二、西蜀動乱
2.
鄧艾、鐘會之伐蜀也,瓘以本官持節監艾、會軍事,行鎮西軍司,給兵千人。蜀既平,艾輒承制封拜。會陰懷異志,因艾專擅,密與瓘俱奏其狀。詔使檻車徵之,會遣瓘先收艾。會以瓘兵少,欲令艾殺瓘,因加艾罪。瓘知欲危己,然不可得而距,乃夜至成都,檄艾所統諸將,稱詔收艾,其餘一無所問。若來赴官軍,爵賞如先;敢有不出,誅及三族。比至雞鳴,悉來赴瓘,唯艾帳內在焉。平旦開門,瓘乘使者車,徑入至成都殿前。艾臥未起,父子俱被執。艾諸將圖欲劫艾,整仗趣瓘營。瓘輕出迎之,偽作表草,將申明艾事,諸將信之而止。俄而會至,乃悉請諸將胡烈等,因執之,囚益州解舍,遂發兵反。於是士卒思歸,內外騷動,人情憂懼。會留瓘謀議,乃書版云「欲殺胡烈等」,舉以示瓘,瓘不許,因相疑貳。瓘如廁,見胡烈故給使,使宣語三軍,言會反。會逼瓘定議,經宿不眠,各橫刀膝上。在外諸軍已潛欲攻會。瓘既不出,未敢先發。會使瓘慰勞諸軍。瓘心欲去,且堅其意,曰:「卿三軍主,宜自行。」會曰:「卿監司,且先行,吾當後出。」瓘便下殿。會悔遣之,使呼瓘。瓘辭眩疾動,詐僕地。比出閣,數十信追之。瓘至外解,服鹽湯,大吐。瓘素羸,便似困篤。會遣所親人及醫視之,皆言不起,會由是無所憚。及暮,門閉,瓘作檄宣告諸軍。諸軍並已唱義,陵旦共攻會。會率左右距戰,諸將擊敗之,唯帳下數百人隨會繞殿而走,盡殺之。瓘於是部分諸將,群情肅然。鄧艾本營將士復追破檻車出艾,還向成都。瓘自以與會共陷艾,懼為變,又欲專誅會之功,乃遣護軍田續至綿竹,夜襲艾於三造亭,斬艾及其子忠。初,艾之入江由也,以續不進,將斬之,既而赦焉。及瓘遣續,謂之曰:「可以報江由之辱矣。」
(訳)
鄧艾、鍾会が蜀を征伐すると
衛瓘は本来の官職のまま節を持って
鄧艾、鍾会の軍事を監督し、
行鎮西軍司(陳西軍司を兼任)
となり、兵千人を支給された。
蜀が平定された後、
鄧艾がその都度承制して
封爵や叙任をおこなった。
鍾会はひそかに異心を抱き、
鄧艾が専断している事に因り
秘密裏に衛瓘とともに
その実情を上奏した。
詔が下されて檻車が遣わされ
これ(鄧艾)を徵すと、
鍾会は衛瓘を遣わして
先に鄧艾をとらえさせた。
鍾会は、衛瓘の兵が少ない事から
鄧艾に衛瓘を殺させようと考え
それに因り鄧艾に罪を加えようとした。
衛瓘は(鍾会が)自身に
危害を加えようとしている事を
察知したものの
拒否することができず、
そこで夜に成都へと至ると
鄧艾の統括する諸将に檄文を発し
詔と称して鄧艾をとらえさせ
その他は一切罪に問わない、
もし官軍側へ赴くのならば
爵位や恩賞は以前の如くであり
敢えて出てこない者があれば
誅滅は三賊まで及ぶものとした。
鶏鳴のころに至って
悉くが衛瓘のもとへ赴き
ただ鄧艾の帷幕内のみが残った。
平旦に門が開かれると
衛瓘は使者の車に乗って
直入して成都の殿前まで至った。
鄧艾は臥せっていて起きず、
父子倶にとらわれる事となった。
鄧艾の諸将は図って
鄧艾を力尽くで奪還しようと考え、
仗(武器)を整えて
衛瓘の幕営へ赴いた。
衛瓘は軽装でこれを出迎えると
偽って上表の草案を作って
鄧艾の事情を表明しようと
したため、諸将はこれを信じて
取りやめた。
俄かに鍾会が至ると、
そこで諸将の胡烈ら
悉くに要請して彼をとらえさせ、
益州の解舍に幽閉すると
遂に(鍾会が)兵を発して反いた。
こうして士卒は
帰る事を考えるようになり
内外は騒動し、
人々の心は憂悶した。
鍾会は衛瓘を留めて謀議し
そこで版に書いて
「胡烈らを殺したい」と云い、
挙げて衛瓘に示したが
