銀の月 2
◆
最初は生き残ることに精一杯で、元の世界への帰還を考える余裕はなかった。
「お腹空いたね、銀ちゃん……」
「ワフ」
お腹が減り過ぎて、氷ついた魔物の死体を生で食べたこともあった。
「寒いね……、銀ちゃん」
「ワウ!」
苦労して建てた掘っ立て小屋が、大洪水で流されてしまい、呆然とすることもあった。
「銀ちゃん、みんな、流されちゃった……」
「ク~ン……」
凶悪な魔物に住処を奪われ、それにひとりと一匹だけで立ち向かったこともあった。
「行くよ、銀ちゃん!」
「バウッ!」
それでも生き延びてこられたのは、いつも一緒にいたからだ。
「銀ちゃん……、私が帰るときが来たらさ。一緒に行こうよ。そこなら、こんな辛い思いしなくて済むからさ……。だからそのときまでに、体を小さくする魔法を覚えて!」
「ワ……ワフ?」
そうして一週間が過ぎ、一か月が過ぎ、一年が過ぎ……。
翡翠と銀はお互いになくてはならない存在として、花畑を中心とした縄張りを作っていた。そこには大きな魔物も近寄らなくなり、翡翠と銀は平穏な日々を送れるようになってきていた。
いつの間にかそこは故郷となり、彼女らは姉妹となっていた。
◆
銀が身動ぎし、翡翠は目を覚ました。
翡翠が落ちた花畑の周囲には、平野と所々に森が広がっている。かなりの辺境だったが、住んでいる人がいないわけではない。歩きで一日かければ、小さな村があり、さらに三日かければ、大きな街がある。
翡翠は周辺の住人から『狼の魔女』と呼ばれ、畏怖と敬意の対象となっていた。
人と交流するつもりはなかったのだが、六年も暮らしているのに、地元民の誰とも会わないなどと言うことはあり得ない。
最初は狩人が魔物を狩りに訪れ、銀の毛皮を狙ったのだが、魔女が付いていると知ると狩人たちは近付かなくなった。どうやら銀は『ガルム』という種類の魔物らしい。
迷い込んだ無害そうな村人の怪我を、何回か治療して助けてやったのがいけなかった。
いつしか、重い怪我や病を患った人々が、翡翠の元を訪れるようになり、彼女に慈悲を請うようになったのだ。
人と話すようになったおかげで、この世界のことは知ることができたが、人が増えてくると翡翠にも負担になってきていた。それでも彼女は治療を続けた。どうしても断ることができなかった。彼女の甘さであり、優しさである。
この世界には魔法は当たり前に存在していたから、翡翠も前の世界のように正体を隠す必要はない。目の前で怪我をした人の治療を諦める、などということはしなくて済む。その点については、この世界に来て悪くなかったことのひとつだ。
さらにひとつ、悪くなかったことがある。
暴走する魔法の制御の仕方を覚えると、翡翠は自分の力に驚くことになる。
土、植物、鉱物を一度に大量に操ることができ、傷の回復速度も今までとは比べ物にならない。大地から伝わる力が、前にいた世界とは段違いなのだ。
多くの人の治療ができるのは、その無尽蔵の力あってこそだが、翡翠はそれでも転移魔法を使えるようにはならなかった。
◆
銀との出会いから、一週間と一か月、それと六年の月日が過ぎる。
元の世界からの助けは誰も来ず、翡翠も自身も、世界を飛び越えるほどの転移魔法を使えるようにはならなかった。
翡翠は何故か歳を取らない。
おそらく自分にかけた治癒魔法が暴走しているのだと思うが、六年経った今でも、十四歳のときの姿のままである。その神秘性がさらに尾鰭が付いて、いつしか翡翠は『生命の魔女』と呼ばれるようになっていた。
翡翠は銀の毛皮に身を埋めた。その匂いを体いっぱいで感じると、揺すって全身に塗す。
「あ~あ、どうしたら良いんだろう……。もう、私は帰れないのかな……」
人を治療して通貨を得て、様々な魔法や歴史に関係する書物・文献を読んできた。しかし、その中に異世界転移に関する魔法はない。
