表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/99

銀の月

 ◆


 赤い服の少女、青い服の少女、緑の服の少女。

 三人の少女が、翼を持つ天使を見上げていた。

 空は立ち込める暗雲で覆われ、ビルには光が灯っていない。街行く人々は居らず、急ぎ逃げ出そうとした車の群れが、その場所で終わりを迎えていた。

 命の姿はない。生きとし生ける者は、ほとんどが滅んでしまった。

 今、動ける者は、三人の少女と、その使い魔となった神獣のみである。

 少女とも少年とも言える顔の天使は、ゆっくりとその大きな翼を羽搏ハバタく。これは助走だ。次に大きな一撃が来る。


「みんな、私の後ろに! ルーちゃん!」


「おうよ!」


 赤の少女と青の少女が、緑の少女の後ろに隠れた。緑の少女の隣にいた狼のような神獣が、その声に応え、天に向かって遠吠えをする。それに応え、地面が盛り上がり、巨大で分厚い壁を構築した。さらに緑の少女が壁に手を翳し、呪文を唱える。


「テラアーマ!」


 少女の魔術が壁に行き渡る。天使が翼で風を起こした。それは何気ない軽い動作だった。しかし、巻き起こった風は刃を伴う衝撃波と化して、魔法によって作り出された壁を破壊する。

 少女たちが悲鳴を上げながら、吹き飛ばされる。壁は破られたが、ダメージは負うほどではない。


「そんな……、私の魔法が破られるなんて……」


 緑の少女が顔色を悪くして、天使を見つめた。膝をつきそうになるその少女を、赤の少女が支えた。


「ヴェル、大丈夫! あなたの魔法は効いてるよ!」


「そう。戦いの前にかけた防御魔法も含めてあなたの魔法。それがなければ、私たちは細切れになっていた」


 青の少女が冷静に言う。ルーと呼ばれた神獣も、緑の少女の脇に入り込んで体を支えた。


「ありがとう、みんな……。防御は私に任せて。二人は攻撃に集中して」


「わかった!」


「任せる」


 お互いを支え合う三人の少女を見下ろして、天使は溜息をついた。


「ハァ……。そろそろ、実力差に気が付いてくれませんか。戦いに使う魔力が勿体ない」


「うるせぇ、男女オトコオンナ! 人には退けない戦いがあるんだよ!」


「そう。例え絶望的な実力差があったとしても、私たちは戦う。その点で言えば、あなたに私たちの魔法は届かないわけじゃない」


 天使は地面に降り立つと、その美しい顔を少女たちに向けた。


「わかっているのですか? あなたたちの守るべきものは《《人》》ではない。《《この星そのもの》》です。確かに人類は可能性がある。それは私も認めましょう。しかし、盆からこぼれ落ちた水が、再び元に戻ることはないように、人類は道を踏み外した。だから一度、リセットしなければならない」


「そんなことは絶対にさせない!」


 赤の少女が叫ぶ。天使は彼女を冷たい目線で睨む。


「これでも、恩情を与えているのですよ? あなたたちが死ねば、人類の生き残りたちに生きるスベは残されていない。私に協力すれば、月の使徒たるあなたたちは新たなる人類の母となり、私の子を孕むことができる。これ以上の何を望むというのです? 私を殺せば全てが元に戻るとでも思っているのですか? そんな魔法があるのなら、私が知りたいくらいですよ」


「生き残った人たちはどうするつもりですか」


 青の少女が訊ねる。


「もちろん、殺します。新しい人類には、古い人類の血は残せませんから」


 青の少女の冷静だった表情が、怒りに歪んだ。


「そんなことは絶対にさせない……。あなたの好きなようには、絶対に! 渦穿ち《ウズウガチ》!」


 青の少女が紙で作った形代を投げた。

 形代は飛翔し、逆巻く水柱と化しながら、竜巻のようにのた打って、天使へと向かって行く。

 天使はそれを翼のひと振りでかき消す。水が飛び散り、一瞬、天使の視界が遮られる。その隙に、赤の少女が拳を振りかぶり、天使の懐に飛び込んできた。


「アグニフィストォ‼」


 赤の少女の掛け声とともに、その拳に炎が宿り、天使の体を焼き尽くそうとする爆炎が舞い起こる。だが、天使の体は少し焦げた程度で、燃焼は終わってしまう。狼がその足に噛みついて動きを封じようとするが、これも躱された。

