【1】
アンヌの朝の日課は、4年前から変わっていない。
天使に、会いに行くのだ。
「こらっ、アンヌ様!」
寝間着姿のまま部屋を飛び出したアンヌに、侍女がお小言を溢すけど、その口調はどこか"仕方ないなぁ"という諦めを含んでいた。廊下ですれ違う使用人たちも、本来なら貴族の令嬢らしからぬアンヌの振る舞いを叱るどころか、柔らかいまなざしでアンヌを見送っている。
道行く使用人たちに挨拶をしながら、アンヌはひとつの扉にたどり着いた。子供のアンヌには少しだけ重たい扉も、今ばかりは宙を舞う羽根のように重さを感じない。
よいしょと一押しで扉を開け、体を素早く滑り込ませた。ここで、一息つく。そう遠い距離からやって来たわけではないのに、期待からアンヌの息は少し弾んでいた。
深呼吸して、アンヌは部屋を見渡した。すぐ、お目当てのものが見つかる。
天使だ、とアンヌは毎朝思っている。
朝日に煌めく金髪は、上質な絹でできているかのような光沢を持ち、実際触ると滑らかな手触りだ。陶器のごとき白いかんばせには、目鼻が丁寧に作られた人形のように完璧に配置され、神々しさすら放っている。ただし、人形ではない証拠に、子供らしくまろい頬はうっすらと赤く色づき、翠玉の瞳は、瞼の裏に隠れている。
アンヌの天使は、朝に弱いのだ。
今日も天使は可愛らしい、という事実を確認して、アンヌの口からくふふと満足気な笑いがもれた。思いの外大きく聞こえたそれに、アンヌは慌てて口元を押さえると、そろりとベッドに忍び寄る。天使の耳元に口を寄せると、精一杯の優しい声を出して、天使の肩を揺すった。
「ノエル、起きて。朝よ。姉様に、ノエルの綺麗なお顔を見せて」
声をかけること5回、揺すること4回で、ようやく天使──ノエルはかたく閉ざされていた瞼を開いた。ぱちりぱちりと何度かまばたきが繰り返される。徐々に覚醒していくノエルの横で、アンヌはじっと待つ。ノエルの瞳に、アンヌの姿が映った瞬間、とっておきの笑顔を見せるためだ。
ノエルの瞼に半分隠された翠玉が、アンヌをとらえた。
「…………姉様?」
とろりとした瞳はまだ半分ほど眠りの世界にいたが、アンヌはにっこりと笑った。大切な天使の目に映る自分は、いつでもとびっきり優しい"姉様"でいたいから。
「おはよう、ノエル」
ノエルがアンヌの義妹になったのは、今から4年前、アンヌが8歳、ノエルが6歳の時だ。ノエルは実の両親であるネフェン伯爵夫妻との旅行中、事故にあい、たった一人だけ助かった。ノエルの父とアンヌの父は学生時代からの友人で、アンヌの父チェスター・ウェスピナ伯爵は、身寄りのないノエルを不憫に思い、養子として引き取ることにした。
両親からはじめて"兄弟ができる"と聞いたとき、アンヌは不安だった。アンヌは、どちらかといえば大人しく、内気な性格で、新しくやってくる兄弟と仲良くできるか、自信がなかった。ノエルの事情も、ある程度耳にしていたが、大好きな両親が急にいなくなる、と想像しただけで悲しくなり、実際少し泣いてしまった。そんな、心に悲しみを持っている子と、どう接したら良いのだろう。アンヌは、自分が相手を思いやれるほど大人でも、励ませるほど陽気ではないことを、子供心ながらに悟っていた。しかしまさか嫌だとは言えず、悩みながら顔合わせの日を迎えたのだった。
穏やかな笑みをたたえる母カトレアとは逆に、体を強ばらせながらアンヌが待っていると、ついにその時はやって来た。
ウェスピナ伯爵に連れられ、されるがまま、といった調子で母子の前に姿を現した幼子に、アンヌは絶句した。
実のところ今、アンヌはその時ノエルがどんな表情をしていただとか、どんな雰囲気だったとか、まるで覚えていない。ノエルのことなら何でも覚えていたいのに、ノエルが笑った時や嬉しそうな瞬間を見る度、アンヌの頭の中のノエル像は、明るいノエルの姿に上書きされてしまうのだ。
女の子にしては短い金髪は、日の光に照らされて綺麗な天使の輪を作っていた。アンヌよりやや低い背と華奢な肢体は儚さを感じさせながらも、それが逆に魅力的に思え、見る者の目を離さない。翠玉の目は一度連れていってもらった王宮に飾ってあったエメラルドのような深みのある色合いで、吸い込まれそうな美しさだった。
アンヌは雷に撃たれたかのように鮮烈に、確信した。
自分の目の前にいるのは、天使だと。
「……アンヌ?」
普段は引っ込み思案な娘が、ふらりと夢遊病者のような足取りで"兄弟"の前に出たかと思えば、じっくり数分は無言で眺めている。異様な雰囲気に、カトレアが思わず名前を呼ぶと、アンヌの体はぴくりと震えた。おもむろに、桃色の唇がゆるりと開く。
「……あなたが、私の兄弟になってくれるの?」
「……」
アンヌの問いかけに無言を貫くノエルをかばうように、ウェスピナ伯爵が言い添えた。
「そうだよ。名前はノエルというんだ。ノエル、この子は私たちの娘のアンヌだ。君のお姉さんになるんだよ」
ほら、とウェスピナ伯爵に促され、ノエルはようやく口を開いた。
「……ノエルです。よろしくお願いします、姉様」
客観的に、それは愛想の欠片もない、堅い声音だった。ウェスピナ伯爵夫妻は、年端もいかない彼がそう振る舞う原因に思いを巡らせ、痛ましげな顔になったが、アンヌは違う。
アンヌはまさに、天啓を受けた聖人のごとく、感極まっていた。