それに近いであろう空間魔法を勉強してみたが、別の世界に行けるような代物ではない。それに独学ではどうしても限界がある。
「ねぇ、ルトロネルって国に、魔法学園ってのがあるんだって、そこに入学してみようかな」
銀はフンスと鼻息を吐く。
「そうだよね。銀は連れてけないし、あの花畑の場所も守りたいし……」
花畑には何らかの魔法の痕跡があった。この世界に降りてきたときに、随分荒らしてしまったが、その痕跡の解読ができれば、異世界転移魔法を解読することができる気がしていたのだ。
ただそれは、圧し潰して粉々に砕けた土の壺を、砂の欠片を拾い集めてひと粒ひと粒、再構成していくようなものである。要するに、一から作ったほうが早い、というような類のものであった。
「六年……。もう、二十歳だよ。あっちの世界はどうなったんだろう。私がいなくなって、ルーちゃんは……、二人は……」
喉に突き刺さった小骨のように、ずっと翡翠を苛み続ける。
結末は最悪に終わったのかもしれない。いや、もしかしたら二人は、魔神を倒すことができたかもしれない。
結末を見届けることができなかった物語。しかも、その当事者であった翡翠には、それは治らない傷のようであった。
そんなある日、異変が起こる。
近頃は治療に訪れる者も少なく、翡翠は魔法の研究に専念していた。銀の背中で読書をするのが、翡翠の日課である。
集中していたのに、誰かが翡翠の住む森の結界に入り込んだ気配がしたのだ。銀もそれに勘付き、顔を起こした。
「銀ちゃん、侵入者だね」
フスと銀が応える。既に臨戦態勢。侵入者の足取りは、禍々しいものだ。
「テラ、ディー・ミッヒ、フォルマ・トゥアム!」
翡翠が呪文を唱えると、着ていた服が光に包まれて消え、地面から植物が伸びてきて、翡翠の体を覆う。それが変化し、緑色のドレスとなり、彼女の戦闘用の鎧となる。
「敵意剥き出しか……。でも一応、警告はしないとね」
翡翠も慣れたものである。野良の治療魔法使いというのは、どうも恨みを買うらしい。この六年間、殺し屋か傭兵が、何度もこの住処に来ては、翡翠の命を狙うことがあったのだ。
翡翠が地面に魔力を送ると、魔法が発動する。事前に仕込んでおいた魔法の罠だ。
翡翠はテーブルに置いてあった石のメガホンを取ると、侵入者が来る方に向けて大声を出す。ただのメガホンではない。平野全体に響くほどの、大声が出せるメガホンだ。これで自分の正当性を主張する。
「あ、あ、あ、マイクテスト、マイクテスト……。ううん! あー、侵入者の皆さま、それ以上は近寄らないでください。そこから先は死の大地。入り込めば生きては帰れま……」
これでも入ってくるようなら敵である。しかし、言い終わる前に何人かが罠に引っかかった音がした。
魔法の植物による罠は、完全に自然に溶け込み、決して容赦はしない。悲鳴が森の奥で響く。その声が人間のものには思えなかった。声ではあるのだが、鳴き声に近い。
気配や足音は人に近いのに、人ではないようである。
「何かな……?」
銀が唸り声を上げる。ここまで銀が警戒したのは、竜と戦ったとき以来だ。
侵入者の足は止まらなかった。それどころか仲間が犠牲になったことすら気にしていない。その数がドンドン増えていく。罠の許容量を超える。
翡翠は嫌な予感はした。逃げるのも手だが、せっかく集めた魔法の書物を失いたくない。
「やるしかないようね。銀ちゃん、容赦はしなくていいからね」
「バウ!」
森の藪を突っ切ってきたのは、角の生えた人の子どもだった。いや、体格が小さいだけだ。人型ではあるが、人ではない。
ゴブリン。
一体一体は弱いが、徒党を組んで狩りをする、厄介な魔物だ。
「ウィンクルム・アルボリス!」
