3.西の森(2)
野営地に魔獣を一匹倒したことが伝わったのは夕方のことだった。倒された小型の魔獣はその場で騎士が首を落とし魔核を取り出すと、魔法士が浄化の炎で焼き尽くした。
「だからなんであの状態で突っ込んで行くんだ?」
「だって出て来たのが見えたんだから行くしかないでしょう!」
「エレインは一撃で仕留められないんだから、手負いの魔獣がより凶暴になって後が大変になるだけなんだよ」
魔獣に初撃を与えた功労者として褒め称えられるわけでもなく、エレインは同僚騎士の苦情を受けていた。
「いつもありがとう。明日もこの調子でお願いね」
「全然反省してないじゃないか。どうして俺はいつもお前と組まされるんだろう。その上どうして俺はお前の尻拭いを完璧にしてしまうんだろう」
「息がぴったりでいいじゃない」
女騎士が笑いながら話に入って来ると、命がいくらあっても足りないと、頭を抱えた同僚騎士が心から嫌そうな顔をした。
一見和気藹々としたやり取りを、少し離れた天幕からロイが見ていた。
倒された魔獣が目撃情報よりも小型であったことと、元々数匹いると分かっていたことから、翌日以降も討伐は継続されることになった。簡単な食事を取った後は見張りを数人残してそれぞれの天幕に戻った。
◇
翌日に備えて早めに横になったものの、移動中に寝ていためになかなか眠りに就くことができないエレインはそっと天幕を抜け出した。
森を眺めることのできる場所まで移動すると、巨大な切り株に座って森を観察する。
木々の生い茂った大きな森ではあるが、危険な魔獣が棲み着いているようには見えない。魔獣が出現するようになったのも最近の話だという。
それではそれ以前は魔獣はどこに棲んでいたのだろうか。
「眠れないの?」
「……移動中に寝たからね」
背中から聞こえた弟分の声に、振り向くことなくエレインが答えた。声の主はエレインの隣に腰を下ろすと、着ていたローブをエレインの肩にかけた。
ローブに視線を落としたエレインは、かけられたローブが濃灰色をしていることに気づいた。
魔法士の制服は黒に始まり、階級が上がるごとに色が薄くなる。最高位である魔法士団長が着用するのは金糸に彩られた純白のローブだ。
今のロイは魔法士の制服から白いシャツに着替えてはいるものの、ローブは確かに中級魔法士の色をしている。
エレインはくしゃっと前髪を掻いて大きく息を吸うと、意を決してロイに声をかけた。
「階級が上がったんだってね。おめでとう」
嫌そうなのにそれでも言うべきことは言うエレインの律儀さにロイは口元を緩めた。もっと冷淡に突き放すこともできるのに、結局エレインは優しいのだ。そこにつけ込んで、離れていかないように突き放されないようにしているのはロイの方だ。
「姉さんは褒めてくれないの?」
「いつまでも私を姉代わりにするのはやめたら? もう成人したんだし、一人で生きていけるでしょう?」
「寂しいことを言うね」
無表情でエレインを見つめる金色の目を見て、罪悪感がエレインの胸を突く。
「階級が上がることなんかに興味はないでしょう? よく断らなかったね」
否と言ったところで拒否権などあるはずもないが、この弟分が素直に受けたとも思い難い。
ロイは昔から何にも興味を持たない子供だった。何かを欲しがることもなく、何かに執着することもない。そのロイの階級が上がったと聞いた時、エレインは何かしっくりとしない感じがしたのだ。
「中級魔法士に上がれば、討伐隊に参加できると言われたんだ」
「何のために?」
「姉さんと行動を共にしたかったから」
危険が伴う討伐隊に参加できるのは、基本的に中級以上の魔法士だ。下級魔法士もたまに参加することはあるが、戦力としてではなく雑用としての意味合いが強い。
「そんなことのために!?」
ロイの年齢であれば魔法士見習いから下級魔法士になっただけでも十分だと言える。
階級が上がればそれだけ責任や危険な任務も増えることになる。出世も名誉にも興味のないロイが望む道だとは思えなかった。
「僕は姉さんと一緒にいたいのに、姉さんが僕を避けるから」
ロイの言うとおり、エレインはロイに近づかないようにしている。弟分として扱っていた少年が自分をどんどん追い越して行くのが受け入れられないのだ。
ロイの言葉には答えずに顔を背けると、森を見ながら考えていたことを聞いてみる。
「どうしてこんなに魔獣が増えたのかしらね?」
「姉さんはこの国がなんと呼ばれているか知ってる?」
「狭間の国でしょう」
この国は三つの大国に挟まれていることから、本来の国名ではなく狭間の国と呼ばれることがある。大国との間には他にも小国がいくつかあるが、そう呼ばれるのはこの国だけだ。
「『魔力の臍』、『瘴気の吹き溜まり』、『魔性の坩堝』とも呼ばれるね」
「そんな碌でもない名前で呼ばれてるの?」
身も蓋もない二つ名を聞いて、エレインが呆れた顔をした。自分の国がそのように呼ばれていることなど聞いたことがなかったのだ。
「教会がよく言ってるのは『女神の死角』かな」
「女神って救世の女神?」
世界で最も信仰する人が多いのが女神信仰だ。土着の宗教もあるにはあるが、信仰している者の数が圧倒的に少ない。
まだ世界がひとつだった頃、邪悪なものに侵されそうになった世界を天から遣わされた女神が救った。女神は共に戦った青年と恋に落ちて夫婦となり子を産んだ。
夫を亡くした女神は天に還り、女神の三人の子によって地上は三つに分けられた。やがてその三つの国が更に分かれ、長い年月をかけて今の国々の形となったのだ。
始まりの三国は今でも大国として世界に君臨し、影響力とその名を轟かせている。
「この国には世界中から魔性の魔力が集まってくるんだ。それが魔獣を生んで、やがてこの国から魔獣が世界に放たれていく。それを防いでいたのが女神の聖鏡だよ」
王宮にある大聖堂の地下には、女神の聖鏡と呼ばれる鏡が保管されている。
王宮関係者でも一握りしかその存在を知らされていない聖鏡は、この国に集まり続ける魔性の魔力を吸収し続けていた。しかしその聖鏡が力を失い始めたことによって集まった魔性の魔力から魔獣が生まれ、各地に出現している。
「なんで力を失ってるの?」
「邪悪な魔性の魔力で聖鏡の鏡面が曇ってしまって、その力が弱まり続けている」
「鏡面の曇りを拭いたらいいんじゃないの?」
鏡と言われてエレインの脳裏に思い浮かんだのは、寮の自室にある鏡だ。その鏡が曇った時は柔らかい布で吹き上げて曇りを取っている。
聖鏡も拭けばいいのではないかと、安直な考えを言ってみた。
「魔法士が近づくと聖鏡に魔力を吸われるから、うかつに近づけないんだよ。魔力を全て吸い取られると人は死ぬからね」
「魔法士じゃなかったら?」
「聖鏡は魔性の魔力を吸い込み過ぎて、もはや魔の物になっている。普通の人は聖鏡が放つ瘴気にあてられて、近づくことすらできないよ」
それはお手上げだねとエレインが難しい顔をする。
「過去に聖鏡が曇った時は、何十人もの魔法士が死んだらしい。一人が聖鏡を運び魔力を吸われて死ぬと、次の魔法士が力尽きるまで運ぶ。それを少しずつ続けて、女神の泉へと運んで清めたんだ」
何人もの命をかけて次に繋ぐ。
なんて恐ろしい話だろうかとエレインは思わずローブの前をぎゅっと閉じた。