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溟楼綺譚  作者: 上遠野
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―――遊郭…突き出し…


確か、遊女が遊郭に初めて上がることをそう云ったはずだ。

なんでも、大夫の候補ともなれば、それは華やかな道中突き出し*を一星期(一週間)も行うのだとか。

だがそれ以外の下級遊女は、見世突き出しといって…要するに、軒先の張りの中で客を待つ列に並ぶことになる。


―――私が…遊女…?


つまり、身体を売るのだ。見知らぬ相手に。


―――…売れる、のか…?


と、思わず無意識に自分の姿を確認しそうになって、そういえば今は姿どころではなかったと慌てて思考を切り替える―――が、どうにもピンとこない。


痛みすら忘れてぐるぐると思考の渦に呑み込まれていた佐波に、今しがたその渦に佐波を引きずり込んだばかりの男は何故だか嬉しそうに言葉を続ける。


「正直、お前の処遇には俺たちも頭を悩ませていたんだ。尋問しようにも、肉体的な苦痛に強いのはさすがにもう分かっていることだし、かといって弱みを握るには、それを探る時間すら惜しい現状だろう? だが折角危ない橋を渡って臥龍城からこちらに逃がしたのだから、俺たちとしてもお前を有効に使いたいわけだ。わかるか?」


ん?と頗[すこぶ]る笑顔で問いかけられても、佐波は硬直したままだらだらと冷や汗を流すだけだ。

その様子を満足気に見下ろし、空木は続ける。


「だから、お前は餌[え]として使う事にした。まぁ、確かにお前は『死んだ事』になっているし、顔を出させるのはこちらにも危険を伴うことではあるが…だからといって大事にしまって置いたところで何のご利益があるわけでもないしな。誤摩化す方法は幾らだてある。ならばいっそ囮[おとり]として使えば、或[あるい]は結果が出せるかもしれん、と。つまりこう判断したわけだ」


言い切ると、未だに硬直から解けない佐波の表情を見て、本当に嬉しそうに笑った。


「いいな、その顔。欲を言えば、もっと絶望してくれないか。お前のそんな顔を見る為に、わざわざ俺が出向いたんだぞ? じゃなきゃこんな伝達役、もっと下っ端に任せたさ」


つん、と湿布を貼られた頬を突かれて我に返る。

血の気は引いたままだし、男の言動に逐一目眩がするが、それよりなにより今は情報が必要だった。

佐波はぐっと顎を引き、男を見上げた。


「わ、…私は、死んだ…事に?」

「そうだ、お前は『死んだ』。清州に―――軍部のお偉いさんに私刑にされた後、臥龍城の地下牢で独り寂しく死んだんだ。可哀想にな」


”可哀想”だなど一片も想っていないだろう男の声色よりも、自分が『死んだ事』になっている現状によって起こりうることの方が余程気がかりで、佐波は必死に頭の中を整理した。