翡翠が地面に触れると、そこから力が伝わり、ゴブリンたちの足元に駆けて行く。そして、力は強靭な樹木となり、複数のゴブリンを捕らえた。
捕らわれたゴブリンはやがて身動きひとつ取れなくなり、そのまま生きた塀となって、後ろのゴブリンの行く手を阻む。近付けば、他のゴブリンも同様に捕らわれることになる。
それでも構わずにゴブリンたちは突っ込んでくる。根や枝が彼らの行く手を阻み、その蔦を絡めて拘束して、さらに大きな壁となる。運良く逃れたゴブリンも、銀の強靭な顎と爪、そして尾が蹴散らした。
「この辺りの魔物は、私たちを恐れて近付かないのに……」
それにこのゴブリンたちは恐怖を感じていないようである。いや、恐れているのにそれを無視している。もっと恐ろしい何かに追われるように。
ゴブリンでできた生垣が、破裂する。後ろから来た何かが、激烈な力によって破壊したのだ。ゴブリンの体がバラバラに吹き飛び、樹木の魔法が解かれてしまう。
「オーガ⁉ でも……」
生垣を破壊したのは、大きな棍棒を持つ、大きな魔物だ。
オーガはゴブリンの数倍の体格を持つ人型の魔物で、素手で大樹を引き裂くほどの力を持つ。全身が膨れ上がった筋肉で覆われ、知性理性もない狂気じみた瞳が特徴だ。
ただ、オーガが別種であるゴブリンを従えることなどあり得ない。
「……何者なの?」
翡翠が思わず口に出す。
「我らは魔王軍。生命の魔女。その命、貰い受ける」
まさか、答えが返って来るとは思わず、翡翠は動揺する。
翡翠も何度か戦ったことがある魔物だ。オーガは多少の言葉を介するが、自分が何を言っているか理解しているかも怪しい。
そうであるのに、このオーガからは知性を感じる。この違和は悪い兆候だ。
「銀ちゃん!」
「バウ!」
銀はガルムの中でも、かなり大きい。黒い毛皮が特徴のガルムであるが、銀色の毛皮を持つ彼女は群れから追い出され、翡翠と出会うまでは一匹だけで生きていた。
そのおかげか、銀はガルムの中でも最上位の力を持つ個体へと育っている。弱い魔物は彼女の唸り声を聞いただけで逃亡し、強い魔物も警戒して近付こうとしない。オーガ程度では、彼女の相手にはならない。
翡翠は周りのゴブリンを排除し、銀の道を開ける。オーガすら丸呑みしてしまいそうな頭を持つ銀だが、まずは牽制のためにその爪で攻撃した。
その判断は正しかった。いきなり、かぶりつこうとしていれば、銀の頭はオーガの持つ巨大な棍棒で、ひしゃげていただろう。
銀の体が宙を舞う。
とてつもない素早さで、オーガは身を躱して、銀に一撃を加えたのだ。
棍棒が体に直撃し、銀の一トン以上ある巨体が、翡翠の頭の上を飛び越える。
翡翠はとっさに魔法を放ち、銀の体を草のクッションで受け止めた。銀はすぐに起き上がり、大したダメージは受けていないようである。
「よ、良かった……」
翡翠は振り向くと、魔法を放った。その目が怒りに燃える。
「全力で磨り潰す!」
翡翠は周囲の見えているゴブリンの足元の地面を消した。
ゴブリンたちは憐れな悲鳴を上げながら、生き埋めにされる。オーガはその巨体で穴をものともせず、翡翠に向かって突撃する。だが、その前に後ろから伸びてきた無数の蔓がオーガを縛り上げる。
関節を封じ、力が籠められないように、雁字搦めに縛り上げると、オーガは身動ぎひとつできなくなる。
「銀を殴ったこと、死んで後悔しなさい!」
翡翠は手の上にひと粒の種を作り出した。それは命を苗床にする植物の種だ。種が体に張り付けば、そこから一気に発芽して、血液を全て吸い取る。吸血草と言う名の植物系魔物である。
それを投げつけようとしたとき、自分以外の魔力に気が付いた。誰かの魔法。翡翠の知らない魔法だ。
黒い炎。それは投げ槍となって翡翠へと一直線に向かってくる。オーガに気を取られていた翡翠は反応が遅れた。
(間に合わない……、直撃する!)
