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狐の小噺(短編集)  作者: ゆうがお
4/8

樹海の社、夏の空


「ィヤァッ!」

霧深い樹海の奥、そよ風のみが静けさを乱す場所にて、とある少年は気合の一撃を放つ。

遅れてばさり、という音が木々の間をこだまする。

少年は、自分がいま斬りおとした藁束を見てふぅっ、と息を吐いた。運動によって温まった肺から漏れ出る息は樹海を流れる冷たい気流に押し流され、そして新鮮な冷えた空気が体の中にすぅっと入ってくる。マイナスイオンとも呼ばれる不思議な森林の空気が肺の中で躍動するかのようで、少年は再びはっ、と息をついた。


「よっし、いい感じ」


その少年は一見十二、十三くらいの見た目で、顔つきには幼さが残る。髪は墨で染めたかのような黒だ。目は蒼、よりは暗い紺に近い色である。体つきは華奢ではあるが、それでも筋肉がしっかりとついていることが見て取れる。白い手には暗い木の持ち手と青く光るようにも見える美しい刃が先についた薙刀を持っている。それは見る目のある人でなくても見れば相当な業物であるということが分かるような鋭くとがった、そして美しい流線型を持った薙刀であった。

そしてなんといっても、頭からは黒くとがった耳が、そして尻からは同じく黒く染まった尻尾がついている。


勿論、コスプレなどではない。


黒字に青い線でシンプルな模様のつけられた巫女服に身を包んだ少年は、暗く空気の澄んだ修練場の地面をさっさっさ、と床を竹ぼうきで掃くと、飛び石の示す小道をたどりながら開けた方へと向かう。高くそびえる木々は真夏の太陽の光を遮り、静かな風が樹海に涼しさを保っている。


霧の中の小道をまっすぐ進めば、そこには神社がある。


彼は日影が途切れることに少しうんざりとした顔をしながら、表側へと回る。そこには先ほどの彼のように木陰で石畳を竹箒で掃いていた少女に声をかけた。

その少女は、やはりというべきか、彼と同じように耳があり、そして尻尾がある。こちらは彼に対照的な白色だ。瞳は紅で、時折ちろちろと陽の光が輝く。そして日差しにうんざりした顔をそのまま彼の方へと向けてきた。


「暑い」彼女は一言文句を言った。「ひたすらに暑いわ」

確かにただひたすらに暑かった。夏の日差しはやたらさんさんと降り注ぎ、確実に体力を奪っていく。彼は空を見上げると、「ありゃ」と一言こぼした。


「あれ、やばいな」

視線の先にはもくもくと煙立つような雲の群れがこちらへと流れてきているのが分かる。それは明らかに大量の水分をはらんでいて、今にも降り出しそうであった。

彼女の方も「やばいね」と一言答えると、「洗濯物を取り込んでくるね」と残して、裏の方へと回っていった。彼の方は、


「うーん、なんて言うか、やっぱりちょっと抜けてるよな」


と、放置された竹箒を拾い上げながらこぼした。




やがて、大粒の雨がぱらぱらと降り始め、落ち葉を流し、焼け付く様な熱い石畳を冷やし、乾いた土に水分を与えた。山の木々は一層瑞々しく葉を広げ、動物達は思い思いにひと時の恵みを楽しんでいた。

そして、あの二匹の狐は、何時ものように、樹海の中の社でひと時を過ごしていた。





曰く、樹海の奥深くに、霧に包まれ誰も知らない社があると。



曰く、そこには化生の者が住んでいて、幸運を齎し、不幸を退けてくれると。



曰く、それはこう呼ばれていると。





「樹海の社」


壱 樹海の社、夏の空






「あつぅい…」

座っているだけで汗が滲むような陽気だ。石畳はすでに夏の砂浜のように熱くなっていて、太陽光を照り返している。風は辛うじてあるといった程度で汗を飛ばすには無さすぎた。その上、あると言ってももはや熱風で、寧ろ汗を促進するものだった。


黒い方の狐ー黒狐は、白地に「がんばる」とやたら達筆な字で描かれた丁シャツに紺色の短パンを履いて、扇風機の前で伸びていた。ぶぅぅぅぅ、という扇風機のモーター音は近くにいる黒狐にこそ聞こえていたが、鳴り止まない蝉の音のせいでそれも掻き消されかけていた。黒狐には蝉の音すらも暑かった。音波が熱波として鼓膜から脳を過熱させていた。そうとしか言えなかった。時折傍の卓袱台の上に乗った黒狐曰く「ロックの麦茶」をちびちびと飲み(呑み)つつ、何をするまでもなくただ年代物の扇風機に当たっていた。思い立ったように横の扇風機に向き直ると、


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」


と真夏の風物詩を部屋に響かせた。もはやそれは競争であった。蝉の音とモーター音と風物詩の大合奏であった。黒狐の頭の中で蝉がバイオリンを弾き始めた。風鈴がちろりとアクセントを加えた。黒狐は満足して、指揮のように腕を振り始めた。


