詮子四十の算賀
長宝元年11月7日、定子様が、帝の第一皇子をお産みになる。喜ばしいことだが、定子様は尼となった身。この皇子が後に帝位を継ぐことができるであろうか。
彰子様は、まだ幼く、お子はまだ先のことになるであろう。しかし、このままでは不都合だ。定子様は、表立って中宮としてのつとめが果たせない。わたくしは、帝に彰子様を中宮になさるようにとの親書を奉った。これも前例のないことであったが、道長の権勢も女院としてのわたくしの権威も強く、帝もお認めになり、長宝2年2月25日、彰子様は中宮となられる。
これで、晴れて道長は中宮の父となった。わたくしは、帝の母、国母であり、お二人の中宮は、姪で我が義理の娘である。故父君兼家も、故母時姫も、わたくしを誇りに思ってくださるであろう。
(しかし、道長の政権を支える故姉君の産まれた東宮様、故長兄の娘定子様は、そのまま政敵ともなりうる。何とも言えない状況であることだ。)
ところが、それから一年もたたない長宝2年12月、定子様は、3人目のお子をお産みになる際に、難産でお亡くなりになってしまう。三人のお子達は幼くして母のない子になってしまわれた。なんとおいたわしい。この時お生まれになった姫君はわたくしが引き取り、一宮は彰子様が引き取られ、女一宮は宮中で育てられることとなった。
長宝3年9月18日、わたくしの四十の算賀が、道長の土御門第にて行われた。わたくし自身の病気や、昨年暮れの彰子様のお産みになった皇女様が翌日お亡くなりになってしまったことなど、苦しいことの多かった昨今であるが、この時は、安らかでいられた。孫の代わりに道長の正妻倫子様のお産みになった太郎君と、かの源高明様の娘明子様のお産みになった次郎君がかわいらしい舞を披露してくださった。
しかし、わたくしも、もう長くはないであろう。道長も、病勝ちで心残りは多い。ただ一人のお子である一条帝が、立派に務めを果たしていらっしゃることが喜ばしい。定子様のお産みになった一宮は、まだ四つ。男皇子がまだ一人しかいらっしゃらないのが心配である。が、どうにも仕方がない。




