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銀の月

 ◆


 赤い服の少女、青い服の少女、緑の服の少女。

 三人の少女が、翼を持つ天使を見上げていた。

 空は立ち込める暗雲で覆われ、ビルには光が灯っていない。街行く人々は居らず、急ぎ逃げ出そうとした車の群れが、その場所で終わりを迎えていた。

 命の姿はない。生きとし生ける者は、ほとんどが滅んでしまった。

 今、動ける者は、三人の少女と、その使い魔となった神獣のみである。

 少女とも少年とも言える顔の天使は、ゆっくりとその大きな翼を羽搏(ハバタ)く。これは助走だ。次に大きな一撃が来る。


「みんな、私の後ろに! ルーちゃん!」


「おうよ!」


 赤の少女と青の少女が、緑の少女の後ろに隠れた。緑の少女の隣にいた狼のような神獣が、その声に応え、天に向かって遠吠えをする。それに応え、地面が盛り上がり、巨大で分厚い壁を構築した。さらに緑の少女が壁に手を翳し、呪文を唱える。


「テラアーマ!」


 少女の魔術が壁に行き渡る。天使が翼で風を起こした。それは何気ない軽い動作だった。しかし、巻き起こった風は刃を伴う衝撃波と化して、魔法によって作り出された壁を破壊する。

 少女たちが悲鳴を上げながら、吹き飛ばされる。壁は破られたが、ダメージは負うほどではない。


「そんな……、私の魔法が破られるなんて……」


 緑の少女が顔色を悪くして、天使を見つめた。膝をつきそうになるその少女を、赤の少女が支えた。


「ヴェル、大丈夫! あなたの魔法は効いてるよ!」


「そう。戦いの前にかけた防御魔法も含めてあなたの魔法。それがなければ、私たちは細切れになっていた」


 青の少女が冷静に言う。ルーと呼ばれた神獣も、緑の少女の脇に入り込んで体を支えた。


「ありがとう、みんな……。防御は私に任せて。二人は攻撃に集中して」


「わかった!」


「任せる」


 お互いを支え合う三人の少女を見下ろして、天使は溜息をついた。


「ハァ……。そろそろ、実力差に気が付いてくれませんか。戦いに使う魔力が勿体ない」


「うるせぇ、男女オトコオンナ! 人には退けない戦いがあるんだよ!」


「そう。例え絶望的な実力差があったとしても、私たちは戦う。その点で言えば、あなたに私たちの魔法は届かないわけじゃない」


 天使は地面に降り立つと、その美しい顔を少女たちに向けた。


「わかっているのですか? あなたたちの守るべきものは()ではない。この星そのものです。確かに人類は可能性がある。それは私も認めましょう。しかし、盆からこぼれ落ちた水が、再び元に戻ることはないように、人類は道を踏み外した。だから一度、リセットしなければならない」


「そんなことは絶対にさせない!」


 赤の少女が叫ぶ。天使は彼女を冷たい目線で睨む。


「これでも、恩情を与えているのですよ? あなたたちが死ねば、人類の生き残りたちに生きるスベは残されていない。私に協力すれば、月の使徒たるあなたたちは新たなる人類の母となり、私の子を孕むことができる。これ以上の何を望むというのです? 私を殺せば全てが元に戻るとでも思っているのですか? そんな魔法があるのなら、私が知りたいくらいですよ」


「生き残った人たちはどうするつもりですか」


 青の少女が訊ねる。


「もちろん、殺します。新しい人類には、古い人類の血は残せませんから」


 青の少女の冷静だった表情が、怒りに歪んだ。


「そんなことは絶対にさせない……。あなたの好きなようには、絶対に! 渦穿ち《ウズウガチ》!」


 青の少女が紙で作った形代を投げた。

 形代は飛翔し、逆巻く水柱と化しながら、竜巻のようにのた打って、天使へと向かって行く。

 天使はそれを翼のひと振りでかき消す。水が飛び散り、一瞬、天使の視界が遮られる。その隙に、赤の少女が拳を振りかぶり、天使の懐に飛び込んできた。


「アグニフィストォ‼」


 赤の少女の掛け声とともに、その拳に炎が宿り、天使の体を焼き尽くそうとする爆炎が舞い起こる。だが、天使の体は少し焦げた程度で、燃焼は終わってしまう。狼がその足に噛みついて動きを封じようとするが、これも躱された。

 天使の無数の羽が宙を舞い、その一本一本が剣となって、赤の少女と狼に襲いかかる。


「ラディクス・スクトゥム!」


 緑の少女ヴェルがそう唱えると、羽の剣に地面から飛び出してきた木の根が絡まり、その全てを受け止める。


「助かったよ、ヴェル!」


 赤の少女はさらに追撃しようと、天使に躍りかかった。


「避けて、レッド!」


 ヴェルが叫び、赤の少女を庇うように前に出た。そこに天使の剣が突き出され、二人の少女を串刺しにする。

 天使を牽制するために、青の少女が巨大な氷塊が天使に向かって放つ。彼は後ろに跳んでそれを躱した。

 その間に刺されて落下する二人の少女を、水を纏った青の少女が地面で受け止める。


「ヴェル! レッド!」


 青の少女が二人に叫んだ。緑の少女が血を吐きながらも起き上がる。


「大丈夫……。マボロ、レッドを治すから、時間を稼いで……」


「わかった」


 マボロと呼ばれた青の少女は、あまり心配はしていなかった。ヴェルの意識があるのであれば、死ぬことはないとわかっているのだ。

 もし、ヴェルが盾になっていなければ、レッドは即死だったはずだ。それでも、どちらも致命的な傷であるが、ヴェルには問題にならない。


(肺と肝臓、下大動脈がズタズタに……。でも、私なら治せる。治して見せる!)