 天使の無数の羽が宙を舞い、その一本一本が剣となって、赤の少女と狼に襲いかかる。


「ラディクス・スクトゥム!」


 緑の少女ヴェルがそう唱えると、羽の剣に地面から飛び出してきた木の根が絡まり、その全てを受け止める。


「助かったよ、ヴェル!」


 赤の少女はさらに追撃しようと、天使に躍りかかった。


「避けて、レッド!」


 ヴェルが叫び、赤の少女を庇うように前に出た。そこに天使の剣が突き出され、二人の少女を串刺しにする。

 天使を牽制するために、青の少女が巨大な氷塊が天使に向かって放つ。彼は後ろに跳んでそれを躱した。

 その間に刺されて落下する二人の少女を、水を纏った青の少女が地面で受け止める。


「ヴェル! レッド!」


 青の少女が二人に叫んだ。緑の少女が血を吐きながらも起き上がる。


「大丈夫……。マボロ、レッドを治すから、時間を稼いで……」


「わかった」


 マボロと呼ばれた青の少女は、あまり心配はしていなかった。ヴェルの意識があるのであれば、死ぬことはないとわかっているのだ。

 もし、ヴェルが盾になっていなければ、レッドは即死だったはずだ。それでも、どちらも致命的な傷であるが、ヴェルには問題にならない。


(肺と肝臓、下大動脈がズタズタに……。でも、私なら治せる。治して見せる!)


 ヴェルは土の魔法で体を再構成していく。それと同時に、自分の体に空いた穴を塞ぎ、出血を止めて傷を癒していく。

 天使は青の少女マボロによる水による飽和攻撃を躱しながら、ヴェルの様子を見ていた。


(人の傷を治しながら、自分の傷を治すとは。器用なことだ)


 すぐにレッドが起き上がる。顔色は悪いが、まだ動けそうである。


「助かったよ、ヴェル。油断した……」


「レッド、あなたは攻撃の要。絶対に死なせはしない。だから、心配しないで。私が守るから」


「ああ、攻撃して攻撃して、攻撃しまくる! バーンウィング!」


 レッドの背中から炎が上がり、翼のように形を作る。爆炎の勢いで加速したレッドは、マボロと戦う天使に向かって突撃する。今し方、死にかけたのに、である。ヴェルが守ってくれるとわかっているからだ。

 ヴェルも立ち上がり、二人を守れる位置に移動しようとする。

 レッドの神速の一撃が、天使の顔面を捉えた。天使は炎に包まれながら、地面へと叩き付けられる。だが、その肉体は白い無数の羽となって消えた。


「幻影⁉ ……ヴェル、後ろ!」


「え?」


 ヴェルの後ろに天使が立っていた。


「やはり、お前が一番厄介だな。ルナ・ヴェルデ」


 ヴェルは距離を取りながら、魔法を使おうとした。けれど、その前に腹に天使の剣が突き刺さり、身動きが取れなくなる。


「逆降魔の術、位相回天の法、サカ流れ」


 ヴェルの体が紫の光に包まれる。魔法陣が展開され、体が地面に沈み込んでいく。


「ヴェル!」


 レッドとマボロが、ヴェルを守るために駆ける。ヴェルは二人に手を伸ばした。


「助け……」


 だが、その前にヴェルの体は、光の中に沈んでしまった。そこでヴェルの意識は途絶えた。


 ◆


 並木翡翠ナミキヒスイは、普通の人の子どもとして育った。

 だが、亡くなった祖母の遺品から仕掛け木箱のパズルを解いたとき、その箱の中で眠っていた月の化身が姿を現した。

 狼の姿をした神獣・月の化身ルパノクトは、翡翠が月の使徒ルナ・ヴェルデであることを告げ、魔法の力を与えた。そして、同じ月の使徒である仲間を探し出し、人類を滅ぼそうとする魔神ヴェルディクタを倒すために、戦うことを強要した。