―――『死んだ』―――清州―――私刑―――地下牢―――…


ずぐ、と左肩が鈍く痛み、視界が狭まる。

暴力によって植え付けられた恐怖が全身を嘗めるようにして這い回り、心臓が力の限り絞られるように痛んだ。

耐え切れずにぎゅっと目を瞑ると、否応無く一瞬で記憶が後方に飛ぶ。


―――ああ……ああ、……思い出した。…そうだ、私は、遊郭[ここ]に以織を捜しに…そして…


夜に羽撃く炎の蝶のように燃え上がる溟楼庵。

そこで少年を見つけ、怪我をして運ばれた先で以織の死を聞かされ…そして―――そして自分の犯したあの愚行。


―――…その結果が、総て今に繋がっている。


まさしく自業自得だ。むしろ、自分はあの時…清州に逆らったその時に命を落としていても仕方がなかった。

それを彼らが助け、今ここに隠してくれているのだ。謂うなれば彼らは命の恩人で……

……だが、やっぱり分からないことがある。


佐波は再び空木を見上げた。


「囮[おとり]、とは」


佐波の言葉に、彼は小さく小首を傾げ、


「うん? そこまで説明が必要か? …まぁ、お前のそれが素なのかどうかは置いておくとして、だ。聞きたいというなら、答えようか。

 ―――まず、これはお前が総主の御子を誘拐しようと画策した連中の仲間である、というのが前提だ。奴らから見れば、如何にお前が端役であろうと、遊郭ここに残した最大の痕跡には違いない。表向きお前は死んだ事になっているから、今頃奴らはわざわざ危険を冒してお前を処分しなくて済んだと胸を撫で下ろしているだろう。生きて捕らえられていれば、どのような情報が流れるか分かったものではないからな。…だが、そのお前がもし生きて遊郭に売られていたら、奴らはどうすると思う? すぐにでも接触を持とうとするか…あるいは殺そうとするか…」


語る男が何故だかとても嬉しそうなのが気になるが、それよりも佐波は自分にかけられていた嫌疑を瞬時に思い出し、色を失くした。


「私は、誘拐など、企てていません…!」

「言っただろ。お前に回り番”お得意の尋問”は時間の無駄だ。自白は期待していない。それに、もしお前が本当に無実だとしても、お前一人遊郭に売り渡したところで痛む良心も持ち合わせていないんでね。その後性病で死のうが、無理心中に巻き込まれようが…俺は一向に構わない。つまり、この作戦の良いところは、俺たちには何の不利益もないところだ」


さらりと非道な事を口にした空木は、佐波の表情を伺うようにして目を細めている。

佐波は勢いで言い募ろうとし―――……ぐっと堪えると、口を閉じ、心を落ち着かせるように震える息を吐いてから、もう一度改めて口を開いた。


「…私は、誘拐犯の仲間では、ありません。それに、私が知る限り…仕えていた豪商家も、そのような大それたことは……あの日は偶々、商談の最終日で……それで遊郭へ。…一体、私にも何が起きているのか、未だに分からないのです。だから、どの道、誘拐を企てた者達が私を捜しに来る事は」

「奴らは来るさ」


男の目が暗く輝く。


「絶対に、また現れる。目的をまだ達成していないんだ。喩えお前が本当に白だろうと、お前の仕える家が無関係であったとしても、遊郭ここには何度だって沸いて出る…胸糞悪い虫みたいな連中だ」

「目、的…」

「…その間抜けな顔も演技だとしたら、顔面を殴ってやりたいところだ」


とても女子供に対する台詞じゃない言葉を呟き、男は酷薄に嗤う。


「総主の御子が誘拐されかけたのは、これが初めてじゃない。今回が一番派手だったが…少なくとも、片手じゃ足りないくらい未遂は起こっている」


―――片手じゃ足りない…?


それは、…そんなにも、総主の御子が狙われているということなのか。

確かに、皇国府にも覚え目出度き遊郭総主の子息ともなれば、金欲しさにそのような凶行をする者も出て来るかもしれない。だが、元来強固であると聞く遊郭街の警護を相手取るには、相当な力と知恵と金が必要だ。

少なくとも、ただの破落戸[ごろつき]や山賊崩れには到底不可能…


それを思いついた瞬間、ふと、佐波は眉をひそめた。


―――それとも、目的は”金”ではないのか…?