 ヴェルは土の魔法で体を再構成していく。それと同時に、自分の体に空いた穴を塞ぎ、出血を止めて傷を癒していく。

 天使は青の少女マボロによる水による飽和攻撃を躱しながら、ヴェルの様子を見ていた。


(人の傷を治しながら、自分の傷を治すとは。器用なことだ)


 すぐにレッドが起き上がる。顔色は悪いが、まだ動けそうである。


「助かったよ、ヴェル。油断した……」


「レッド、あなたは攻撃の要。絶対に死なせはしない。だから、心配しないで。私が守るから」


「ああ、攻撃して攻撃して、攻撃しまくる! バーンウィング!」


 レッドの背中から炎が上がり、翼のように形を作る。爆炎の勢いで加速したレッドは、マボロと戦う天使に向かって突撃する。今し方、死にかけたのに、である。ヴェルが守ってくれるとわかっているからだ。

 ヴェルも立ち上がり、二人を守れる位置に移動しようとする。

 レッドの神速の一撃が、天使の顔面を捉えた。天使は炎に包まれながら、地面へと叩き付けられる。だが、その肉体は白い無数の羽となって消えた。


「幻影⁉ ……ヴェル、後ろ!」


「え?」


 ヴェルの後ろに天使が立っていた。


「やはり、お前が一番厄介だな。ルナ・ヴェルデ」


 ヴェルは距離を取りながら、魔法を使おうとした。けれど、その前に腹に天使の剣が突き刺さり、身動きが取れなくなる。


「逆降魔の術、位相回天の法、サカ流れ」


 ヴェルの体が紫の光に包まれる。魔法陣が展開され、体が地面に沈み込んでいく。


「ヴェル!」


 レッドとマボロが、ヴェルを守るために駆ける。ヴェルは二人に手を伸ばした。


「助け……」


 だが、その前にヴェルの体は、光の中に沈んでしまった。そこでヴェルの意識は途絶えた。


 ◆


 並木翡翠ナミキヒスイは、普通の人の子どもとして育った。

 だが、亡くなった祖母の遺品から仕掛け木箱のパズルを解いたとき、その箱の中で眠っていた月の化身が姿を現した。

 狼の姿をした神獣・月の化身ルパノクトは、翡翠が月の使徒ルナ・ヴェルデであることを告げ、魔法の力を与えた。そして、同じ月の使徒である仲間を探し出し、人類を滅ぼそうとする魔神ヴェルディクタを倒すために、戦うことを強要した。


「不思議……。こんなにも心が穏やかになったのは、いつ以来だろう……」


 目を覚ました翡翠は、自分が花畑の中に倒れていることを認識する。

 ヴェルディクタに付けられた傷を癒すため、しばらくそのまま動かないでいたのだ。

 花の心地良い香りと、爽やかに通る風に、戦いの最中であるのにも関わらず、翡翠の心は落ち着いていた。

 なぜならば、ここには戦いの音はない。吹き荒ぶ風も、轟音を燃やす炎も、岩をも砕く飛沫も、狼の遠吠えもなかった。ひとりになるのは久しぶりだった。


「うっ……」


 鈍痛に翡翠は呻く。

 天使の剣は腹に刺さったままだったが、それが魔法の力によって抜け落ちた。傷は完全に塞がり、翡翠はようやく体を起こす。剣は、引き抜かれると白い小さな羽となり、風に吹かれて飛んでいく。


(怪我の治りが早い。ここは大地の力が強いからかな?)


 そこは森の中。翡翠の知らない場所だ。

 咲いている花も見たことがない。翡翠は花を育てるのが好きだった。祖母が作った庭で遊ぶのが好きだ。それなのに、ひとつの花も見知ったものはない。


「どこだろう。みんなのところに帰らなきゃ……。ルーちゃん、出ておいで!」


 それの呼びかけだけで、翡翠の半身でもある神獣ルパノクトは、姿を現すはずだ。いつもはそうである。どれだけ距離があろうとも、呼び出せばルパノクトは、翡翠の影から現れるのだ。