「不思議……。こんなにも心が穏やかになったのは、いつ以来だろう……」


 目を覚ました翡翠は、自分が花畑の中に倒れていることを認識する。

 ヴェルディクタに付けられた傷を癒すため、しばらくそのまま動かないでいたのだ。

 花の心地良い香りと、爽やかに通る風に、戦いの最中であるのにも関わらず、翡翠の心は落ち着いていた。

 なぜならば、ここには戦いの音はない。吹き荒ぶ風も、轟音を燃やす炎も、岩をも砕く飛沫も、狼の遠吠えもなかった。ひとりになるのは久しぶりだった。


「うっ……」


 鈍痛に翡翠は呻く。

 天使の剣は腹に刺さったままだったが、それが魔法の力によって抜け落ちた。傷は完全に塞がり、翡翠はようやく体を起こす。剣は、引き抜かれると白い小さな羽となり、風に吹かれて飛んでいく。


(怪我の治りが早い。ここは大地の力が強いからかな?)


 そこは森の中。翡翠の知らない場所だ。

 咲いている花も見たことがない。翡翠は花を育てるのが好きだった。祖母が作った庭で遊ぶのが好きだ。それなのに、ひとつの花も見知ったものはない。


「どこだろう。みんなのところに帰らなきゃ……。ルーちゃん、出ておいで!」


 それの呼びかけだけで、翡翠の半身でもある神獣ルパノクトは、姿を現すはずだ。いつもはそうである。どれだけ距離があろうとも、呼び出せばルパノクトは、翡翠の影から現れるのだ。

 だが、その声は花畑に空しく響き、翡翠は自分の置かれた状況を、理解しようとした。


「転移魔法……。しかも、ルーちゃんが来られないほどの距離……。この植生……」


 異界。

 別の世界。別の空間。生まれ育った世界とは別の世界に、翡翠は飛ばされたのだ。

 翡翠はもう一度倒れ込んだ。例え強力な再生能力があろうとも、世界線を移動するような強力な空間転移魔法には無力だ。


「負けたんだ、私……。世界を救えなかった……」


 悔しさが込み上げ、目頭が熱くなる。それを振り払い、翡翠は立ち上がった。


「まだ……、まだ、だよ。まだ、二人が戦ってる。すぐに帰らなきゃ……」


 仲間たちが戦っているのに、自分だけがここでこうしているわけにはいかない。転送されたのならば、帰る方法もあるはずだ。

 それに異界と現世は時間の流れが違うとも聞く。もし、こちらで時間が過ぎ去っても、現世では時間が流れていない可能性もあるのだ。


「とにかく、今の自分にできることをやらなくちゃ」


 空間転移魔法は神獣や天使のような、強力な魔力を有する者にしか使えない。翡翠にはそんな力はないが、それを学ぶことはできる。その方法を探すしかない。


「コルムナ・テッラエ・スルガト!」


 土の柱を立てる魔法。様々なことに応用できる魔法だ。

 本来は上から落ちてくる物を支える魔法だが、足の下から作れば、リフトのように体を高くに運ぶこともできる。花畑をなるべく傷つけないように魔力を込めた。

 だが、翡翠の思う通りにはならなかった。柱は出現したが、それは花畑全体を破壊するほど大きく、その勢いは、翡翠の体をあり得ないほどの上空に舞い上げた。


「え? え……、えっ⁉」


 翡翠は慌てて魔法を止める。土柱は霧散し消え去ったが、その力が残した影響は消えない。翡翠の体は、勢い良く空中高くに投げ出されてしまった。


「あ……、まず……」


 魔物だ。

 コンドルのような魔物。空飛ぶ、巨大な怪鳥ロックの鳴き声が聞こえた。

 魔神ヴェルディクタが現世にも呼び出したことのある魔物だ。翡翠などひと飲みにできるほどの大きな体を持っている。


(油断した。ここは魔神の世界! 魔物の住む世界なんだ!)


