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溟楼綺譚  作者: 上遠野
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人は臨終の前に呼吸が変わるという。

佐波は霞んでいく意識の中で、徐々に自分の呼吸が苦し気になっていくのに気付いていた。


―――ああ、まずいな…


体中がバラバラになりそうなほど痛み、冷水に浸かっているような寒気と息苦しさで、意識を保っていることが難しくなってきていた。

今まで何度か死ぬ程の恐怖や危機を体感したが、ここまで”死”に近づいたのは初めてだ。

瞑った瞼の裏に、安寧の常闇が蠢く。初めて見るはずのそれは、けれど何故だか妙に懐かしい。

それは佐波がこの世に生まれ来る前、確かに総てを預けていた原始の闇の揺篭。


―――怖い…


ようやくこの身体に馴染んだ魂が、切り離される恐怖に怯えている。

震える身体を掻き抱く力も、もはや残っては居ない。

どうにかして苦しみを逃したくて、下顎を動かすようにして呼吸した。


―――私は…


私は、愚か者だ。約束一つ守れない、それどころか周りの人間を巻き込んで揉め事を起こし、そのツケを他人に取らせてしまうような、最悪の人間。


―――でも、許せなかった…


どうしても、あの男――清州の言葉が、我慢ならなかった。

遊女を畜生のように扱うあの男に、もし以織が触られていたらと思うと、目の前が真っ黒に塗りつぶされ、我を忘れた。

あのような権力者に逆らうなど、少しでも世の中を知っていれば、絶対にしないであろう浅はかで愚かな行為だ。

喩え内心でどう思っていようが、表面では頭を沈め、平身して仕えるべき相手。

その相手に、真っ向から歯向かった結果が、地下牢で一人臨終を迎えようとしている自分に重なっている。

しかもそのような人間に成り果てた理由が、己自身が引き起こしたことによる自暴自棄だというのだから、弁解の余地もない。

自嘲しようにも、もう表情筋一つ動かせない。代わりに、瞑ったままの目の端から一筋、血の交じった涙が溢れた。


―――以織…


会いたかった。

ただ、会いたかった。

死に瀕している今でさえ、こんなにも寂しい。

以織を一人で逝かせてしまった癖に、自分が一人で逝くことに堪らない恐怖を感じている。

それはきっと、冥府でも以織と再会することが叶わないだろうことを察しているからだ。


自分は、天津国には逝けない。

それは、用心棒としての仕事の最中、生まれて初めて人を斬った時からずっと考えてきたことだ。

相手は山賊だった。積み荷と仲間を守るためには仕方がなかった。だから斬った。

でも、その数ヶ月後、同じ場所で再び現れた山賊は、以前佐波が殺した男の息子だった。

佐波は、苦戦しながらも最後はその息子も殺した。

彼は「父を返せ」と泣きながら死んでいった。

―――後から聞いた話、彼らは山賊ではなく、貧困と重税に喘ぐ村の人々だった。


それからだ。佐波が”命”を考える様になったのは。

自分が斬り捨てた命の重さを知り、取り返しがつかないことを知ってようやく、佐波は己の仕出かしたことの残酷さを知った。

己の命を守るため。仲間の命を守るため。そういう名目の為に刀を抜けば、自己防衛は出来る。殺した命を”仕方ない”と斬り捨てることが出来る。

でも、それじゃ駄目だ。佐波は仲間が同じ理由で誰かに殺されても、きっと納得できない。間違いなく相手を憎み、その憎悪は激しい怒りとして相手に振り下ろされるだろう。

殺戮の連鎖を止めたければ、どちらか一方を根絶やしにするしかない。だがそれも新たな連鎖を生むだけ。

命を奪うということは、そういう無間地獄を作ることに他ならない。

佐波はその地獄を作った。その地獄で今も苦しんでいるのは、彼らの残された家族。


こんな自分がのうのうと天津国に旅立てるはずもなければ、先に逝っている以織と再会できるはずもない。

冥府で裁かれた魂は、その業[ごう]の比重で天津国での再生の道と、獄洛[ごくらく]という冥府の深海への道に分たれるときく。

獄洛に沈んだ魂は、そこで数々の苦痛を味わい、身を削って汚れを落とした魂だけが、再び海面…天津国を目指せる。

以織を追って逝けるまでに、一体どれほどの時間をその深海で過ごすことになるか…想像するのも酷く恐ろしい。


———…それとも、これで良かったのだろうか…


会いたい、会いたいと願いながら、一方で以織に会うのが同じくらい怖かった。

彼の知る”佐波”は、篭の中で何も知らず、また知らされることなく育った無垢な存在であるはず。

美しくもなければ、知性があるわけでもない。女だというのに、それらしいことは殆ど出来ない、見窄[みすぼ]らしい自分。

もし再会出来たとしても、5年振りに会う以織は、そんな成長を遂げた自分の姿を見てどう思っただろう。

以織の心根の優しさや清廉さを、佐波は誰より知っている気でいる。

どのような生活を送ろうと、どのように蔑ろの扱いを受けようと、以織の心根自体が歪む事はきっとない。

泥水の中でも、珠が珠であるように。