天使が、しゃべった。
見た目に相応しく、高く澄んだ声に、アンヌは感動した。
しかもその清らかな声で、天使はアンヌを"姉様"と呼んだ。
この天使は、アンヌの"兄弟"になってくれるのだ。
「ア、アンヌ?」
戸惑い混じりにアンヌを呼んだのは、父か母か、それとも両方か。アンヌにとってそれは著しく些細なことであり、気付けば天使の前に跪いていた。感激のあまり、頬にはほろほろと熱い涙が伝っている。無表情を貫いていた天使も流石に気圧されたようで、翠玉の瞳を真ん丸に開いてアンヌを凝視していた。
ああ、とアンヌの口から感嘆のため息がもれる。天使の両手をぎゅっと握りしめて、アンヌは立ち上がった。若干天使の腰が引けているが、アンヌは気付いていない。
「天使──ノエルというのね?」
「え? ……は、はい」
「ノエル……」
噛み締めるように"兄弟"の名前を口にし、アンヌは微笑んだ。
「私はアンヌ。あなたが私の義妹になってくれるなんて、最高だわ!」
「は?」
「え?」
ノエルと両親の異口同音に上がった疑問符は、天使に魅了されたアンヌの耳に届くことはなかった。アンヌは感情の高ぶるまま、天使に抱きつき、くるくると回る。目を回した天使を見て、我に返った両親に止められるまでアンヌははしゃぎまわった。ぱっちりと瞳を見開いた天使と目があって、アンヌは嬉しくてほほえむ。天使はぱちぱちと瞬きして、アンヌを不思議な物を見るような目で見ていたが、アンヌの手を振り払ったりはしなかった。予想外の出来事はあったが、子供たちが思いの外早く打ち解けそうだと胸を撫で下ろしたウェスピナ伯爵夫妻は、それに気をとられて、すっかり忘れていた。
──こうして、アンヌの勘違いは訂正されないまま、現在に至る。
「進学の準備はできているかい?」
朝食の席で、何気なくウェスピナ伯爵はたずねた。共に席についていたアンヌは、首を傾げる。進学? 誰が? いつ? どこに? 疑問符を頭に浮かべるアンヌの隣で、上品に食事をしていたノエルが答えた。
「はい、父様」
「そうか。何なら、うちから気心知れた使用人を何人かつけようか? その方が安心だろう?」
「いえ、向こうでは寮に入るので大丈夫です。……というか父様、私は前にも断りましたよ」
ノエルの指摘に、伯爵は快活に笑った。
「おや、そうだったかな? すまんすまん、あまりにお前が心配でな」
「ちょ、ちょっと待ってノエル、父様!」
「姉様?」
「何だい、アンヌ?」
「し、進学って──ノエルは、学院に入るの?」
呆然と疑問を口にしたアンヌに、伯爵とノエルの視線が一瞬交錯する。
「何だ、まだ言ってなかったのか?」
「姉様が、寂しがると思って……」
「当然よ!」
即答しながらも、アンヌは頭では理解していた。今、アンヌとノエルは二人とも同じ家庭教師に習っているが、二歳差という年の差があるにも関わらず、内容は同一のもの──教科によってはアンヌより難易度の高いものをノエルはこなしていた。今までは天使は頭も良いのね、すごいわと素直に喜んでいたが、そんな能天気なことを思っている場合じゃない。ノエルが学院に入る──すなわち、朝の日課諸々ができないばかりか、下手すると会えない日があるかもしれない。
天使の顔を見れない日があるなんて──と項垂れるアンヌに、母カトレアが付け加えた。
「アンヌ、ノエルは王都の学院に入るのですから、これを機にあなたも少しは兄弟離れなさいな」
「え、ノエルは王都の学院に通うのですか!?」
ウェスピナの領地から王都へはどんなに急いだとしても数日はかかってしまう。つまり、どう頑張ってもアンヌは天使に毎日会えなくなってしまうのだ。
「そんな……」
うちひしがれるアンヌに、義姉の様子を窺いながらノエルが声をかけてきた。
「姉様」
「ノエル」
情けなく眉尻を下げているアンヌに、ノエルはおずおずと笑いかけた。ああ天使かわいい。つい先程まで絶望の縁に立っていたかのようなアンヌの表情が、かわいい義妹の笑顔ひとつでとろけた。
「姉様が私を大事に思ってくださるのは知っています。……でも、いえ、だからこそ、私は学院でしっかり勉学を修めて、姉様に恥じないきちんとした人間になりたいのです」
「ノエルっ! なんて立派なの!」
アンヌは思い余ってノエルを抱き締めた。こら食事中にみっともないですよ、という母の小言も今だけは聞こえない振りをする。
こんな天使に切々と訴えられて万事許さない人がいるだろうか。いや、いまい。
ノエルに会えなくなるのは寂しいけれど。
アンヌは涙を飲んでノエルを送り出すことにした。
「姉様、苦しいです」
とんとんとノエルに肩を控えめに叩かれて、ようやくアンヌはノエルを放した。僅かに染まっている天使のまろい頬をかわいらしく思いながら、アンヌは告げる。
「分かったわノエル。でも、お願いがあるの」
「何でしょうか?」
「手紙を書いてちょうだい」
「はい、分かりました」
「あと、いついかなる時のノエルも見逃したくないから、手紙には必ず姿絵を入れてね。私は毎日手紙を書くから。ああそれに、休暇には絶対帰ってきてね!」
「……えっと……」
「アンヌ、ノエルを困らせないの」
母に注意されながらも、文通(もちろん毎日ではない)の約束を取り付けたアンヌは、泣く泣くノエルを見送ったのだった。