再会1
勤続疲労の果てに込み上げる期待と共に辞表を出し、最後の退社時間が迫ると虚しさに変わった。定刻で仕事を切り上げてから北村朔郎は六階の職場を離れ、廊下の端にあるエレベーターに乗った。急降下するエレベーターの中で彼は考えた。
昨夜、掛かって来た電話は、忘れようとして忘れられぬまでに心を奪い去った遠い昔の恋人だ。スマホのスピーカから流れる声に暫くは茫然として素直に受け止められなかった。しかも突然に、全く唐突に会いたいと云って来たからだ。
当に着信拒否までしたテレホンナンバーを復活してまで掛けて来た根拠を昨夜から考えあぐねても何も浮かんでこなかった。今もエレベーターの中でも霧散してゆく彼女との蜜月の面影だけが脳裏から消えぬ中で、反復すればもう心は留まるところを知らなかった。唯一の懸念は彼女の相手だ。相手は朔郎から恋人を奪った亭主の正幸だった。しかも彼にとっては中学時代からの友人でもあった。
昔の恋人、いや陽炎のように朔郎の前に現れた蜃気楼だった。現実に求めた彼女はもう抜け殻だ。鼻から抜けるような甘い声で、蜃気楼の彼方から聞こえた空蝉の佐恵子は、氷結した怨念を一瞬にして溶かし、更に明瞭に「どうしているの」と朔郎本人に現世の消息を訊いてきた。長い話の末に今日、彼女にあう約束を取り付けられた。
朔郎は懐かしさと半ば後悔が、頭の中で止めどなく、凝り固まった恨みと陽炎の恋が激しい渦になって掻き回された。ビルから一歩出ると、ムッとする現実の暑さに顔を舐め尽くされた。
「しつこい夏だ!」
朔郎は思わず叫びたくなった。それでも忘れ得ぬ彼女の声に、気持ちが昂じる自分を感じとった。
「いかん! いかん! 落ち着け、落ち着け。しかし、何でまたあの女は急に会いに来るんだ」
朔郎はビル前の脇道から御堂筋へ出て、心斎橋から重い鉛を付けたような足取りで御堂筋を歩いた。
仕事の終わった此の時間帯は、軽快な足取りで若い二人連れが、次々と彼を障害物のように通り過ぎていった。行き過ぎた連中にしてみれば、確かに三十七歳の彼は歳を取り過ぎていた。だがこれから会う人は、彼ら若者の年代にタイムスリップさせる想い出の人である。なのに心は決して軽くない。それは十四年前に朔郎を捨てた女だった。
「今さら会いたいなんてどう言う了見なんだ」
心の叫びとは裏腹に気持ちは昂じてしまう。彼女が最初の女であり、彼に人生の道しるべを付けた女だからだ。




