[A]ごはん派
ああ、今週も来てくれたんだ!いやあ、うれしいね。
まぁとりあえず、お茶でもいかが。
いやヵ、もう夏が来るね。雲がモクモクって生えてきてるし。夏は暑いから嫌いなんだけどねぇ...たはは。でもまぁ、ビルの囲まれてる場所の方が熱いでしょ。うんうん、大変そうだなぁ...。
まぁ、そういうわけで、今日もお一つお話如何、ってね。
よいしょ。今日はこれがいいかな?
というわけで、とあるごはん派の少年のお話ってことで、はじまりはじまり。
ごはん派
[A]
「なんで最近ご飯が出てこないんだよ」
少年は目の前においしそうな香りを立てて並ぶパンのバスケットを見ながら文句を言った。パンはバゲットに近い形で、斜めに切られたあの独特な形をしていた。外側は若干竈の炭の香りがするようなカリカリの焦げ目が見られ、それでいて内側は湯気を立ててもっちりとした印象を受ける。藁で編まれたバスケットの横にはいくつかの陶器の皿が出ていて、隣の家からもらったバターが小さな丸い器に入っている。その横には豚の燻製が薄く切られ、窓から差し込む朝日に照らされてその特徴的な茶色を際立たせ、さらにその横には木のボウルに入った瑞々しい摘みたての葉野菜が盛られている。木製のコップの中には仲のいいおばさんからもらったオレンジから作った搾りたてのジュースが注がれてこれまた朝日を反射してキラキラと光っている。
本来なら文句などないはずの朝食であるのだが、件の少年には不満が大いにあった。
「母さん聞いてる?なんでご飯じゃないの?」
そう、彼は、いわゆごはん派、ご飯を愛してやまない少年であった。
小さいころから主食はごはん、生卵や塩漬けのサケをのせて食べてきた。五歳の頃には初めての炊飯をした。焦げだらけになってしまってわんわんと泣いたのはあまり思い出したい記憶ではないとのことだが。それでも回数を重ね、ある時は危うく火事になりかけ、それでも忍耐強く続けているうちに、いつの間にか自分でもおいしいご飯が炊けるようになったのだ。粒がそろい、艶めき光るそれは、昔から彼にとって至高の一杯であった。
しかし、この数週間はめっきりお米を見ていない。それどころか、炊かせてもくれない。もしや、自分がお米が好きすぎるので、親が取り上げてしまったのかとも思った。しかしそれよりもー
「兄ちゃんはパンの良さをわかってないよね。パンはこんなに美味しいのに。それに、食べ物に感謝しなさいって言ってたのはどっちなの?」
ーこの小生意気な妹めが…と、少年は思わずにはいられない。そう、彼女の言っていることもまた正論なのだ。だからこそ、頭にカチンとくるものである。少年はむきになって言い返す。
「じゃあお前は毎日ずっとご飯で良いのかよ?食事は楽しむべきものだろう?」
しかし、
「あたしはご飯も好きだもの」
「ぐっ…!」
完敗であった。
* * *
少年にとって、妹はコンプレックスの塊であった。
頭が良かった。算術は四、五の時に覚えた。文字はそれよりも前に覚えたし、商売の仕組みもすぐ覚えた。この前など、ウンウンと唸っていた問題を横であっさり解かれてしまった。体が強かった。生まれてこのかた病気に伏したことがなかった。野を駆け回り、崖を登り、農作業の手伝いを率先してやった。漁がうまかった。落とし穴を掘って子供ながらに一日に三匹もの野ウサギを捕まえた。手掴みで川魚をその小さな手で掴んだ。泳ぎがうまかった。自分が小さい頃に溺れかけた場所を悠々と泳いでいた。などなど、数えればキリがない。それはプレッシャーとなった。もちろん少年も努力しなかったわけではない。ただ単に、元の才能が全てにおいて妹の方が優っていただけなのであった。ただそれだけであった。
