”の検討になってますね》

一人で納得して、うんうんと頷く。

《パン吉さん、見てくださいよ。あの肩ツキ。AI評価的にはマイナスですが、感情評価ではプラス無限大です》

もちろん、パンダは何も言わない。

《いやぁ、いい。実にいい。これ、囲碁っていうより……“遠回しな会話”ですよね。直接言えないことを、石で言うやつ》

少しだけ、声のトーンを落とす。

《でもねぇ……そういうのって、大体、終わるタイミングを逃すんですよ》

パン吉は無言だ。だが、微妙に口角が上がって見えるのは気のせいだろうか。

幻影ちゃんは、どこか落語のフレーズを思い出したように、にやりと笑った。

《落語でもありますよ。“帰るって言った客が、もう一杯だけって言って帰らない話”。あれと同じです》

画面の中で、パンダがくるりと回る。

《……この二人、たぶんそれです》


終盤。

盤面は、ほぼ決している。

けれど、どちらも最後まで打つ。

一手一手を、確かめるように。

そして――

最後の一手。

パチリ。

静寂。

「……ありがとう」

ユエが先に言う。

「こちらこそ」

短い応答。

それ以上、言葉は続かない。

でも、沈黙が重くない。

むしろ――ちょうどいい。

やがて、ユエが立ち上がる。

「明日、中国に戻る」

間を置かず、続ける。

「プロとして、やっていく」

光志は一瞬だけ視線を上げて、

「……そっか」

それだけ言う。

本当は、もっとある。

言いたいことも、聞きたいことも。

でも――言わない。言えない。

どちらでもいい。

ユエは、盤を見下ろす。

「ここで打った碁が、原点になる」

静かに笑う。

「だから……次は、もっと強くなる」

光志も、少しだけ笑った。

「じゃあ、俺はもうプロだから、その先で待ってる」

ユエは振り向かない。

「何を偉そうに。光志のくせに。」

一拍。

「待たなくていいよ。すぐに追い抜くから」

扉が閉まる。

音が、やけに遠くに感じた。

静かな部室。残ったのは、盤と、光志と――


《いやぁ〜……見事に言わないまま終わりましたね》

幻影ちゃん。

「……いたのかよ」

《最初からいましたよ。むしろ主催者側です》

「なんのだよ」

《この“感想戦という名の感情整理イベント”の》

光志が苦笑する。

「余計なお世話だ」

《いえいえ。ちなみに最後の一手ですが、AI評価では“ほぼ意味なし”です》

「やめろ」

《でもですね――》

少しだけ、声が柔らかくなる。

《“意味がない手”って、人間にしか打てないんですよ》

沈黙。

《勝つためじゃなくて、残すための一手》

光志は、盤を見る。

最後の石。

「……そうかもな」

《ええ。だから、いい対局でした》

少し間を置いて、

《……青春的にも》

「それは余計だ」

光志はカバンを開く。中から、パンダのキーホルダーを取り出す。

少しだけ眺めて、また戻す。

「……もう少しだけ、借りとく」

《延長申請、受理しました》

「誰にだよ」

《心に、ですかねぇ》


窓の外から差し込む月明かりが、静かに盤上を照らし、白と黒の石を淡くなぞっていた。昼のざわめきはすでに消え、残っているのは石と石のあいだに流れる、澄んだ静寂だけだ。

この一局で区切りがついたはずなのに、どこかではまだ続いているような気がする――夜は、終わりを告げることなく、静かにそこにあった。

盤の上でも、盤の外でも――感想戦は、きっとまだ終わっていない。



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