 だが、その声は花畑に空しく響き、翡翠は自分の置かれた状況を、理解しようとした。


「転移魔法……。しかも、ルーちゃんが来られないほどの距離……。この植生……」


 異界。

 別の世界。別の空間。生まれ育った世界とは別の世界に、翡翠は飛ばされたのだ。

 翡翠はもう一度倒れ込んだ。例え強力な再生能力があろうとも、世界線を移動するような強力な空間転移魔法には無力だ。


「負けたんだ、私……。世界を救えなかった……」


 悔しさが込み上げ、目頭が熱くなる。それを振り払い、翡翠は立ち上がった。


「まだ……、まだ、だよ。まだ、二人が戦ってる。すぐに帰らなきゃ……」


 仲間たちが戦っているのに、自分だけがここでこうしているわけにはいかない。転送されたのならば、帰る方法もあるはずだ。

 それに異界と現世は時間の流れが違うとも聞く。もし、こちらで時間が過ぎ去っても、現世では時間が流れていない可能性もあるのだ。


「とにかく、今の自分にできることをやらなくちゃ」


 空間転移魔法は神獣や天使のような、強力な魔力を有する者にしか使えない。翡翠にはそんな力はないが、それを学ぶことはできる。その方法を探すしかない。


「コルムナ・テッラエ・スルガト!」


 土の柱を立てる魔法。様々なことに応用できる魔法だ。

 本来は上から落ちてくる物を支える魔法だが、足の下から作れば、リフトのように体を高くに運ぶこともできる。花畑をなるべく傷つけないように魔力を込めた。

 だが、翡翠の思う通りにはならなかった。柱は出現したが、それは花畑全体を破壊するほど大きく、その勢いは、翡翠の体をあり得ないほどの上空に舞い上げた。


「え? え……、えっ⁉」


 翡翠は慌てて魔法を止める。土柱は霧散し消え去ったが、その力が残した影響は消えない。翡翠の体は、勢い良く空中高くに投げ出されてしまった。


「あ……、まず……」


 魔物だ。

 コンドルのような魔物。空飛ぶ、巨大な怪鳥ロックの鳴き声が聞こえた。

 魔神ヴェルディクタが現世にも呼び出したことのある魔物だ。翡翠などひと飲みにできるほどの大きな体を持っている。


(油断した。ここは魔神の世界! 魔物の住む世界なんだ!)


 空中に投げ出されただけならば、翡翠は魔法で対処できる。ただ、翡翠の魔法は地に足をつけていなければ、十全の力を発揮できない。空中で空の覇者と戦うことは、圧倒的に不利である。

 ロックの爪を空中で躱す。翡翠はいつも服に仕込んである土の瓶を使って、体を浮かせたのだ。

 本来であれば少しだけ落下の軌道を逸らすつもりだった。小さな瓶の土には、体を浮かすほどの力はない。しかし今は、その土だけで翡翠は空中を自由に飛び回ることができた。


(な、なんなの⁉ とにかく今は、この力を使うしかない!)


 翡翠ヒスイは地面に向けて体を飛ばした。その勢いが強すぎて、翡翠は地面に引っ張られる。


「制御でき……!」


 激突。

 その程度では翡翠は倒れることはないが、土煙に目を瞑ってしまう。その瞬間、頭上で甲高いロックの羽搏ハバタきが響いた。

 防御魔法は間に合わない。翡翠は死を覚悟する。そのとき、何かの大きな影が、頭上を飛び越える。ロックの悲鳴が上がり、鮮血が花畑を汚した。


「……あれ?」


 ロックの首筋に大きな犬が噛みついていた。ただ、その大きさは尋常ではない。さすがに羽を広げたロックよりは小さいが、胴の太さや頭の大きさはロックと大差がなかった。


(他にも魔物が⁉)


 翡翠は周囲を警戒する。他にもこんな魔物がいて、魔法が制御できないならば、翡翠に生き延びる望みはない。ただ、他に気配は感じず、巨鳥と巨犬の格闘の音だけが辺りに響いた。

 ロックは首を噛まれたものの、それでも生き延びようと必死に暴れ、鋭い爪を巨犬の銀の毛皮に食い込ませる。巨犬は痛みに怯みそうになるが、大地にその四肢を踏ん張ると、顎の力でロックを持ち上げ、地面に叩きつけた。そして、強靭な顎で首の骨を砕き、その命を奪う。


「ルーちゃん……?」


 思わず翡翠は口に出した。それがルパノクトではないとわかっていたし、巨犬が翡翠を助けたのではないこともわかっていた。

 ロックが力を失い、絶命する。

 巨犬は牙を引き抜き、翡翠の方を見る。ロックによって付けられた傷は大きいが、致命傷にはならない程度だ。それなのに巨犬はよろめくと、体を硬直させ、地面に倒れた。


「あ……。毒……」


 ロックの爪には毒があることを忘れていた。致死性の凶悪な毒だが、翡翠は毒を浄化できるし、他の少女も毒程度で死ぬような体をしていない。どのみち、大きな爪で引き裂かれたら、そこで終わりである。

 翡翠は巨犬に近付く。巨犬は泡を吹きながらも、唸り声を上げて翡翠を威嚇した。それでも構わずに、翡翠は巨犬の血に濡れた毛皮に触る。


「サナーティオ・トキシカ。サナーティオ・ウルネル」


(力を暴走させないように。ゆっくりと……)


 翡翠が唱えた魔法が、犬の巨体に広がった。毒が浄化され、傷が塞がり、血で汚れた毛皮すら綺麗な状態に戻っていく。

 翡翠は後のことは何も考えずに魔法を使う。癒しの魔法だ。

 巨犬は体の自由を取り戻し、すぐに起き上がると翡翠を睨み、牙を剥き出した。


「良かった……。元気になって……」


 死ぬことになる。

 再生能力があっても、食べられれば終わりだ。巨犬は翡翠の匂いを嗅ぎ、その味を確かめるように舌で顔を舐めた。その勢いに押されて、翡翠は仰け反る。さらにもう一度舐められる。もう一度。

 ようやく翡翠は巨犬が翡翠を食べるのではなく、労わっているのだと感じた。その鋼鉄の尻尾が、空を切りながら左右に勢い良く振られているのを見て、喜びを感じていることを知る。


「わ、私を食べないの?」


 巨犬は明らかに魔物である。魔物とこのように接するのは初めてだった。巨犬は立ち上がると、ロックの方を見た。


「そっか。私よりそっちの方が食べ応えありそうだもんね」


 巨犬はロックに近付くと、その口で羽を毟りながら、肉に食らいつく。翡翠は肉が裂かれ、骨が砕かれる音を聞いて、少しだけグロテスクに感じて眉を顰めるが、後は特に何も思わなかった。慣れたものだ。