少年は悔しかった。ひたすらに悔しかった。やがて、妹に対して素っ気ない態度を取るようになっていた。地味な嫌がらせをしたりした。もちろんそれは妹に筒抜けで、それがまた頭にきた。むきになって色んなことをした。蛙を捕まえて引き出しの中に入れた時は久々に驚いた顔が見られたが、直後にため息を一つつくと外に逃がしに行っていた。そして父親が頭にたんこぶをまた一つ増やすのである。少年にはそれが面白くなかった。ただただ面白くなかったのである。
朝食の後、少年は家を飛び出して、川に遊びに来ていた。初夏に入ろうとする頃の川はまだ上流の雪解け水が流れてきていて、先月ほどではないがまだひんやりとしている。ベージュのズボンをまくると、じゃぶじゃぶと少年は川の水に入っていく。納屋から持ってきた網を手に持ち、川魚ににじり寄っていく。急にひんやりとした風が吹いた。川面に朝日が反射する。
網を投げる。網の四隅に括り付けてある石が重しの役割を十分に果たし、どぷんという大きな音を立てて網を魚ごと川底に沈めた。少年は沈んだ魚を丁寧に持つと、持ってきた木の桶の中に丁寧に放り込んだ。
それをしばらく続けていると、ふたたびひんやりとした風が身を撫ぜた。少年は西の方に見える分厚い雲を眺めると、一雨降りそうだな、とぼんやりと認識した。そして、三匹の魚が入った木の桶を持つと、森の中の小道を戻り始めるのであった。
* * *
家に着くと、どうやら空気が変だ、と少年は感じた。同時に、ざわざわと変な不安が胸の中で育つ。なんだろう?何かがおかしい?と思っているうちに、すぐに答えが出た。
妹が顔を真っ青にして寝込んでいた。
一瞬、心の中に(ざまあみやがれ)という感情がよぎった。が、しかし、すぐにそれは不安にとってかわられた。今まで一度たりとも寝込んだことのない妹が、顔を真っ青にして寝込んでいる。さっき自分を軽くあしらった妹が、その健康そうであった頬を真っ白にして苦しそうに汗をかいて寝ているのだ。茶色の細い髪は額に汗で張り付き、そして喉元からはぜえ、ひゅうという苦しげな呼吸音が聞こえる。
窓の外では先ほどの雨雲なのか滝のような雨が降り始め、まるで地の底から響いてくるような雷が少年の心をぐちゃぐちゃと無造作にかき混ぜる。雨音がうるさいぐらいに耳の中で鳴り響き、しかしそれでも脳裏から彼女の呼吸音が途絶えない。
「薬屋、は?」
この村には薬屋がいる。あの薬屋は若くはあるが、薬の品質はぴかいちであった。医術の心得もあるようで、症状を言うと大体ぴったりの薬をくれる。そして少年なんかの子供にはおまけでハーブの種なんかをくれたりするのだ。その薬屋であれば、彼女の症状もきっと治せる、そう思っていた。
「今朝がた出ていったはずよ」
それは無慈悲な宣告であった。薬屋は馬車でいくつかの村を一定の周期で回っている。そして、次にこの村に来るのはおそらく十日後当たり。この真っ青な顔で十日後である。誰が見ても無理であった。
少年は、自分がどうすればいいのかを、知っていた。
親の制止も聞かずに家を飛び出した。冷たい雨の中をひたすらに走った。舗装などという技術を知らないむき出しの道は、ひどくぬかるんでいて少年の体力と時間を奪った。しかし少年は走り続けた。稲光が近くに山に落ちた。少年は泣いていた。泣いているように錯覚していただけかもしれない。少年は錯乱していた。ひたすらぬかるみを走っていた。いつしかベージュのズボンはひどく汚れていた。少年は誕生日にもらったそのズボンのことも厭わずに走り続けた。降り続ける雨が体温を奪い、足場を奪い、気力を奪った。しかし少年は折れなかった。少年の脳裏にはあの少女の顔が焼き付いていた。