翡翠は自身に治癒魔法を発動し、事前に回復できるように仕込む。それで大抵のことは上手くいく。しかし、その前に槍は銀の体に突き刺さる。
黒い炎の槍が銀の固い毛皮を貫き、固い筋肉を貫通して、肺に穴を空けた。
「銀⁉ どうして……」
翡翠が叫ぶ。銀は血を吐き出しながら、力なく地面に倒れた。
「サナーティオ・ウルネル!」
翡翠は銀に駆け寄り、治癒魔法を発動する。一瞬、傷は塞がり、銀の目に光が戻るが、すぐに傷口は開き、また銀の口から血が溢れた。
「な、なんで⁉ サナーティオ・ウルネル!」
再度、治癒魔法を試みる。だが、同じことが繰り返される。銀の血は止まらず、傷口は塞がらない。
「将軍、とどめを」
杖を持ったゴブリンが言うのが見えた。他のゴブリンとは明らかに違う。魔法を使ったのはあいつだ。
攻撃しようとしたとき、背後に気配を感じた。オーガが拘束を振り破っていた。
棍棒が振り下ろされる。翡翠の再生能力はあくまでも治癒魔法に由来する。もし、頭と心臓が潰されれば、効果は発揮できない。棍棒で挽肉に変えられれば、再生は不可能だ。
オーガのこの無骨な棍棒は、翡翠を殺すためのものだと理解した。彼らは最初から翡翠を殺すための策を用意していた。
銀の尾が、振り下ろされたオーガの棍棒を受け止める。朦朧としながらも、銀は唸り声を上げて立ち上がる。血を止めようと傷口に体を押し付けていた翡翠は、突然のことに翡翠の毛皮にしがみ付くしかない。
銀は血を吐きながら立ち上がり、血の泡を吹きながら吼えた。
ゴブリンたちだけでなく、その気迫にオーガすら怯む。
「銀! ダメ、動いたら……!」
銀は止まらない。その巨体を振るって、オーガを突き飛ばし、ゴブリンの魔法使いを踏みつけると駆け出した。全速力だ。出血が止まらず、肺に血が溜まり、奇妙な泡立つ音を立てるのも構わず、銀は走った。
翡翠は駆けるときの振動で、振り落とされないようにするのが精一杯である。銀のこんな荒々しい走り方は初めてだ。
住んでいた森を抜け、平野を駆け、襲撃してきたゴブリンたちから充分に離れると、銀は足が縺れて倒れ込んだ。翡翠は投げ出され、地面に転がるが、痛みなど感じはしない。
翡翠はすぐに起き上がり、再度、治癒魔法を銀にかける。だが、それは銀に苦しみを繰り返し与えるだけであった。
銀の目から光が失われていく。
「待って、待って……! お願い。ごめんなさい、ごめんなさい。私が油断したの、私が悪いの! だから、これ以上……。銀、お願い……」
翡翠は治癒魔法を全力で使う。しかし、銀の血は止まらない。彼女の血が水面に流れ落ち、その澄んだ水を赤く染める。
「澪ちゃん、燈ちゃん、ルーちゃん……。お願い……。誰でもいいから助けて……。私をひとりにしないで……」
翡翠の叫びが、空しく湖面に響いた。その声に反応したのか、水鏡のような水面が奇妙に揺れる。
水が大きく盛り上がり、それは翡翠の声に応えた。
そこは翡翠がこの世界で初めて食事をした、精霊の住む泉。今は小さな湖ほどに大きくなった泉は、それとともに成長した精霊が住んでいた。
大きな鯉。
美しい鱗と、立派な髭を持つ。透き通る体を持つ精霊は、銀に近付いた。
精霊が大きく口を開けたので、翡翠は銀を庇って、その身を盾にする。
「精霊さま、ごめんなさい、ごめんなさい……。泉を汚してしまって……、す、すぐに……出でい……ぎます……。だから、だべないで……。おねがい、おねが……」
最後は言葉にならなかった。
精霊は一瞬、躊躇したようにその身を引くが、また大きく口を開けると、翡翠ごと銀を飲み込んだ。
◆
水の中は暗かった。
遥か上の方に月が見える。水面で歪み、それでも確かに月は見えた。
いや、あれは別の星だ。青く輝く星。翡翠が生まれた星。その表面に緑と白が、複雑な模様を描いている。
銀の血が水に溶け、翡翠に触れた。翡翠はその毛皮に顔を埋めた。
(ああ、死んだんだ、私たち。……良かった。これでもう私の使命は終わり……。最期にみんなに会いたかったな。でも、銀と一緒なら、いいか……)
翡翠がそんなことを思っていると、銀が頬を摺り寄せた。銀の目には力がある。今は苦しくはないようだ。