佐波が以織に出会った頃には既に、彼は完成された個を持っていたからだ。

でも、より多くのものを見聞きし成長した彼が、今の佐波を知って、昔の様に接してくれる保証はどこにもなかった。

…否、確実に”昔の様な”関係には、どう望んでも戻れまい。

佐波はもう貴族の子女ではなく、以織もまた、使用人の子ではない。

一度手放してしまった縁を再度繋ぐことが、どれほど難しいことか…この5年で骨身に染みている。


———ならばいっそ、この記憶を抱いたまま、獄洛の海に沈む方がいいのかもしれない。


…自分が彼の為に出来る事は、本当にもう何も無い。

美しく優しい記憶を抱いて、苦悶の海底で、彼の次なる生での幸福を全霊で祈る。

それすら、今の自分に許されるかどうか。


ふと、昔以織が冥府を信じないと言っていた姿が記憶を掠った。

あの時は彼の言葉の意味が理解出来なかったが———今なら解る。

きっと彼は、あの頃から既に知っていたのだ。

関係が永遠でないことを。終わりが訪れた後に襲い来る、絶対的な寂しさを。


ぐわん、と、視えてもいない世界が歪んだ。


―――ああ、…駄目だ。…もう…


牢の外で聴こえていたはずの看守の声が聞こえない。どこからか落ちて響いていた水音も。

その代わりに耳鳴りが酷く鳴る。いや、これは耳鳴りではない。”静寂”という音だ。

苦しいが、不思議と身体が軽くなるような錯覚。

感覚から死んでいっているのだろうか、と考えた頭も鈍っているのだろう。それを恐怖に感じることはない。

あるのはただ、細い息と、少しの思考だ。


―――以織…


ぶつ切りになる思考で、佐波は最期に以織のことを想った。


以織も、死ぬ時は怖かっただろう。一人で、寂しかっただろう。

生きて、やりたいことがあっただろう。

もしかしたら、遊郭に居る間に好いた人がいたかもしれない。

そんな人を残して死んでいくのは―――本当に辛かっただろう。

帰る場所も、何も持っていない自分でさえ辛いのだ。

恥知らずにも、生きたいと思っているのだ。


―――以織、以織…


ごめんなさい。ごめんなさい。

私は最期まで、自分の為にしか生きられなかった。

あなたが私にしてくれたことの一つも恩を返せなかった。

会わせる顔がない。恥ずかしくて、情けなくて、―――悔しい。



———…でも…わたし、は…あな、た………に………



常闇の揺り篭に抱かれる。

意識が”静寂”と共にゆっくりと身体から解け―――



―――佐波は、ふつ、と呼吸を止めた。
























どん! という衝撃を胸に受け、空気の固まりを無理矢理に吐き出された。

その痛みに「はぁ!」と息を吸い込み、再び吐き出す。

何事が起きているのかも分からぬまま、瞬時に沸き上がった激しい嘔吐感と体中の痛みに、佐波は苦悶の声を上げた。


「――—戻ったか」


水の中から音を聞いているような、奇妙な音声だった。

遠くから呼びかけられているような、近くで囁かれているような、曖昧模糊とした声に反応して開こうとした目に、暗い何かが覆いかぶさる。


「閉じていろ。瞼が切れている。目に血が入るぞ」


端的に告げる妙に陰鬱な声が、佐波の朦朧とした記憶を揺らす。


―――だ、れ…?


「……ぁ………」


状況が全く分らず、その恐怖から声を発しようとしたが、舌も上手く回らない。

それどころか力の入らない舌で潰れかかった気道に、何かが乱暴に突っ込まれて嘔吐[えず]いた。


「気道を確保する管を入れた。今は応急の手当しか出来ない。我慢してくれ」


―――手、当…?


何がなんだか分からない。分かるのは、今もの凄く、吐きたいということだけ―――


「吐くときは言え。吐瀉物で窒息なんて笑えんぞ」

「は、ぐっ」


言われた先から猛烈な吐き気を催して身体を跳ねさせると、”誰か”は手際よく管を引き抜き、佐波の身体を横向きに倒した。


「吐けるだけ吐いたら、また管を入れるからな」


―――な、何が起こって、いる…?


胃の中を全て吐き出しながら、佐波は混乱していた。


―――じ、自分は、ええと………ええっと……………あ、れ………?


朦朧とした頭には、どのような情景も映し出されない。

空っぽだ。恐ろしいほど、何もない。

ぞっと背筋を通った寒気は、全身の痛みと吐き気で霧散される。

”誰か”の言葉の通り吐けるだけ吐くと、ひと呼吸の後に、口の端から冷たい物が流れて来た。


「口の中を漱[すす]ぐだけだ。吐き出せるか?お前の身体はまだ水も受け入れられないからな」

「う、げほ…っ」


吐き出すというより、喘ぐ口の端から勝手に流れ出た水を吸い込んだ気管支が、強烈に痛んだ。

どうやったって逃れられない苦痛にガクガク震える佐波の額の汗を布で拭いながら”誰か”は「ところで」と、不思議な親しみすら感じさせる陰鬱な声で続けた。


「死にかけているところ悪いが―――お前には今から、脱獄してもらう」








一度死んで脱獄するヒロインって…

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