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消える流れるすり替わる  作者: 羊毛
3.辿れない糸口
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朝は低迷(4)

 思い出せる限りずっと昔から、本が好きだった。多分、ひらがなが全部読めるようになった瞬間から、青の人生は始まった。


 字が読めたって意味なんかちっとも分からない。ところどころ分かる単語を繋ぎ合わせてイメージを作っても、だいたい物語とはかけ離れたちぐはぐなものになっている。話の流れも分からない。きちんと起承転結のある物語が川のようなものだとしたら、幼いとき青が意味も分からず辿っていたものは多分、沼だ。泥沼だ。


 けれども、青にとって、話の流れなんてものはおそらく二の次だったのだ。今になって幼い時を振り返ってみてそう思う。青は文字を辿り、単語を区切り、その羅列の中に意味を探すという、その作業自体に入れ込んでしまったのだ。何をしている時でも、あれほど集中するということはなかった。本を読んでいる時は、文字通り時を忘れ、我を忘れ、体ごとその世界にもぐり込むことができた。ふと我に返ったとき、ここがどこで、今が何をすべき時間で、自分はこのまま本を読んでいていいのか、それともとっくに読み終えて何か違う事をしているべき時間なのか思い出す事ができなくて、そもそもなぜどういうつもりで本を読み始めたのか、自分は誰なのか、分からなくて、世界が数秒間ぐらぐらと揺れるように感じる事が、何度もあった。ほぼ毎日だったかもしれない。さすがに今では、そういう事はなくなった。本の種類にもよるが、ミステリーやファンタジーなら隣の人と喋りながらでもすらすら読める。本に対する異常なまでの集中力は、大人になったことによって失われたのだろうと、青は思った。しかしあるとき英語というものを習うようになってから、英語の本に手を出し始めると、集中力は復活した。劇的に少ない単語数で、アルファベットを辿り、意味を探そうとすると、どうしたって集中せざるを得ない。他のことに気を配っている余裕がないのだ。おかげで、何度もバスを乗り過ごして料金を無駄に払うはめに。英語の本恐るべし。初めて英語の本のせいでバスを乗り過ごした日、青は自分がろくに意味も分からない文章にどっぷりと漬かりこんでいた事を自覚し、きっと子供の頃もこうだったのだろうと思い至った。話の続きが知りたくて夢中になるのではない。記号を辿り意味を探す、その作業こそが、青にとって帰るべき故郷なのだ。


 子ども図書館というからせいぜい中学生レベルまでの本しか無いのかもしれんと思っていたが、そうでもなかった。建物の一階は本を読みながらコーヒーや軽食をたのめる読書スペースになっていて、その上が三階の天井まで吹き抜けになっている。らせん階段を上がって二階へ行くと、その階はノンフィクションのフロアという事になっていて、料理の本から数学論の本まで、かなりの冊数が並んでいた。学校の課題で調べ物をしなければならない時とかは、今どきの子供も図書館に来るんだろうか。青はそんな事をした記憶は無いが。三階はフィクションのフロアで、さすがに人気スポットのようだった。中学生くらいに見える女の子達がぞろぞろと四人で、誰だかさんの本を探していて、春休みなのか、と青は気付いた。開館したばかりのようで、人声は少ない。通路をずんずん進んで行くと、見覚えのある背表紙が見付かった。昔、大好きで、何十冊も買い集めた文庫本だった。この文庫は中高生向きのちょっと軽めのファンタジーや冒険小説を出していて、一時期青は全ての作家を制覇するべく、やっきになって買いまくった。あの膨大な量の本は何処へ行ったのか。全ては淡い記憶の彼方……。作家は随分入れ替わり、知らない名前ばかりになっていたが、本の装丁はほとんど変わっていなかった。ずらりと並んだ背表紙を見ながら、一冊一冊に綴じ込まれている未知の世界を思うと、体が内側からぞくぞくした。こういう瞬間が、一番幸せだ。あと、幸せなのは、買った本を持ち帰って、さあ読むぞ、と袋から取り出す瞬間。大好きな作家の新作が新聞の広告に載っているのを見付けた瞬間。何がどうあったって幸せになってしまう。幸せというような満ち足りたものではないのだが。あれは満足感とは違う。ものすごく空腹の時に大好物を出された時のような、そういう種類の幸せだ。