「お腹が空いてたんだね」


 翡翠がそう言うと、巨犬は顔を上げて舌を出して血を舐め取ると、彼女を見てからまた食事に戻った。まるでお前も食えと言っているようである。


「ありがとう。でも私は、ちょっとそれは食べられないかな……」


 魔物を食べるような生活は送っていなかったし、人が魔物を食べられるかどうかもわからない。さらに毒のある魔物だ。血と臓物の臭いで、さらに食欲は失せる。

 花畑は凄惨な状態になった。血と弾けた土、飛び出してきた大岩で、平穏とは程遠い。翡翠は丁度良い岩のひとつに腰掛けると、巨犬が食事をするのを、考え事をしながら眺めた。呑気なことだが、これ以上動く気力が湧かなかったのだ。


(そっか。彼らも生きてるんだ。魔神に使役されてなければ、ただの野生の動物と同じなんだね)


 しばらくボーっと座っていたが、土煙を吸って少し咽る。喉の渇きを覚えて、翡翠は立ち上がった。巨犬がその動きに反応して、顔をこちらに向ける。目が合うと、尻尾を勢い良く振って、敵意を感じさせない。


「フフ……。君はいい子だね。助けてくれてありがとう。じゃあ、私は行くね。飲み水と食糧の確保……しなきゃね」


 巨犬の口は血に汚れているかと思ったのだが、全くそんなことはなく綺麗なままであった。不思議だが、魔物のやることだ。深くは考えないようにして、巨犬の鼻を撫でる。巨犬は目を瞑ってそれを受け入れた。

 名残惜しいが、翡翠はその場を後にする。


(転移ができない以上、ここにどれだけ留まることになるかわからない。とにかく、長期戦も考えなきゃ。さっき、上から大きな川が見えた。そこに……)


 去ろうとする翡翠の前に、巨犬が出て来て道を塞いだ。


「な、何? まだ何かあるの?」


 巨犬は体を横に向けてから腰を降ろすと、翡翠を見て待っている。


「乗れっていうの?」


 ワフと巨犬が小さく吼えた。

 魔物の背中に乗るのは、戦いでとどめを刺そうとしたときくらいである。尻込みしそうになるが、翡翠は覚悟を決める。毛を掴んで背中によじ登ると、巨犬は立ち上がる。いつもの五倍くらいの視線の高さになり、少し目が眩んだ。

 巨犬は気を遣うようにゆっくりと歩き始める。翡翠は思い出して、魔法を後ろに放った。柱のような岩が隆起し、花畑に墓石のようにそそり立つ。巨犬が振り返って、それを確認した。


「ごめん。ここに戻ってくることになるから、目印にしておきたくてね」


 巨犬は了承したとでも言うように、ワフと再度言うと、また歩き出した。


 ◆


 巨犬は機嫌良く歩き、翡翠はその背中を楽しんだ。


「ね。君、名前はなんていうの? 私は翡翠だよ」


 巨犬はワフとだけ答えた。


「う~ん、わかんないよね……。じゃあ……、私が勝手に付けるね」


 神獣狼ルパノクトのことを思い出す。背中に乗ったことはないが、その背中に埋もれて眠ったことを思い出した。


「銀色の毛色だから……、ギンはどう? 銀ちゃんね」


 巨犬はワフと少し大きい声で答えた。否定とも肯定とも取れるが、翡翠は気に入ったのだと思い込むことにした。


「私は、翡翠ヒスイだよ。よろしくね」


 銀は小さく返事すると、そのまま翡翠を乗せてしばらく歩く。


(恩返しのつもりなのかな? どこに連れていく気だろう)


 翡翠はあの花畑のあった場所からは、あまり離れたくなかった。もし、誰かが同じように転移してくるならば、同じ場所に来るのではないかと考えていたからだ。

 川が流れていた方とは逆側に歩いている。喉の渇きと空腹が限界に近い。さらに戦いの疲労により、銀の背中でウトウトと船を漕ぎだしてしまった。だから銀が止まったとき、その景色に驚いた。


「わ。これ……」


 銀が座り込んだので、翡翠は地面に降りた。小さな林の中に、大きな岩が突き出ており、その窪みから水がゆっくりと溢れ出して、下の泉を満たしていた。近くにある木々には、美しい実が生っており、時折、水面に落ちては、小川に流れていく。苔生した岩に小さな煌く花が咲き、光景にイロドリを加えている。

 銀はそのまま目を瞑ってしまった。眠るようである。翡翠はその頬を少し撫でて、お礼を言った。


「ありがとう。言葉を理解してるんだね……」


 銀はフンと鼻を鳴らした。翡翠は微笑み、岩から垂れる水を手に取る。

 水だ。水に見える。

 翡翠は多少の毒なら体調を崩すことはない。それをひと口飲むと、喉が潤い、またひと口飲んで、もうひと口飲んだ。水に雑味はなく、いままで飲んだことがないほどに美味しかった。

 喉の渇きが潤うと、今し方、落ちてきた木の実を水から掬い上げた。赤い木の実は手に持つと意外と重かった。


「この木の実も食べられるのかな」


 水面が不自然に揺れた。魚がいるのかと思ったが、水中に魚影はない。翡翠は姿勢を正すと、水面に向けて話しかけた。


「精霊さま、お騒がせして申し訳ありません。もう少し休ませてください。そうしたら、ここから離れます。ただ、たまここを訪れるかと思います。これからお世話になりたいのですが、よろしいでしょうか」