白い方ー白狐は、その様子に呆れながら、こちらも脱力していた。赤いチェックのスカートに白地のプリント丁シャツを着ていた。こちらもやはりやたら達筆な字で「夢をください」と描かれていた。スカートの裾の先からは庭のトマトの苗のようにしおらしくなった白い尻尾がだらんと伸びていて、額には山のような汗があった。白狐は手元のタオルでその汗を拭うと、そのまま無意識に左腕に手が伸び、


「って、虫に刺されてる…」


と腕にできた赤い()()()を見て言った。白狐は気怠げにそこから立ち上がると、痒み止めを取りに行くべく縁側を歩き始めー


「わぷっ!」


ーる前に、すてんと転んだ。どたんとやけに大きな音が辺りに響くと、一瞬蝉の音が小さくなりその余韻を強調した。後に残ったのは、尻を上に突き出すような体勢でなんとも言えない顔をしている白狐と、手を四拍子の三つ目の状態で空中に掲げたままそれを眺めている黒狐だけであった。蝉は急に鳴くのをやめて、奇妙な静寂が森に降りた。扇風機のモーター音のみが辺りに響き渡る。


「ぷっ」


黒狐が俄かに笑い出すと、それに呼応するかのように世界が再び音を取り戻した。白狐は蝉のせいか、はたまた恥ずかしさからか体がひどく暑く感じた。それを振り払うようにすっくと立ち上がると、どたどたと廊下を走り出した。黒狐はその様子を(暑くねぇのかな)と呆れたように見送った。蝉は相変わらず酷くうるさく鼓膜を叩いていた。ふと黒狐が硝子の窓から空を見上げると、真白い雲がもくもくと遠くに立ち上っていた。それをしばらく無心で眺めて、そしてふたたび扇風機に向き直った。そしてふたたび、風物詩が蝉の音に混ざった。



夏が、来ていた。




* * *



「買い物に行かない?」


昼下がり、氷水に浸された素麺の入ったボウルを挟んで白狐は切り出した。黒狐はずるずると竹箸で素麺をたぐると、そして「嫌」と一言返した。そして素麺をボウルから一口分ほど取り出すと、つゆの中に浸して軽くなじませて、再びたぐった。今日の丁シャツには「ぶるーはわい」と青地に白文字でプリントされていた。ブルーハワイだから青なのだろうか。

白狐は「なんで?」と黒狐に聞くと、自らも素麺を取り分けてつゆの中に泳がせた。白狐は「YASAI」という文字がいちごのイラストの上にプリントアウトされたものを着ていた。苺は白狐の好物だったが、野菜とは認めていなかった。彼女にとってそれが偽果であろうが果物なのである。それは譲れぬ事実であった。


「暑いからに決まってるじゃん」


と黒狐は次の素麺を取り分けながら言った。それは確かに事実であった。気温は三十度、湿度は六十パーセント、降水確率三十パーセント、うだるような熱気であった。そんな中を買い物に行く程黒狐には気力がなかった。

白狐はたはー、と溜息をわざとらしげにつくと、少々むっとした顔の黒狐に対して


「アイス、いらないの?」


と言った。黒狐はむぅ、と唇を尖らせて「欲しいけど」と呟く。からん、と硝子のカップの中の氷が音を立てた。


「そろそろ、冷蔵庫の中身も少なくなってきているのよ」白狐は言う。「素麺もこれが最後、スライスチーズは今朝無くなったし。それに大蒜(にんにく)もそろそろ切れるわね。あとは…食べ物じゃないけど洗剤を買い足したいかな」斜め上を向いた紅玉のような紅い瞳がころころと回った。


しかし、黒狐は「俺は嫌だぞ」と返した。「何より、シロは嫌じゃないのか?この陽気だぞ」、と。見れば庭のトマトは柳のように萎れていて、(あとで水をやらなきゃなぁ)、と黒狐は思った。


「へぇ、心配してくれてるんだ」と、白狐はにまりと笑う。「それじゃあ、私一人じゃ心配だからついてきてほしいんだけど」白狐はからからんと麦茶の入ったコップを右手で弄ぶ。黒狐はそれをへん、と一つ息をついて「本人が言っちゃあ駄目だろ」と返した。「それもそうね」と白狐はつぶやいた。


しばらく、扇風機のぶぅん、というモーター音とからんころんという氷の音、そして素麺をずずっとすする音だけが響いていた。


黒狐は徐に箸を箸置きの上に置くと、「わかった、グレープのカップアイスと小豆バーで手を打とう」とやっと答えた。白狐はにこりと笑うと「了解。ありがと」と返した。黒狐はへっ、と笑うと「ごちそうさま」といって席を立った。白狐も同じように「ごちそうさま」といってキッチンへと向かった。



* * *



アスファルトは午後の日差しを十分に吸収して鉄板のように熱くなり、陽炎がいたるところで揺れている。相変わらず蝉はひたすらにその暑苦しさをアピールし、街路樹は必死に垂れ下がる自らの葉を支えていた。