『翡翠。私の妹』
翡翠は驚いて顔を上げた。銀の声を初めて聞いた。翡翠は嬉しくなって、再度、翡翠の顔に抱き着いた。
「銀ちゃん、良かった。一緒にいこう」
『翡翠、私たちがした約束を覚えているか』
「約束?」
翡翠には心当たりがあり過ぎて、どれのことかと迷った。
『お前の生まれた世界に、私を連れて行ってくれるという約束だ』
「覚えてるよ。でも……、ごめん。死んじゃったら無理だね……」
『翡翠。私たちは生きている』
水中であるのに息ができるし、空には大きな生まれ故郷の星が見える。翡翠は自分が死んだとき、月に行くのだと教えられていた。だから、ここは死者の国、月なのだと思っていた。
『ここは泉の精が作り出した幻だ。私たちを繋げるために、用意してくれたのだ。泉の精は、私たちに感謝しているようだ。周りの魔物を追い払って、静かな暮らしをくれたから』
「そう……なんだ。でも、銀、この血は……」
銀の体からは血が流れている。黒い炎の槍によって、傷つけられた銀の体は治っていない。
『泉の精が助けてくれた。この傷を癒すには時間がかかるが……』
「じゃ、じゃあ、銀は死んでないんだね⁉ 死なないんだよね⁉」
『ああ。死なないよ』
「良かった……」
翡翠は銀の鼻に顔を押し付ける。
『翡翠。だけど、君とはここでお別れだ』
「え? な、なんで……。一緒にいる。嫌だ!」
翡翠は子どものように銀にしがみ付く。
『私のためにずっと人里で暮らそうとはしなかった。それは嬉しい。けれど、その時間は終わりだ。魔王が再び世界に現れた。翡翠、君には使命があるのだろう』
「使命なんてない! 私は、私は……、失敗したんだ……。私にはできない……」
六年。
自分の敗北を悟るには、充分過ぎる時間が過ぎた。
翡翠の世界は滅んだ。魔神の手によって。仲間たちも、家族の思い出も、故郷も、その全てが消えた。
世界を守ること。それだけを胸に戦い続けてきた。この世界に来て、その使命は終わりを告げたはずだった。
魔王の伝説は知っている。世界に死と破壊を齎し、世界を混沌の海に沈める。そして、世界に発展を約束するとも、滅びを与えるとも言われている。
翡翠の世界にいた魔神ヴェルディクタと似た存在だ。
『翡翠。私は世界が嫌いだった。けれど今は、君と生きた世界が好きになった。この世界を君と生きたことで好きになれた。だから、お願いだ。この世界を守ってほしい』
その言葉は翡翠に響いた。
翡翠は世界が嫌いだった。
両親と姉弟が理不尽に命を奪われ、祖母の元で暮らした。その祖母もいなくなり、翡翠は独りぼっちになってしまった。
魔法の力を得て、仲間たちと暮らすうちに、翡翠は世界が嫌いなことなど忘れてしまっていた。
「みんなと一緒にいられる、この世界が私は好き」
炎の魔法を使うレッドムーン・赤円燈にそう言われ、翡翠は雷に打たれたような気がした。
「私は普通にみんなが好き。別に世界はどうでも良い」
水の魔法を使う幻月・水鏡澪は、冷たい口調で言うが、言葉自体が暖かかった。
「私も……、私も好き。二人が好きなものが好き」
翡翠であるルナ・ヴェルデは微笑みながら言った。
「へへぇ……。贅沢!」
燈に肩を抱かれ、翡翠はよろめいて笑った。
最初は神獣ルパノクトに強要された使命だった。だがいつしか、その使命は翡翠の願いとなり、己の使命となっていた。
銀が翡翠の顔を舐める。
『翡翠。私も傷が癒えたら、一緒に戦う。そのときまでに力をつけておくんだ』
翡翠は銀の大きな目を見た。美しい瞳。信頼と友情の眼差し。
「わかったよ、銀。私は強くなる。世界を、今度こそ、救う」
『私も強くなって追いかける。学園で会おう』
水に流れが生まれ、翡翠の体は深淵に引き込まれていく。銀はその様子を静かに見守った。
◆
目を覚ますと湖畔の岸だった。
銀の流した血の跡はなく、追手の姿もない。湖はいつもと変わりなく、精霊の姿もない。
あれが夢だったとは思えない。
「わかったよ、銀。私は……」
使命を全うするときが来たのだ。
一度、敗れた。だから、次は失敗しない。絶対にできない。
翡翠は立ち上がると、歩き出した。彼女の旅が始まった。