 水面がチャポンと音を立てた。そして、静かになる。

 それを了承の証だと理解した翡翠は、もうひとつだけ木の実を拾うと、眠る銀の腹にもたれかかり、木の実に口をつける。

 皮は渋みがあり食べられそうにないが、実の方はホノかに甘い。林檎のような見た目だが、食感はバナナに近い。


「これは水鏡の実と名付けよう。ありがとうございます、精霊さま」


 水鏡澪ミカガミミオは、マボロと呼ばれていた魔法使いの少女の名だ。水を使う彼女にアヤカって、熟れて水に落ちる実にその名を付けた。

 ここを拠点にしようと思っていたが、精霊の住処を荒らすわけにはいかないと考える。やはり、花畑の近くにキョを構えた方が良いかもしれない。

 そんなことを考えていると、腹が満たされた翡翠は、いつしか銀の暖かい腹の心地良さに触れ、眠りに落ちていた。


 ◆


 最初は生き残ることに精一杯で、元の世界への帰還を考える余裕はなかった。


「お腹空いたね、銀ちゃん……」


「ワフ」


 お腹が減り過ぎて、氷ついた魔物の死体を生で食べたこともあった。


「寒いね……、銀ちゃん」


「ワウ!」


 苦労して建てた掘っ立て小屋が、大洪水で流されてしまい、呆然とすることもあった。


「銀ちゃん、みんな、流されちゃった……」


「ク~ン……」


 凶悪な魔物(ドラゴン)に住処を奪われ、それにひとりと一匹だけで立ち向かったこともあった。


「行くよ、銀ちゃん!」


「バウッ!」


 それでも生き延びてこられたのは、いつも一緒にいたからだ。


「銀ちゃん……、私が帰るときが来たらさ。一緒に行こうよ。そこなら、こんな辛い思いしなくて済むからさ……。だからそのときまでに、体を小さくする魔法を覚えて!」


「ワ……ワフ?」


 そうして一週間が過ぎ、一か月が過ぎ、一年が過ぎ……。

 翡翠と銀はお互いになくてはならない存在として、花畑を中心とした縄張りを作っていた。そこには大きな魔物も近寄らなくなり、翡翠と銀は平穏な日々を送れるようになってきていた。

 いつの間にかそこは故郷となり、彼女らは姉妹となっていた。


 ◆


 銀が身動ぎし、翡翠は目を覚ました。

 翡翠が落ちた花畑の周囲には、平野と所々に森が広がっている。かなりの辺境だったが、住んでいる人がいないわけではない。歩きで一日かければ、小さな村があり、さらに三日かければ、大きな街がある。

 翡翠は周辺の住人から『狼の魔女』と呼ばれ、畏怖と敬意の対象となっていた。

 人と交流するつもりはなかったのだが、六年も暮らしているのに、地元民の誰とも会わないなどと言うことはあり得ない。

 最初は狩人が魔物を狩りに訪れ、銀の毛皮を狙ったのだが、魔女が付いていると知ると狩人たちは近付かなくなった。どうやら銀は『ガルム』という種類の魔物らしい。

 迷い込んだ無害そうな村人の怪我を、何回か治療して助けてやったのがいけなかった。

 いつしか、重い怪我や病を患った人々が、翡翠の元を訪れるようになり、彼女に慈悲を請うようになったのだ。

 人と話すようになったおかげで、この世界のことは知ることができたが、人が増えてくると翡翠にも負担になってきていた。それでも彼女は治療を続けた。どうしても断ることができなかった。彼女の甘さであり、優しさである。

 この世界には魔法は当たり前に存在していたから、翡翠も前の世界のように正体を隠す必要はない。目の前で怪我をした人の治療を諦める、などということはしなくて済む。その点については、この世界に来て悪くなかったことのひとつだ。

 さらにひとつ、悪くなかったことがある。

 暴走する魔法の制御の仕方を覚えると、翡翠は自分の力に驚くことになる。

 土、植物、鉱物を一度に大量に操ることができ、傷の回復速度も今までとは比べ物にならない。大地から伝わる力が、前にいた世界とは段違いなのだ。

 多くの人の治療ができるのは、その無尽蔵の力あってこそだが、翡翠はそれでも転移魔法を使えるようにはならなかった。


 ◆


 銀との出会いから、一週間と一か月、それと六年の月日が過ぎる。

 元の世界からの助けは誰も来ず、翡翠も自身も、世界を飛び越えるほどの転移魔法を使えるようにはならなかった。

 翡翠は何故か歳を取らない。

 おそらく自分にかけた治癒チユ魔法が暴走しているのだと思うが、六年経った今でも、十四歳のときの姿のままである。その神秘性がさらに尾鰭オヒレが付いて、いつしか翡翠は『生命の魔女』と呼ばれるようになっていた。

 翡翠は銀の毛皮に身をウズめた。その匂いを体いっぱいで感じると、揺すって全身にマブす。


「あ~あ、どうしたら良いんだろう……。もう、私は帰れないのかな……」


 人を治療して通貨を得て、様々な魔法や歴史に関係する書物・文献を読んできた。しかし、その中に異世界転移に関する魔法はない。

 それに近いであろう空間魔法を勉強してみたが、別の世界に行けるような代物ではない。それに独学ではどうしても限界がある。


「ねぇ、ルトロネルって国に、魔法学園ってのがあるんだって、そこに入学してみようかな」


 銀はフンスと鼻息を吐く。


「そうだよね。銀は連れてけないし、あの花畑の場所も守りたいし……」


 花畑には何らかの魔法の痕跡があった。この世界に降りてきたときに、随分荒らしてしまったが、その痕跡の解読ができれば、異世界転移魔法を解読することができる気がしていたのだ。

 ただそれは、圧し潰して粉々に砕けた土の壺を、砂の欠片を拾い集めてひと粒ひと粒、再構成していくようなものである。要するに、一から作ったほうが早い、というような類のものであった。