 空中に投げ出されただけならば、翡翠は魔法で対処できる。ただ、翡翠の魔法は地に足をつけていなければ、十全の力を発揮できない。空中で空の覇者と戦うことは、圧倒的に不利である。

 ロックの爪を空中で躱す。翡翠はいつも服に仕込んである土の瓶を使って、体を浮かせたのだ。

 本来であれば少しだけ落下の軌道を逸らすつもりだった。小さな瓶の土には、体を浮かすほどの力はない。しかし今は、その土だけで翡翠は空中を自由に飛び回ることができた。


(な、なんなの⁉ とにかく今は、この力を使うしかない!)


 翡翠ヒスイは地面に向けて体を飛ばした。その勢いが強すぎて、翡翠は地面に引っ張られる。


「制御でき……!」


 激突。

 その程度では翡翠は倒れることはないが、土煙に目を瞑ってしまう。その瞬間、頭上で甲高いロックの羽搏ハバタきが響いた。

 防御魔法は間に合わない。翡翠は死を覚悟する。そのとき、何かの大きな影が、頭上を飛び越える。ロックの悲鳴が上がり、鮮血が花畑を汚した。


「……あれ?」


 ロックの首筋に大きな犬が噛みついていた。ただ、その大きさは尋常ではない。さすがに羽を広げたロックよりは小さいが、胴の太さや頭の大きさはロックと大差がなかった。


(他にも魔物が⁉)


 翡翠は周囲を警戒する。他にもこんな魔物がいて、魔法が制御できないならば、翡翠に生き延びる望みはない。ただ、他に気配は感じず、巨鳥と巨犬の格闘の音だけが辺りに響いた。

 ロックは首を噛まれたものの、それでも生き延びようと必死に暴れ、鋭い爪を巨犬の銀の毛皮に食い込ませる。巨犬は痛みに怯みそうになるが、大地にその四肢を踏ん張ると、顎の力でロックを持ち上げ、地面に叩きつけた。そして、強靭な顎で首の骨を砕き、その命を奪う。


「ルーちゃん……?」


 思わず翡翠は口に出した。それがルパノクトではないとわかっていたし、巨犬が翡翠を助けたのではないこともわかっていた。

 ロックが力を失い、絶命する。

 巨犬は牙を引き抜き、翡翠の方を見る。ロックによって付けられた傷は大きいが、致命傷にはならない程度だ。それなのに巨犬はよろめくと、体を硬直させ、地面に倒れた。


「あ……。毒……」


 ロックの爪には毒があることを忘れていた。致死性の凶悪な毒だが、翡翠は毒を浄化できるし、他の少女も毒程度で死ぬような体をしていない。どのみち、大きな爪で引き裂かれたら、そこで終わりである。

 翡翠は巨犬に近付く。巨犬は泡を吹きながらも、唸り声を上げて翡翠を威嚇した。それでも構わずに、翡翠は巨犬の血に濡れた毛皮に触る。


「サナーティオ・トキシカ。サナーティオ・ウルネル」


(力を暴走させないように。ゆっくりと……)


