第2部 第6章-2 忌み児蔑まれた魔眼の少女は、人外貴族に買われて極上の溺愛を知る
「俺も、あんたの顔を見た時、本当にホッとした。……でも、だからこそ、よくわからないんだ」
「わからない?」
私がおずおずと首を傾げると、彼は身を乗り出すようにして、少しだけ早口になった。
「サヴェールの残滓が消えたら、俺の中にあったよくわからない感情も一緒に消えると思ってたんだ。でも、違った」
ニクスは、困ったような、けれど熱を帯びた瞳で私を真っ直ぐに見据える。
「あんたが笑ってくれると、胸の奥が熱くなる。あんたが怪我をしたり、いなくなるかもしれないと思うと、息ができないくらい怖くなる」
その真っ直ぐな言葉に、私の胸の奥がドクンと大きく跳ねた。
「市場で海老を食べた時、あんたに触れたら、もっと触れたいって思ってしまった。……この感情は、サヴェールのもんじゃなく、間違いなく俺自身のものだ。でも……これって、何なんだ?」
それは、ごまかしも駆け引きも一切ない、純粋な問いかけだった。
長い年月を生きてきた彼にとっても、こんなふうに誰かを想うのはきっと初めてのことで、自分の中に芽生えたこの圧倒的な熱に名前をつけることができず、ただ戸惑っているのだ。
先生である私に、答えを求めて。
彼の問いかけを聞いて、私の顔は一気に火のように熱くなった。
彼が言っている感情が何なのか、私にはわかる。
それは、村にいた頃に年頃の娘たちが楽しそうに噂しているのを遠くから聞いたことがあったり、この館の書斎で文字を覚えてから読んだ本の中に書かれていた、『恋』や『愛』と呼ばれるものだ。
あるいは、私が彼に対して抱いている、胸が苦しくなるほど甘い、この感情と同じもの。
でも、それを彼にどう説明すればいいのだろう。
村で育った私にとって、男女の結びつきというのは、畑仕事を手伝う労働力や、冬を越すための打算的なものがほとんどだった。
貴族様たちが使うような綺麗な詩の言葉や、本に書いてあるような難しい説明なんて私にはできない。
私は、感情の『先生』として彼に雇われているはずなのに、肝心なところで言葉に詰まってしまった。
「ティリア?」
黙り込んでしまった私を、ニクスが不思議そうに覗き込んでくる。
私はぎゅっと膝の上の布を握りしめ、大きく深呼吸をしてから、彼と視線を合わせた。
「私、学のある言葉は知らないし、うまく説明できないかもしれないけれど……」
私は、震えそうになる声を必死に落ち着かせながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「誰かのことを、特別に大切に思う気持ち……なんじゃないかな」
ニクスは黙って、私の言葉に耳を傾けてくれている。
「美味しいものを見つけたら、一緒に食べたいと思うこと。綺麗な景色を見たら、隣で見せてあげたいと思うこと。……手が触れた時に、ずっと離したくないって思うこと」
言いながら、市場で彼が買ってくれた三日月の髪飾りや、仄かに光る魔石の腕輪のことを思い出す。
「相手がいなくなってしまうかもしれないって想像した時、自分のこと以上に怖くて、胸が張り裂けそうになる。……そういう、どうしようもないくらい大きくて、温かい気持ちのこと」
私は、自分の胸の奥にある感情を、そのまま彼に見せるような気持ちで言葉を紡いだ。
「本の中では、そういう気持ちのことを『恋』とか『好き』って呼んでいたわ。……私、ニクスに対して、同じように思っているよ」
最後の言葉は、消え入りそうなほど小さくなってしまった。
顔から火が出そうなくらい恥ずかしくて、私は俯いてしまう。
沈黙が落ちた。
彼にちゃんと伝わっただろうか。
手放されてしまわないだろうか。
不安で視線を上げられずにいると、テーブルの上に置かれていた私の両手が、大きくて温かい手にすっぽりと包み込まれた。
ハッとして顔を上げると、ニクスが少しだけ顔を赤らめながら、とても嬉しそうに目を細めて私を見ていた。
「……そっか。ティリアも、俺と同じ気持ちなのか」
彼は、ほっとしたように息を吐き出すと、私の手を包み込んだまま、親指でそっと私の手の甲を撫でた。
「恋とか、好きとか、そういう名前はどうでもいいかもしれない。ただ……俺の中にあるこの気持ちと、あんたの中にある気持ちが同じ形をしているなら、それでいい」
ニクスの言葉は、飾ることを知らない彼らしく、これ以上ないくらい真っ直ぐに私の心に届いた。
そう言って、ニクスは私の手を優しく包み込んだまま、ゆっくりと身を乗り出してきた。
いつも私を壊れ物のように大切に扱ってくれた彼が、自分の熱に引き寄せられるようにおそるおそる、けれど迷いのない動作で顔を近づけてくる。
夜空に浮かぶ月のような、あの綺麗な紫と金色の瞳がすぐ目の前まで迫り、私は驚きに目を見開いた。
まつ毛が触れそうな距離でそっと目が閉じられ、次の瞬間、私の唇に柔らかくて温かいものがそっと重ねられた。
それは、お互いの温もりをただ確かめ合うような、不慣れで、けれど胸が苦しくなるほど優しい、初めての口づけだった。
時間にして、ほんの瞬きをする間。
そっと唇が離されると、ニクスは耳の先まで真っ赤に染めながら、ひどく嬉しそうに、けれど少しだけ照れくさそうにはにかんだ。
その姿があまりにも愛おしくて、私の胸の奥に、言葉にならないあたたかい気持ちがゆっくりと広がっていく。
「ティリア、俺の先生になってくれて、ありがとう」
照れくささを誤魔化すように、彼はいつもの笑顔を見せて、夜空のような紫の瞳の奥で、優しい月のような金色の光をきらめかせた。
その笑顔があまりにも無邪気で温かくて、私はつられてふわりと微笑み返した。
「私の方こそ……私を見つけてくれて、ありがとう」
初夏の風がサンルームを吹き抜け、テーブルの上の青い絹糸を微かに揺らした。
繋いだ手から伝わってくる確かな熱と、彼の素真面目な優しさに包まれながら、私はこの穏やかで愛おしい時間が、ずっと続いてほしいと心から願っていた。
――END――
最終話まで読んでくださってありがとうございました。
また気が向いたら続きを書くかもしれませんが、とりあえずここで終わりです。
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