通りゆく車は色は違えど一様に太陽の光を反射し眩しく輝き、学校帰りと思われる学生が自転車で車道端を気怠げに漕いでいく。交通整理の警備員は汗を拭き拭き車を通し、親子連れは木陰でバスを待っている。

白狐は白い日傘を右手に持ち、黒狐はそのすぐ後ろを、ふたりともほとほと疲れたような顔で歩いていた。夏の日差しはもはや暴力的で、目的のスーパーマーケットが見えてくる頃には汗もだくだくであった。


ぶいぃん、と自動ドアが開く。途端に冷気が二人の肌を撫ぜて思わず鳥肌が腕を覆った。

「生き返るんだけど、ちょっと心臓に悪そうよね」と白狐。黒狐も「そうだな」と肯定の意を示す。


ふたりは某所のスーパーへとやってきていた。四、五メートルほどあろうかという天井にはむき出しの管が縦横無尽に走り、そして規則正しく等間隔に上から白いポールで吊り下げられた蛍光灯が店内を明るく照らしている。見渡せば様々な野菜がかごの中に並び、奥の方の棚にはお菓子などが見える、そんな普通のスーパーだ。真夏の昼ということもあって客はそう多くはなかった。


二人はタオルで汗を一通り拭うと、鈍色のカートを引っ張り出しグレーのかごを載せて店内を歩き始める。先ず目に入るのは色とりどりの野菜だ。茄子、ピーマン、胡瓜などの夏野菜がビニールの袋に包まれてかごの中に並び、横には黄色い紙に赤い字のポップが安売りを示している。二人はカートを押しながら野菜を吟味し、そしていくつかの袋をかごから取り出してカートに入れていく。どうやら少し値上がりしているようで、茄子の二袋目をとって買うべきかどうかと首をひねっていた。結局その袋はかごに戻し、野菜売り場をあとにした。

野菜売り場の側には果物が並んでいる。二人はキウイ六つのパックとぶどう二房分のパック、そして桃を3つほど取ってかごに追加した。

店内を更に進んで調味料や加工食品の売り場へとたどり着いた二人は、それぞれ手分けして商品をチェックしていく。黒狐は調味料売り場で青じそ風味のドレッシングと和風ドレッシングを持ってきたかごの中に入れ、そしてポン酢や醤油を様々な種類から選んでいった。白狐はというと加工食品売り場でカレーやシチューのルーを選び、またカップ麺などを適当に手にとってはカートに入れていく。今度は真っ赤で辛そうなカップ麺を手に取り、しばし考えたあとにんまりと笑ってカートに入れた。黒狐の舌が心配である。

さらに別れたまま黒狐はお菓子売り場へと進み、梅風味や塩味のポテトチップスやクッキーをいくつか取っていった。白狐はその間もなかなかに多い加工食品を選び、そして手にとっては戻したり、かごに入れたりをしていた。

合流して向かうのは肉売り場である。黒狐は適当に豚肉を選んで白狐に見せると、白狐は何かを言って頷き、そして黒狐はその肉をカートの中に入れた。その先の魚売り場ではカツオのたたきのパックを白狐が取り黒狐に見せてカートに入れた。黒狐はうんうんと頷き、他にもいくつかの魚の刺身を取っていく。今日の夕飯はどうやら刺し身にするようだ。

さらにすすんで冷蔵・冷凍食品売り場と入ると、白狐はいくつかの冷凍食品を選んでいく。黒狐は宣言通りアイス売り場へと足を運んで、これも宣言通りグレープのカップアイスと小豆のバーを取り、そしてふと考えていちご練乳のバーも棚から取った。

会計につく頃にはカートの中にはそこそこの量が入っていて、そして白狐は満足げな顔だった。黒狐はこれを持ち帰るのかというげんなりした顔であった。特殊な移動手段があるとはいえ、この量を手で持って運ぶのはなかなかに大変である。しかし、白狐の満足した表情を見るとはぁ、っと一つ息をついて、すっと背筋を正した。

会計を現金で払い、カートの中身を持ってきた冷蔵バッグに移し替えて、二人は出口から外に出る。自動ドアが再びぶぃいんと開くと、熱気が二人を唸らせた。白狐は苦い顔をして、黒狐は正した背筋を曲げた。


「さ、いくわよ」と白狐が片手にバッグを吊り下げ、またさっきの白い日傘を開いて歩き出し、その後を「...へぇ」とため息混じりに黒狐がついていく。アイスが溶ける前に家につかねばならない。二人はかんかん照りの陽気の下をうんざりした顔で歩いていった。随分傾いた太陽は相変わらずの熱量を叩きつけ、影法師は長く伸びていった。二人は暮れ始めた街を歩いていく。蝉は相変わらずにうるさくて、そして暑苦しかった。ふと二人は目が合うと、苦笑いをして再び歩き出す。夏はまだ始まったばかりだった。



暮れゆく太陽は、未だ赤かった。




壱 樹海の社、夏の空 了

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