 しかし、目についた順に一冊一冊手にとって物色し始めると、まもなく行き詰まってしまった。もちろん、こうなる事を予想していた。哀しくなって、寂しくなって、気持ちが弱っている時は、読みたい本が見付からない。するとますます哀しく、寂しくなってしまうのだった。何だお前は。寂しくなりたくてわざわざこんな田舎町の子ども図書館までやって来たのか。まったくもって救いようが無い。

 急によそよそしい顔を見せ始めた本の背表紙達を眺めて、青はやっぱりまた、溜め息をついた。溜め息は体にいいのか悪いのか……悪いのかも知れないな。もうそんな事どうでもいいじゃないか。もう一回、溜め息だ。


 別な棚に行ってみた。

 しかし、そちらの棚は、青の大好きな怪盗ルパンシリーズがぎっしりと並んでいたにもかかわらず、見た瞬間むくむくと胸の中に嫌悪が上ってきた。まずい、かなり、自分は、弱っている。いったん本から離れないといけない。どうしてこうなるのか自分でもよく分からない。弱っている時、本に当てられてしまう事がある。本に酔うというのだろうか。あまりにも広すぎる、あまりにも多過ぎる記号の羅列の世界を、自分の中に許容できなくなってしまう。小さな世界に閉じこもりたい。本は敵だ。迫り来る無言の敵だ。丁度すぐそばにエレベータがある。階数表示を見ると、一から二へ変わった所だ。間もなく三階まで来る。あれに乗って下に降りよう。


 下で冷たい紅茶を頼もう。本棚に背を向ける。体の内側がぎゅうっと哀しくなる。寂しくなる。読みたい本が見付けられないなんて、こんなに悲しい事は無い。はて、俺は最近、ストレスが溜まっているのかも知れないな。大介に舐められたくらいでこんなにこんなに弱ってしまうもんか。きっと前から少しずつ弱ってたんだ。大介が決定打を撃ってくれたわけだ。別にどうだっていいけど。紅茶を飲めば治るだろう。カフェインが回って気分が上がってきたら、三番駅まで引き返して大介に会ってやってもいいかも知れない。


 エレベータは上がってきた。青はこの時かなり弱っていた。読みたい本を見付けられず、大好きな大介には裏切られ、ルパンを読む気力もなく、赤波あかなみまさめに嫉妬し、自分に嫌気が差し、朝顔か向日葵に生まれ変わりたいと思い、とにかくどうにかして紅茶を注文するだけの気力は保とうと努力しながら、エレベータが来るのを待っていたのである。ありていに言って、無防備だった。


 ポーンと鳴って、扉が開いたとき、青はその風景が理解できなかった。


 エレベータに乗っていたのは一人の少年だった。青はそいつと知り合いだった。五雁いつかりただし、通称リン。色白の顔が、さっと紅を入れたように赤らんでいて、ひどく焦った、途方に暮れた目をしていた。床に屈んでいた彼は立ち上がった。その床には壊れた紙袋が一つと、沢山の紙くずが散っていた。


「青さん? ハナダ青さん?」リンは目を丸くして歩み寄る。


 青は理由もなく、思わず一歩下がった。


「それ、何?」ようやく言葉が出た。かすれそうだった。


「分からない」


「本なの?」


「たぶんそうだ。誰か大人を呼んでこないと……」


 青はその言葉が耳に入らず、エレベータの戸を手で押さえて中に踏み込んだ。本の残骸だった。びりびりびりびり、破った時の音が耳の中でこだまするようで、青は座り込みたくなった。粉々だ。残骸だ。死体だ。


「紙袋に入ってたんだけど、壊れてたみたいで、持ち上げたら中身が散らばって……」リンは青の背中に向かって早口に言った。その紙袋の内側には、黒のサインペンで、ペン習字のお手本のように美しい字で犯行声明が記されていた。



 なんじらかみのいかりをしれ

 ほんとのたたかいここにはじまる



「ちょっと誰か呼んでくるね。ここ見てて」

 リンは言い残して、走り去った。


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