昼は堕落(2)
現場から得られる情報は何も無かった。大人が駆け付けると、リンも青もそっちに追いやられ、エレベータはストップされて使用不可になった。図書館長や事務員達がぞろぞろ集まって、現場を眺めながらぶつぶつ話し合った。結局、本が図書館のものなのかどうかすら分からなかった。表紙やカバーの部分が見当たらず、本の題も著者も分からなかったからだ。おっさん達は塵取りと小ぼうきでかけらを集め、「犯行声明」の残された紙袋と一緒にビニール袋に入れて、事務室かどこかへ持って行ってしまった。エレベータの運転は再開された。
一部始終を二、三歩離れたところで突っ立って眺めていたリンと青は、動き始めたエレベータに乗り込んで一階へ降りた。エレベータは壁が透明になっていて、吹き抜けのホールを見下ろす事ができた。ふと振り向くと、青が涙目になっているので、リンは面食らった。
「一体どうしたんだ?」
「ぎゃふんて感じ。悪い日には、悪い事が重なるね」青は目を逸らした。彼女はひどく小さく、幼く見えた。
「あの本に何か思い出があったの?」
「無いけど――あんまりびっくりして――ショッキングな――そのう――よく分かんないけど、あたしは、自分でもここまでとは思ってなかった……」
「何が?」
「こんなに自分が本を、本という形そのものを、愛していたなんて」
「は?」愛するなんて言葉は、リンの中では文語であった。
エレベータの扉が開いたので、二人は降りた。
「あのね、あたしはね、本が大好きなんです」
「うん、そう?」
「読むのが好きなんだと思ってた……ただ読む作業が好きなんだと思ってた……リン、おごるよ。ジュース飲まない?」
青は手近な椅子に腰をおろし、しょっていたナップザックをテーブルの上に置いた。リンはぽかんとしたまま向かい側に腰をおろす。
「何がいい?」
「アイスコーヒー」
「生意気な。あたしはアイスティーにする」
「あそこまで行って頼んで来るんだよ」リンはカウンタを指差した。
「だからね、おごるから、頼んできてちょうだい」青はリンにカードを渡して言った。「他人と話す気力がないの」
「ああ、はいはい」
リンは年上の青から対等に扱われた気がして、立ち上がりながら微笑んだ。
二人分の飲み物を頼んで戻って来ると、青はいくらか気を取り直した様子だった。
「大丈夫? 本当に。なんだか前に会った時と性格が違うようだけど」リンはちょっとおどけて言った。
「うん、多重人格でね」
「そう、大変そうだね」
「まったくだよ。僕はねえ」青は急にまた一人称を変えて、「本が大好きでね」
「さっき聞いたよ」
「さっき言ったよ」青はやり返した。「本が、好きで、ちょっと気分が沈んでる時は、本が沢山ある所へ行って、気持ちを紛らわすんだよ。図書館とか、本屋が、僕のシェルターなんだ。……なのに、あのビリビリ死体」
「死体って言うな」リンは顔色を変えた。
「あ、ああ、ごめん」青は、リンが去年の秋に妹を失ったばかりなのを思い出した。「ごめんね」
「いいよ」リンはまだ緊張した顔で、しかし穏やかに言った。
「なんだかね」青は溜め息をついた。「長く生きてても、意外に気付いてないもんだね。自分の事ってさ。本が破れたくらいでこんなに衝撃を受けるとはなあ。そこまで本の形自体を神聖視していたとは。私も堕ちたもんだな」
「誰でも、ああなればびっくりするよ。僕だってさっきからずっと嫌な気分だ」
「私はさっきからずっと泣く寸前だ。ちょっと、タイム」
青はいきなり右の袖で目頭を押さえて、そのままテーブルにその肘をつき、俯いた。ウェイターが来て、飲み物を置きながら、不審そうな目をする。リンはコーヒーにミルクを注いでストローで勢いよく掻き回した。氷とグラスがぶつかって涼しげな音を奏でた。
「ああ、うん。もう大丈夫」青は目をこすり、顔をあげた。
「大丈夫ならいいけども……タイムってどういう意味? 時間をくれってことなの?」
「ああ。……年齢がばれる」
「え?」
「古い言い方だって事だよ。あ、飲み物出現」青はストレートのまま口に含んだ。
「青さん、ところで、どうしてここにいるの?」
「仕事で」
「何の仕事?」
「仕事で大介に会わなきゃならなくて」
「へえ。ダンとねえ」
「でも蹴ることにした。ほんとは十一時に三番駅の約束なんだけど、行かないつもり」
「どうしてさ。ダン、いつも青のこと話してるよ。仕事だって言うけど、ダンはたぶん楽しみにしてるよ。僕にわざわざ知らせてくるもの。青に怒られた、青に電話した、青がこう言ったああ言ったって」
「タイクツだからだよ」青は顔をしかめて言った。「柾さんに相手にされなくて暇だからだよ」
「何があったのさ」リンの目はほぼ丸くなっていた。「君、ダンがお気に入りなのかと思ってた」
「お気に入りねえ」青はたいぎそうに言った。「今朝までは、そうだったかも知れないが」
「喧嘩したの?」
「全然。あいつが無礼者だって事に遅ればせながら気付いただけだよ」
「本当に何があったの? 僕には言えないの」
「言えないね」
しかし、リンが目に見えてがっかりした様子なので青は可哀相になって、「よくある話なんだけどね、二人きりで会うつもりで張り切って来たら、親同伴だった」
「へえ……」リンは返事に困ったようだった。
「だからね、僕が馬鹿だったのだ」青は素直に言った。「馬鹿だったけどね。あいつがそれを狙ってたって事が許せない。わざと、誤解をあおるような言い方をしたって事が許せない。まあ、こんな話を君に聞かせても仕方ない。ビリビリ事件の犯人を推理しよう」
「わかるはずないよ」リンは急につまらなそうな目になった。
「おや」今度は青が驚いた。「まるでやる気がないようだね」
「興味ないよ。悪趣味ないたずらだ」
「そりゃ、そうだけど……」
「不可能犯罪でもないし。幼稚で無意味な犯行だね」
「犯行声明をどう思う?」
「かっこ付けてるだけだろう」リンは立ち上がった。「僕、借りたい本があるから。お先に。ごちそうさまでした」
コーヒーは空になっていた。青は身軽なリンを見て、違和感を覚える。
「リン、鞄はどうしたの?」
「鞄? 鞄なんか持って来てないよ。さっきから持ってなかっただろ?」
「リンの家、ここから近いの?」
「うん。歩いて十五分くらいだ。じゃあね」
リンはエレベータに向かって歩き去る。青は手元のカップを見下ろしながら考え込んだ。気分はさっきより良くなっていた。




