届かぬ声
静思堂。
趙子龍が投獄されてから三日が過ぎた。
玲蘭の世界からは完全に音が消えていた。書物を読む気にもなれず食事も喉を通らない。
彼女はただ窓の外を虚ろな目で見つめているだけだった。
(私のせいだ…私が彼を英雄になどしなければ彼は今頃、北の辺境で仲間たちと笑い合っていたかもしれない)
(私の知識が彼を栄光の座に押し上げそして奈落の底へ突き落としたんだ…)
(軍師…? 笑わせるな。私はただの疫病神じゃないか…)
終わりのない自問自答が彼女の心を苛む。
王皓月がやつれた玲蘭の元を訪れた。彼の表情もまたいつになく険しい。
彼は玲蘭に現在の絶望的な状況を淡々と、しかし残酷に報告する。
趙子龍は天牢の最深部に投獄され面会は一切不可能。
忠実な部下たちは反逆の共犯者として捕らえられ地方の牢獄へ送られた。武力による救出はもはや不可能。
朝廷は皇太子派が完全に実権を掌握し、子龍と軍師は「国を売ろうとした大逆賊」として民衆にプロパガンダが流されている。
「…父上に真実を訴えることはできないのですか?」
玲蘭は震える声で尋ねる。
王皓月は静かに首を振った。
「皇后様が陛下の寝所を完全に封鎖しております。今の姫様では父君に謁見することすら叶いませぬ」
後宮は彼女にとって静かで美しい鳥かごではなく、彼女を真綿で締め殺す鉄壁の「牢獄」となっていた。
全ての術を塞がれ玲蘭は完全な孤独に陥る。
自分の知識も策もこの絶対的な権力の前では何の意味もなさない。
彼女は生まれて初めて全てを諦めようとしていた。
その夜。
玲蘭が静思堂の床で冷たくなっていく自分の体をただ感じていると、音もなく一人の人影が部屋に入ってくる。
それは以前彼女が助けた賢妃だった。
彼女は皇后派の厳しい監視の目を潜り抜け危険を冒して玲蘭に会いに来たのだ。
賢妃は何も言わない。
ただやつれ果てた玲蘭の隣に静かに座ると、彼女が持ってきた温かい薬湯の入った碗を玲蘭の冷たい手に握らせる。そしてその手を自分の手でそっと包み込んだ。
「…今は何もお考えなさいますな」
「ただこれを飲んでお体を温めてくださいませ」
「生きてさえいれば…生きてさえいれば必ず光は差します故…」
賢妃の飾り気のない、しかし心からの優しさ。
それは論理や戦略とは全く違うただの「人の温かさ」だった。
その温かさが凍りついていた玲蘭の心をほんの少しだけ溶かしていく。
玲蘭の目から一筋涙がこぼれ落ちた。
それは絶望の涙ではなかった。こんな状況でも自分のことを心配し危険を冒してくれる人がいる。自分は一人ではなかったのだと。
玲蘭は賢妃が差し出してくれた薬湯を震える手でゆっくりと口に運ぶ。
数日ぶりに温かいものが彼女の体の中に染み渡っていった。
(…まだ、終われない)
(私を信じてくれている人がいる。私が守らなければならない人がいる)
(まだだ。まだ諦めるわけにはいかない…!)
彼女の心の中に消えかかっていた闘志の火が、再びか細く、しかし確かに灯った瞬間だった。