「俺たちもそろそろ、我慢の限界でね。害虫は巣から根こそぎ始末しなきゃ駄目だと、そう判断した」


男の言葉に思考が現実へと引き戻され、視界の焦点を合わせた佐波はギョッとした。

目前に男の顔。今にも触れそうな距離で、男は楽しそうに嗤った。


「だからお前は、奴らを巣穴から呼び寄せる餌だ。美味しそうに着飾って、その身を晒せ。働き次第では、恩情もかけてやれるかもしれん」


―――つまり、私は選択権どころか、生殺与奪の権まで彼らに握られているということか…―――


すぅ、と波が引くように表情の消えた佐波を見下ろして、空木は至極満足そうに頷く。


「そう、その顔が見たかった。泣き喚かれるのは好きじゃないが、静かに死んでいく心を見るのは楽しい。特にお前には、俺は少しばかり怒っているのでね」


空木の堅い手が佐波の頬を撫でる。


「心外そうな顔だな? だがお前が俺を今現在進行形で苛立たせているのは本当だ。理由に思い当たる節はないか?―――例えば、俺の同僚の粘着質で面倒な女のことで」


優しい手の動きとは相反する男の言葉に、佐波は己が獣に押さえつけられた卑小な動物であるような錯覚を覚えた。

だが今は恐怖を心の隅に追いやり、空木との会話に集中する。

”粘着質”だとか”面倒”というのは分からないが、同僚の女、という言葉から佐波が連想出来たのは、たった一人だ。


「…同僚…とは、サツキ様の、こと」

「うん? 他にあるのか?」


甘く耳元で囁かれて、佐波は男の目の中に闇を見た。

男の手の平がそっと佐波の視界を塞ぎ、耳に息を吹き込む程の近さで、優しく語る。


「あいつはアレでも珍しく見所のある女でね。代わりを見つけるのは難儀だ。…お前に奪われるのは、面白くない」

「うば、われる…?」

「無自覚か? 尚のこと性質[たち]が悪いな。俺の見立てでは、お前が臥龍城の中庭で”奪った”のは彼奴[あいつ]一人ではないようだが……一つ、忠告しておいてやろう」


途中独り言のように呟き、そして再び優し気に囁いた。


「喩え無自覚だとしてもお前のその厄介な体質は、周りを巻き込み、やがてお前自身をも殺すだろう。俺はそうやって死んだ男を、一人知っている。男は、ある国の王だった」


遠い国の御伽噺[おとぎばなし]を語る様に、空木は続ける。


「男は民を従え、とある国に真っ向から立ち向かい…そして国諸共滅びた。ほんの、数十年前の話だ」



———『ほんの、数十年前の話です』———



既視感。一瞬目の前に遠い日の記憶が過って、佐波は瞬いた。



知っている。その話を。

あれは確か、まだ佐波が貴族の子女であった頃。

東から訪れた異国の吟遊詩人が唄う、悲しい物語に耳を澄ませていた佐波に、以織が囁いたのだ。



『皇国[このくに]の者は知らないのです。…いえ、知らされないのでしょう。小さな国の存亡など、気にかける程のことではない。我が国こそ唯一の中央国家なりと、誰しもが教わって育つのですから』



佐波より3つだけ年上の少年は、けれどその年齢より遥かに博識だった。

貴族子女としての最低限の教育しか施されなかった佐波は、空いた時間を以織と過ごし、多くを学んだ。

その事に対して、今の今まで何も疑問に思わなかったのだが———



———でも、じゃあ以織は、どうやってそれらを学んだのだろう…?



空木が軽くため息をついて、佐波の逸れかけた思考が再び引き戻される。

途端に押さえ込んでいた身体の怠さや鈍痛が鮮烈にこみ上げて、吐き気がした。

どうやらそろそろ限界らしい。思考も記憶も時間軸を彷徨い、余計なことばかりに気が削がれる。

自分でも自分の身体の状態がまだ把握出来ていないことに強い不安を覚えながら、佐波は気力を振り絞り、男を見上げた。


視線が交わった瞬間、空木は目を細め、ふと肩から力を抜くと「…厄介なことに」と呆れたように言葉を続ける。


「お前らのような人種は絶望の中でこそ強く輝く。暗澹[あんたん]たる海原を渡る舟の松明が、火の粉を振りまきながら燃え上がるようにな。それはお前らにとっても、光に焦がれて火に飛び込む奴らにも不幸なことだ」


まるで一つの時代の終焉を見て来たかのような確固たる口振りで男は言い、そして冷たくも真摯な視線で佐波を見ると、噛み締めるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「死にたくなければ―――”死なせたくなければ”、お前は、己をよく自覚し、自制するべきだ」






*『道中突き出し』…花魁道中。姉女郎に付き添われて馴染みの店に挨拶に回ったり、馴染みの客に挨拶をして回る遊郭デビューのこと。


空木が一人でSを発揮していますが、佐波はサツキとは違うので若干やり難そう。


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