 翡翠が唱えた魔法が、犬の巨体に広がった。毒が浄化され、傷が塞がり、血で汚れた毛皮すら綺麗な状態に戻っていく。

 翡翠は後のことは何も考えずに魔法を使う。癒しの魔法だ。

 巨犬は体の自由を取り戻し、すぐに起き上がると翡翠を睨み、牙を剥き出した。


「良かった……。元気になって……」


 死ぬことになる。

 再生能力があっても、食べられれば終わりだ。巨犬は翡翠の匂いを嗅ぎ、その味を確かめるように舌で顔を舐めた。その勢いに押されて、翡翠は仰け反る。さらにもう一度舐められる。もう一度。

 ようやく翡翠は巨犬が翡翠を食べるのではなく、労わっているのだと感じた。その鋼鉄の尻尾が、空を切りながら左右に勢い良く振られているのを見て、喜びを感じていることを知る。


「わ、私を食べないの?」


 巨犬は明らかに魔物である。魔物とこのように接するのは初めてだった。巨犬は立ち上がると、ロックの方を見た。


「そっか。私よりそっちの方が食べ応えありそうだもんね」


 巨犬はロックに近付くと、その口で羽を毟りながら、肉に食らいつく。翡翠は肉が裂かれ、骨が砕かれる音を聞いて、少しだけグロテスクに感じて眉を顰めるが、後は特に何も思わなかった。慣れたものだ。


「お腹が空いてたんだね」


 翡翠がそう言うと、巨犬は顔を上げて舌を出して血を舐め取ると、彼女を見てからまた食事に戻った。まるでお前も食えと言っているようである。


「ありがとう。でも私は、ちょっとそれは食べられないかな……」


 魔物を食べるような生活は送っていなかったし、人が魔物を食べられるかどうかもわからない。さらに毒のある魔物だ。血と臓物の臭いで、さらに食欲は失せる。

 花畑は凄惨な状態になった。血と弾けた土、飛び出してきた大岩で、平穏とは程遠い。翡翠は丁度良い岩のひとつに腰掛けると、巨犬が食事をするのを、考え事をしながら眺めた。呑気なことだが、これ以上動く気力が湧かなかったのだ。


(そっか。彼らも生きてるんだ。魔神に使役されてなければ、ただの野生の動物と同じなんだね)


 しばらくボーっと座っていたが、土煙を吸って少し咽る。喉の渇きを覚えて、翡翠は立ち上がった。巨犬がその動きに反応して、顔をこちらに向ける。目が合うと、尻尾を勢い良く振って、敵意を感じさせない。


「フフ……。君はいい子だね。助けてくれてありがとう。じゃあ、私は行くね。飲み水と食糧の確保……しなきゃね」


 巨犬の口は血に汚れているかと思ったのだが、全くそんなことはなく綺麗なままであった。不思議だが、魔物のやることだ。深くは考えないようにして、巨犬の鼻を撫でる。巨犬は目を瞑ってそれを受け入れた。

 名残惜しいが、翡翠はその場を後にする。


(転移ができない以上、ここにどれだけ留まることになるかわからない。とにかく、長期戦も考えなきゃ。さっき、上から大きな川が見えた。そこに……)


 去ろうとする翡翠の前に、巨犬が出て来て道を塞いだ。


「な、何? まだ何かあるの?」


 巨犬は体を横に向けてから腰を降ろすと、翡翠を見て待っている。


「乗れっていうの?」


 ワフと巨犬が小さく吼えた。

 魔物の背中に乗るのは、戦いでとどめを刺そうとしたときくらいである。尻込みしそうになるが、翡翠は覚悟を決める。毛を掴んで背中によじ登ると、巨犬は立ち上がる。いつもの五倍くらいの視線の高さになり、少し目が眩んだ。

 巨犬は気を遣うようにゆっくりと歩き始める。翡翠は思い出して、魔法を後ろに放った。柱のような岩が隆起し、花畑に墓石のようにそそり立つ。巨犬が振り返って、それを確認した。


