皇女の覚醒
静思堂。
賢妃の優しさでかろうじて心の均衡を保っていた玲蘭。しかしその心は未だ深い霧の中にあった。
そこに王皓月が鬼気迫る表情で現れる。
「――趙将軍からです。…おそらく最後になるかと」
その言葉の重みに玲蘭は息を呑んだ。
彼女は震える手で煤で汚れ微かに血の匂いがするその粗末な紙を受け取る。
玲蘭はその紙に書かれた武骨だが力強い文字を、一言一句魂に刻み込むように読んだ。
自分を責めるどころか逆に自分の名誉を心配する言葉。
自分と出会えたことへの揺るぎない感謝。
そして最後に託されたこの国への想い。
読み終えた瞬間、玲蘭の目から堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
しかしその涙はこれまでの涙とは全く「質」が違っていた。
これまでの涙は自分の無力さや罪悪感からくる「内向きの涙」だった。
今流している涙はこれほどまでに自分を信じてくれる人を、こんな理不尽な運命に終わらせてたまるかという激しい怒りと愛おしさ、そして燃え盛るような使命感からくる「外向きの涙」だった。
(違う…! 私が彼を不幸にしたんじゃない!)
(彼をそしてこの国を不幸にしているのは、この国に巣食う腐りきった権力者たちだ!)
(私が戦うべき相手は私の罪悪感じゃない。あの者たちだ!)
彼女の中で責任の所在が自責から明確な「敵」へと転換される。
涙が涸れた時、彼女の心の中から恐怖も迷いも自己憐憫も全てが消え失せていた。
残ったのは鋼のように強く研ぎ澄まされた一つの「覚悟」だけだった。
彼女はすっくと立ち上がる。
そして侍女の小蘭を呼ぶと、これまで聞いたことのないような凛とした声で命じた。
「小桃。湯浴みの用意を。それから母上が遺してくださった、あの第三皇女としての『正装』を持ってきなさい」
「そして私の髪をただの姫ではない、帝国の『皇女』にふさわしく高く結い上げてちょうだい」
小桃に手伝われ身支度を終えた玲蘭が鏡の前に立つ。
そこに映っていたのはもはや書架の陰で本を読んでいたか弱い「書庫の姫」ではなかった。
上質な絹の衣を纏い髪を威厳のある形に結い上げ、その瞳に燃えるような意志の光を宿した気高くそして美しい、一人の「皇女」の姿だった。
彼女は自分の手で「李玲蘭」という本来の自分に被せられていた「病弱な姫」という仮面を完全に脱ぎ捨てたのだ。
正装した玲蘭は静思堂で待っていた王皓月の前に静かに立つ。
王皓月はそのあまりの変貌ぶりに息を呑んだ。目の前にいるのは自分が仕えるべき真の「主君」の姿だった。
彼は言葉もなくその場に深々と膝をつく。
玲蘭はそんな彼を見下ろし静かに、しかし決して逆らうことを許さない絶対的な指導者の声で告げた。
「――王皓月。顔を上げなさい」
「そして父上の寝所へ、私を案内するのです」
国法を破ってでも皇帝に直訴する。
それは死をも覚悟した彼女からのこの腐った帝国に対する「宣戦布告」だった。