いつもはあんなに図太く自分が絶対にかなわない妹が、あんなにも風が吹いたら折れそうなほどに青く小さく縮こまっていた光景が脳裏から離れなかった。もうどれだけ走ったかわからなかった。しかし少年はまだ走り続けた。雨は好都合ともいえた。薬屋の馬車はきっとどこか安定した場所で休んでいるだろう。街道の途中、岩がせり出した雨宿りのできる場所がある。きっとそこなら雨をしのげるだろうから、そこに馬車が止まっているだろう。そしてその薬屋から薬をもらって、来た道を走って帰ればきっと間に合う。そう信じて少年は走り続けた。
やがてぬかるんだ街道の先、テーブルのように突き出した岩場が見えてきた。そこに馬車はいた。それを確認した少年は一層スピードを上げて馬車へ向かった。そして、大きな声でこう問いかけた。
「くすりや、さん!くすりやさん!」
大きな声で問いかけたつもりではあった。しかしそれは雨音にかき消されるほどの声でしかなった。体力が雨で削れ、ぬかるみに足を取られ、どろどろになった少年に体力はほとんど残っていなかった。
しかし、少年は走り続けた。
「な、なんだい!?どうしてここまで!?」
薬屋はたいそう驚いていた。それはそこにいたのが彼のよく知るぶっきらぼうな少年ではなく、泥にまみれ真っ白な顔でぬかるんだ街道を走る少年であったからだ。
「妹が、イシュが、青くて、息が、ぜーぜーって、イシュが、!」
少年はたどたどしく言葉を並べた。もう息が上がりきっていて、体力も消耗していた。思考は鉛がついたかのように重ったるく、そして体は川の水のように冷え切っていた。そんな少年の様子を見て若い薬屋は、
「わかった」
とだけ答えると、荷物をガサゴソとまさぐり、いくつかの小包を作った。そして、
「抜け道を知ってる。馬車も通れるくらい広くて、そしてぬかるんでいない。暗くて、運が悪いと魔物に出会うけどね。さぁ、後ろに乗って」
と、少年に言った。
馬車はひた走った。本来馬とは臆病な動物で、暗い洞窟を走ることは難しい。しかし薬屋は強い力を持つランタンを取り出し、前方を明るく照らした。馬はその光に導かれつつ、馬車一台がぎりぎり通れるほどの洞窟を駆け抜ける。道中、後ろから何かが追いかけてきたみたいだが、馬の速度についていけずに脱落した。少年は泥だらけの服を脱ぎ、借りた服を着て毛布にくるまってすでに寝息を立てていた。すでに薬屋から体力回復の薬をもらっていた。そして馬車は規則正しくこつここつこつ、がたたがたがたと洞窟に音を反響させて洞窟を駆け抜けた。
* * *
数日後、少年は焼き立てのパンをバスケットから取り出し、隣の家からもらったバターを付け、上に燻製をのせて食べていた。相変わらずご飯が出てこなかったが、少年はもう文句を言っていなかった。少年はおいしそうにそのパンをほおばると、リンゴジュースを飲みほした。そして一言、「ごちそうさま」というと、席を立ち、食器を洗い場に持って行った。
そしてそのすぐあと、「ごちそうさま!」という声が聞こえたかと思うと、少年の後を追って妹が食器をもってついてきた。
薬屋は見事にその日の夕方には少年の家へとたどり着き、眠っている少年を引き渡した後、少女を診察して適切な薬を出した。母親は感謝してもしきれないと何度もそのことを話している。少年は父親によってまた一つたんこぶが増えたが、しかしあたらしくより濃い茶色のズボンを買ってもらった。父親曰く、「これなら泥で汚れても大丈夫だろう、がはは」とのことであった。
そして妹はというと―
「でも、あの時、眠ったまま渡された兄ちゃんの姿、かわいかったよ」
「う、うるせぇっ!」
すこーし、兄に対して懐いた、ようである。
[A]ごはん派 了