「六年……。もう、二十歳だよ。あっちの世界はどうなったんだろう。私がいなくなって、ルーちゃんは……、二人は……」


 喉に突き刺さった小骨のように、ずっと翡翠をサイナみ続ける。

 結末は最悪に終わったのかもしれない。いや、もしかしたら二人は、魔神を倒すことができたかもしれない。

 結末を見届けることができなかった物語。しかも、その当事者であった翡翠には、それは治らない傷のようであった。

 そんなある日、異変が起こる。

 近頃は治療に訪れる者も少なく、翡翠は魔法の研究に専念していた。銀の背中で読書をするのが、翡翠の日課である。

 集中していたのに、誰かが翡翠の住む森の結界に入り込んだ気配がしたのだ。銀もそれに勘付き、顔を起こした。


「銀ちゃん、侵入者だね」


 フスと銀が応える。既に臨戦態勢。侵入者の足取りは、禍々しいものだ。


「テラ、ディー・ミッヒ、フォルマ・トゥアム!」


 翡翠が呪文を唱えると、着ていた服が光に包まれて消え、地面から植物が伸びてきて、翡翠の体を覆う。それが変化し、緑色のドレスとなり、彼女の戦闘用の鎧となる。


「敵意剥き出しか……。でも一応、警告はしないとね」


 翡翠も慣れたものである。野良の治療魔法使いというのは、どうも恨みを買うらしい。この六年間、殺し屋か傭兵が、何度もこの住処に来ては、翡翠の命を狙うことがあったのだ。

 翡翠が地面に魔力を送ると、魔法が発動する。事前に仕込んでおいた魔法の罠だ。

 翡翠はテーブルに置いてあった石のメガホンを取ると、侵入者が来る方に向けて大声を出す。ただのメガホンではない。平野全体に響くほどの、大声が出せるメガホンだ。これで自分の正当性を主張する。


「あ、あ、あ、マイクテスト、マイクテスト……。ううん! あー、侵入者の皆さま、それ以上は近寄らないでください。そこから先は死の大地。入り込めば生きては帰れま……」


 これでも入ってくるようなら《《敵》》である。しかし、言い終わる前に何人かが罠に引っかかった音がした。

 魔法の植物による罠は、完全に自然に溶け込み、決して容赦はしない。悲鳴が森の奥で響く。その声が人間のものには思えなかった。声ではあるのだが、鳴き声に近い。

 気配や足音は人に近いのに、人ではないようである。


「何かな……?」


 銀が唸り声を上げる。ここまで銀が警戒したのは、竜と戦ったとき以来だ。

 侵入者の足は止まらなかった。それどころか仲間が犠牲になったことすら気にしていない。その数がドンドン増えていく。罠の許容量を超える。

 翡翠は嫌な予感はした。逃げるのも手だが、せっかく集めた魔法の書物を失いたくない。


「やるしかないようね。銀ちゃん、容赦はしなくていいからね」


「バウ!」


 森の藪を突っ切ってきたのは、角の生えた人の子どもだった。いや、体格が小さいだけだ。人型ではあるが、人ではない。

 ゴブリン。

 一体一体は弱いが、徒党を組んで狩りをする、厄介な魔物だ。


「ウィンクルム・アルボリス!」


 翡翠が地面に触れると、そこから力が伝わり、ゴブリンたちの足元に駆けて行く。そして、力は強靭な樹木となり、複数のゴブリンを捕らえた。

 捕らわれたゴブリンはやがて身動きひとつ取れなくなり、そのまま生きたヘイとなって、後ろのゴブリンの行く手を阻む。近付けば、他のゴブリンも同様に捕らわれることになる。

 それでも構わずにゴブリンたちは突っ込んでくる。根や枝が彼らの行く手を阻み、その蔦を絡めて拘束して、さらに大きな壁となる。運良く逃れたゴブリンも、銀の強靭な顎と爪、そして尾が蹴散らした。


「この辺りの魔物は、私たちを恐れて近付かないのに……」


 それにこのゴブリンたちは恐怖を感じていないようである。いや、恐れているのにそれを無視している。もっと恐ろしい何かに追われるように。

 ゴブリンでできた生垣イケガキが、破裂する。後ろから来た何かが、激烈な力によって破壊したのだ。ゴブリンの体がバラバラに吹き飛び、樹木の魔法が解かれてしまう。


「オーガ⁉ でも……」


 生垣を破壊したのは、大きな棍棒を持つ、大きな魔物だ。

 オーガはゴブリンの数倍の体格を持つ人型の魔物で、素手で大樹を引き裂くほどの力を持つ。全身が膨れ上がった筋肉で覆われ、知性理性もない狂気じみた瞳が特徴だ。

 ただ、オーガが別種であるゴブリンを従えることなどあり得ない。


「……何者なの?」


 翡翠が思わず口に出す。


「我らは魔王軍。生命の魔女。その命、貰い受ける」


 まさか、答えが返って来るとは思わず、翡翠は動揺する。

 翡翠も何度か戦ったことがある魔物だ。オーガは多少の言葉を介するが、自分が何を言っているか理解しているかも怪しい。

 そうであるのに、このオーガからは知性を感じる。この違和は悪い兆候だ。


「銀ちゃん!」


「バウ!」


 銀はガルムの中でも、かなり大きい。黒い毛皮が特徴のガルムであるが、銀色の毛皮を持つ彼女は群れから追い出され、翡翠と出会うまでは一匹だけで生きていた。

 そのおかげか、銀はガルムの中でも最上位の力を持つ個体へと育っている。弱い魔物は彼女の唸り声を聞いただけで逃亡し、強い魔物も警戒して近付こうとしない。オーガ程度では、彼女の相手にはならない。