「ごめん。ここに戻ってくることになるから、目印にしておきたくてね」


 巨犬は了承したとでも言うように、ワフと再度言うと、また歩き出した。


 ◆


 巨犬は機嫌良く歩き、翡翠はその背中を楽しんだ。


「ね。君、名前はなんていうの? 私は翡翠だよ」


 巨犬はワフとだけ答えた。


「う~ん、わかんないよね……。じゃあ……、私が勝手に付けるね」


 神獣狼ルパノクトのことを思い出す。背中に乗ったことはないが、その背中に埋もれて眠ったことを思い出した。


「銀色の毛色だから……、ギンはどう? 銀ちゃんね」


 巨犬はワフと少し大きい声で答えた。否定とも肯定とも取れるが、翡翠は気に入ったのだと思い込むことにした。


「私は、翡翠ヒスイだよ。よろしくね」


 銀は小さく返事すると、そのまま翡翠を乗せてしばらく歩く。


(恩返しのつもりなのかな? どこに連れていく気だろう)


 翡翠はあの花畑のあった場所からは、あまり離れたくなかった。もし、誰かが同じように転移してくるならば、同じ場所に来るのではないかと考えていたからだ。

 川が流れていた方とは逆側に歩いている。喉の渇きと空腹が限界に近い。さらに戦いの疲労により、銀の背中でウトウトと船を漕ぎだしてしまった。だから銀が止まったとき、その景色に驚いた。


「わ。これ……」


 銀が座り込んだので、翡翠は地面に降りた。小さな林の中に、大きな岩が突き出ており、その窪みから水がゆっくりと溢れ出して、下の泉を満たしていた。近くにある木々には、美しい実が生っており、時折、水面に落ちては、小川に流れていく。苔生した岩に小さな煌く花が咲き、光景にイロドリを加えている。

 銀はそのまま目を瞑ってしまった。眠るようである。翡翠はその頬を少し撫でて、お礼を言った。


「ありがとう。言葉を理解してるんだね……」


 銀はフンと鼻を鳴らした。翡翠は微笑み、岩から垂れる水を手に取る。

 水だ。水に見える。

 翡翠は多少の毒なら体調を崩すことはない。それをひと口飲むと、喉が潤い、またひと口飲んで、もうひと口飲んだ。水に雑味はなく、いままで飲んだことがないほどに美味しかった。

 喉の渇きが潤うと、今し方、落ちてきた木の実を水から掬い上げた。赤い木の実は手に持つと意外と重かった。


「この木の実も食べられるのかな」


 水面が不自然に揺れた。魚がいるのかと思ったが、水中に魚影はない。翡翠は姿勢を正すと、水面に向けて話しかけた。


「精霊さま、お騒がせして申し訳ありません。もう少し休ませてください。そうしたら、ここから離れます。ただ、たまここを訪れるかと思います。これからお世話になりたいのですが、よろしいでしょうか」


 水面がチャポンと音を立てた。そして、静かになる。

 それを了承の証だと理解した翡翠は、もうひとつだけ木の実を拾うと、眠る銀の腹にもたれかかり、木の実に口をつける。

 皮は渋みがあり食べられそうにないが、実の方はホノかに甘い。林檎のような見た目だが、食感はバナナに近い。


「これは水鏡の実と名付けよう。ありがとうございます、精霊さま」


 水鏡澪ミカガミミオは、マボロと呼ばれていた魔法使いの少女の名だ。水を使う彼女にアヤカって、熟れて水に落ちる実にその名を付けた。

 ここを拠点にしようと思っていたが、精霊の住処を荒らすわけにはいかないと考える。やはり、花畑の近くにキョを構えた方が良いかもしれない。

 そんなことを考えていると、腹が満たされた翡翠は、いつしか銀の暖かい腹の心地良さに触れ、眠りに落ちていた。


読んでいただきありがとうございます!

ブックマーク、お気に入り登録、コメント等で応援お願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
魔法少女ものキタコレ!!!!! 作風も良きだぞ!!!!!!! ゆっくり追うか~~~!!!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