 翡翠は周りのゴブリンを排除し、銀の道を開ける。オーガすら丸呑みしてしまいそうな頭を持つ銀だが、まずは牽制のためにその爪で攻撃した。

 その判断は正しかった。いきなり、かぶりつこうとしていれば、銀の頭はオーガの持つ巨大な棍棒で、ひしゃげていただろう。

 銀の体が宙を舞う。

 とてつもない素早さで、オーガは身を躱して、銀に一撃を加えたのだ。

 棍棒が体に直撃し、銀の一トン以上ある巨体が、翡翠の頭の上を飛び越える。

 翡翠ヒスイはとっさに魔法を放ち、銀の体を草のクッションで受け止めた。銀はすぐに起き上がり、大したダメージは受けていないようである。


「よ、良かった……」


 翡翠は振り向くと、魔法を放った。その目が怒りに燃える。


「全力で磨り潰す!」


 翡翠は周囲の見えているゴブリンの足元の地面を消した。

 ゴブリンたちは憐れな悲鳴を上げながら、生き埋めにされる。オーガはその巨体で穴をものともせず、翡翠に向かって突撃する。だが、その前に後ろから伸びてきた無数の蔓がオーガを縛り上げる。

 関節を封じ、力が籠められないように、雁字搦ガンジガラめに縛り上げると、オーガは身動ミジロぎひとつできなくなる。


「銀を殴ったこと、死んで後悔しなさい!」


 翡翠は手の上にひと粒の種を作り出した。それは命を苗床にする植物の種だ。種が体に張り付けば、そこから一気に発芽して、血液を全て吸い取る。吸血草ヴァンプウィードと言う名の植物系魔物である。

 それを投げつけようとしたとき、自分以外の魔力に気が付いた。誰かの魔法。翡翠の知らない魔法だ。

 黒い炎。それは投げ槍となって翡翠へと一直線に向かってくる。オーガに気を取られていた翡翠は反応が遅れた。


(間に合わない……、直撃する!)


 翡翠は自身に治癒魔法を発動し、事前に回復できるように仕込む。それで大抵のことは上手くいく。しかし、その前に槍は銀の体に突き刺さる。

 黒い炎の槍が銀の固い毛皮を貫き、固い筋肉を貫通して、肺に穴を空けた。


「銀⁉ どうして……」


 翡翠が叫ぶ。銀は血を吐き出しながら、力なく地面に倒れた。


「サナーティオ・ウルネル!」


 翡翠は銀に駆け寄り、治癒魔法を発動する。一瞬、傷は塞がり、銀の目に光が戻るが、すぐに傷口は開き、また銀の口から血が溢れた。


「な、なんで⁉ サナーティオ・ウルネル!」


 再度、治癒魔法を試みる。だが、同じことが繰り返される。銀の血は止まらず、傷口は塞がらない。


「将軍、とどめを」


 杖を持ったゴブリンが言うのが見えた。他のゴブリンとは明らかに違う。魔法を使ったのはあいつだ。

 攻撃しようとしたとき、背後に気配を感じた。オーガが拘束を振り破っていた。

 棍棒が振り下ろされる。翡翠の再生能力はあくまでも治癒魔法に由来する。もし、頭と心臓が潰されれば、効果は発揮できない。棍棒で挽肉に変えられれば、再生は不可能だ。

 オーガのこの無骨な棍棒は、翡翠を殺すためのものだと理解した。彼らは最初から翡翠を殺すための策を用意していた。

 銀の尾が、振り下ろされたオーガの棍棒を受け止める。朦朧としながらも、銀は唸り声を上げて立ち上がる。血を止めようと傷口に体を押し付けていた翡翠は、突然のことに翡翠の毛皮にしがみ付くしかない。

 銀は血を吐きながら立ち上がり、血の泡を吹きながら吼えた。

 ゴブリンたちだけでなく、その気迫にオーガすら怯む。


「銀! ダメ、動いたら……!」


 銀は止まらない。その巨体を振るって、オーガを突き飛ばし、ゴブリンの魔法使いを踏みつけると駆け出した。全速力だ。出血が止まらず、肺に血が溜まり、奇妙な泡立つ音を立てるのも構わず、銀は走った。

 翡翠は駆けるときの振動で、振り落とされないようにするのが精一杯である。銀のこんな荒々しい走り方は初めてだ。

 住んでいた森を抜け、平野を駆け、襲撃してきたゴブリンたちから充分に離れると、銀は足が縺れて倒れ込んだ。翡翠は投げ出され、地面に転がるが、痛みなど感じはしない。

 翡翠はすぐに起き上がり、再度、治癒魔法を銀にかける。だが、それは銀に苦しみを繰り返し与えるだけであった。

 銀の目から光が失われていく。


「待って、待って……! お願い。ごめんなさい、ごめんなさい。私が油断したの、私が悪いの! だから、これ以上……。銀、お願い……」


 翡翠は治癒魔法を全力で使う。しかし、銀の血は止まらない。彼女の血が水面に流れ落ち、その澄んだ水を赤く染める。


ミオちゃん、トモリちゃん、ルーちゃん……。お願い……。誰でもいいから助けて……。私をひとりにしないで……」


 翡翠の叫びが、空しく湖面に響いた。その声に反応したのか、水鏡のような水面が奇妙に揺れる。

 水が大きく盛り上がり、それは翡翠の声に応えた。

 そこは翡翠がこの世界で初めて食事をした、精霊の住む泉。今は小さな湖ほどに大きくなった泉は、それとともに成長した精霊が住んでいた。

 大きな鯉。

 美しい鱗と、立派な髭を持つ。透き通る体を持つ精霊は、銀に近付いた。

 精霊が大きく口を開けたので、翡翠は銀を庇って、その身を盾にする。


「精霊さま、ごめんなさい、ごめんなさい……。泉を汚してしまって……、す、すぐに……出でい……ぎます……。だから、だべないで……。おねがい、おねが……」


 最後は言葉にならなかった。

 精霊は一瞬、躊躇したようにその身を引くが、また大きく口を開けると、翡翠ごと銀を飲み込んだ。


 ◆


 水の中は暗かった。

 遥か上の方に月が見える。水面で歪み、それでも確かに月は見えた。

 いや、あれは別の星だ。青く輝く星。翡翠が生まれた星。その表面に緑と白が、複雑な模様を描いている。

 銀の血が水に溶け、翡翠に触れた。翡翠はその毛皮に顔をウズめた。


(ああ、死んだんだ、私たち。……良かった。これでもう私の使命は終わり……。最期にみんなに会いたかったな。でも、銀と一緒なら、いいか……)


 翡翠がそんなことを思っていると、銀が頬を摺り寄せた。銀の目には力がある。今は苦しくはないようだ。


『翡翠。私の妹』


 翡翠は驚いて顔を上げた。銀の声を初めて聞いた。翡翠は嬉しくなって、再度、翡翠の顔に抱き着いた。


「銀ちゃん、良かった。一緒にいこう」


『翡翠、私たちがした約束を覚えているか』


「約束?」


 翡翠には心当たりがあり過ぎて、どれのことかと迷った。


『お前の生まれた世界に、私を連れて行ってくれるという約束だ』


「覚えてるよ。でも……、ごめん。死んじゃったら無理だね……」


『翡翠。私たちは生きている』


 水中であるのに息ができるし、空には大きな生まれ故郷の星が見える。翡翠は自分が死んだとき、月に行くのだと教えられていた。だから、ここは死者の国、月なのだと思っていた。


『ここは泉の精が作り出した幻だ。私たちを繋げるために、用意してくれたのだ。泉の精は、私たちに感謝しているようだ。周りの魔物を追い払って、静かな暮らしをくれたから』


「そう……なんだ。でも、銀、この血は……」


 銀の体からは血が流れている。黒い炎の槍によって、傷つけられた銀の体は治っていない。


『泉の精が助けてくれた。この傷を癒すには時間がかかるが……』


「じゃ、じゃあ、銀は死んでないんだね⁉ 死なないんだよね⁉」


『ああ。死なないよ』


「良かった……」


 翡翠は銀の鼻に顔を押し付ける。


『翡翠。だけど、君とはここでお別れだ』


「え? な、なんで……。一緒にいる。嫌だ!」


 翡翠は子どものように銀にしがみ付く。


『私のためにずっと人里で暮らそうとはしなかった。それは嬉しい。けれど、その時間は終わりだ。魔王が再び世界に現れた。翡翠、君には使命があるのだろう』


「使命なんてない! 私は、私は……、失敗したんだ……。私にはできない……」


 六年。

 自分の敗北を悟るには、充分過ぎる時間が過ぎた。

 翡翠の世界は滅んだ。魔神の手によって。仲間たちも、家族の思い出も、故郷も、その全てが消えた。

 世界を守ること。それだけを胸に戦い続けてきた。この世界に来て、その使命は終わりを告げたはずだった。

 魔王の伝説は知っている。世界に死と破壊をモタラし、世界を混沌の海に沈める。そして、世界に発展を約束するとも、滅びを与えるとも言われている。

 翡翠の世界にいた魔神ヴェルディクタと似た存在だ。


『翡翠。私は世界が嫌いだった。けれど今は、君と生きた世界が好きになった。この世界を君と生きたことで好きになれた。だから、お願いだ。この世界を守ってほしい』


 その言葉は翡翠に響いた。

 翡翠は世界が嫌いだった。

 両親と姉弟が理不尽に命を奪われ、祖母の元で暮らした。その祖母もいなくなり、翡翠は独りぼっちになってしまった。

 魔法の力を得て、仲間たちと暮らすうちに、翡翠は世界が嫌いなことなど忘れてしまっていた。


「みんなと一緒にいられる、この世界が私は好き」


 炎の魔法を使うレッドムーン・赤円燈セキエントモリにそう言われ、翡翠は雷に打たれたような気がした。


「私は普通にみんなが好き。別に世界はどうでも良い」


 水の魔法を使う幻月マボロヅキ水鏡澪ミカガミミオは、冷たい口調で言うが、言葉自体が暖かかった。


「私も……、私も好き。二人が好きなものが好き」


 翡翠であるルナ・ヴェルデは微笑みながら言った。


「へへぇ……。贅沢!」


 トモリに肩を抱かれ、翡翠はよろめいて笑った。

 最初は神獣ルパノクトに強要された使命だった。だがいつしか、その使命は翡翠の願いとなり、己の使命となっていた。

 銀が翡翠の顔を舐める。


『翡翠。私も傷が癒えたら、一緒に戦う。そのときまでに力をつけておくんだ』


 翡翠は銀の大きな目を見た。美しい瞳。信頼と友情の眼差し。


「わかったよ、銀。私は強くなる。世界を、今度こそ、救う」


『私も強くなって追いかける。学園で会おう』


 水に流れが生まれ、翡翠の体は深淵に引き込まれていく。銀はその様子を静かに見守った。


 ◆


 目を覚ますと湖畔の岸だった。

 銀の流した血の跡はなく、追手の姿もない。湖はいつもと変わりなく、精霊の姿もない。

 あれが夢だったとは思えない。


「わかったよ、銀。私は……」


 使命を全うするときが来たのだ。

 一度、敗れた。だから、次は失敗しない。絶対にできない。

 翡翠は立ち上がると、歩き出した。彼女の旅が始まった。



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