衛瓘は許諾しなかった。
このため、互いに二心を
抱いているのではないかと猜疑した。
衛瓘は廁へゆき
胡烈のもとの給使と見えると
三軍に宣揚させて
鍾会が反いた、と述べた。
鍾会は衛瓘に
結論を出すことを逼り、
一夜過ぎても眠らず、
各々膝上に刀を横たえた。
外部にあった諸軍はもはや
密かに鍾会を攻めたいとまで考えていたが
衛瓘が出撃しない上は
敢えて先発できずにいた。
鍾会が衛瓘に諸軍を慰労させると
衛瓘は内心で立ち去ろうと考え
その意思を固めると、こう言った。
「卿は三軍の主です、自ら行かれるべきです」
鍾会は言った。
「卿は監司であるから
一旦先に行かれよ、吾はその後に出よう」
衛瓘はたちまちに殿を下ってしまい
鍾会は彼を派遣した事を悔やんで
衛瓘を呼び戻させた。
衛瓘は眩暈のする病気に
かかったとして辞退し、詐って地に伏した。
こうして閣を出ると
数十の信使が彼を追った。
衛瓘は外へと至って解放されると
塩湯を服して大いに嘔吐した。
衛瓘はもとからやせており
危篤を装うのに都合がよかった。
鍾会は親族及び医者を遣わして
彼を視察させたが、
皆が「起き上がれません」と言い、
鍾会はこのために(衛瓘を)
憚らなくなった。
日没に及んで門を閉じ
衛瓘は檄文によって諸軍に宣告した。
諸軍は一様に義を唱え、
夜明けをまたいで共に鍾会を攻めた。
鍾会は左右を率いて防戦したが
諸将はこれを撃破し、
ただ幕下の数百人のみが鍾会に隨い
宮殿を繞って逃走したが、
この悉くが殺された。
衛瓘がここで諸将の部署を分けると
人々の気持ちは粛然とした。
鄧艾の本営にいた将士は
再度追いかけて檻車を破壊し
鄧艾を助け出すと、
引き返して成都へ向かった。
衛瓘は自らが鍾会とともに
鄧艾を陥れたことから
変事が起こる事を懼れ、
一方で鍾会を誅滅した功績を
独占したいとも考え、
かくて護軍の田続を綿竹へと至らせて
鄧艾を三造亭にて夜襲させ
鄧艾及びその子の鄧忠を斬った。
当初、鄧艾は江由に入った際
田続が進まなかったことから
彼を斬ろうとしていたが、赦免された。
衛瓘は田続を派遣するに及んで
彼にこう謂った。
「江由の恥辱に報いる事ができるな」
(註釈)
263年、征蜀の戦。
衛瓘はこの時44歳。節を持って
主武将である鄧艾、鍾会の監察にあたった。
五丈原の戦いの辛毗のようなポジション。
晋書杜預伝や蜀書姜維伝を見るに
この時、杜預さんも従軍している。
衛瓘伝でもこの後ちょっと出てくる。
難路強行して成都に迫り
蜀を平定した鄧艾だったが
自身の事を呉漢以上とか
姜維もすごいが俺には勝てない、とか言ったり
京観(死体の山)を作ったり、
鄧禹の例に従って論功行賞を行なったり
完全に慢心しているようすで
危ないスイッチに触れまくっていた。
鄧艾さえ消えれば
どうにでもなると考えた鍾会は
衛瓘と示しあわせて
鄧艾の専横っぷりを上奏。
中央から護送車が遣わされた。
鍾会的には、衛瓘と鄧艾が
共倒れになってくれると嬉しい。
鄧艾を罪に落として
衛瓘にその拿捕を命じた。
衛瓘は鍾会の害意を悟るも
(自前の兵が少ない事もあり)
拒否することはできなかった。
そこで、詔勅であると称して
鄧艾の諸将を味方につけ
眠っていた鄧艾を捕獲。
鍾会伝によると、
司馬昭は鍾会の命令違反を懸念しており
衛瓘に直筆文を託して
鄧艾の軍勢を説得させたという。
鄧艾が逮捕されたあと
にわかに鍾会がやって来ると、
衛瓘はこの際彼も捕えてしまおうと考えたが
鍾会は遂に反乱を起こした。
この時、鍾会は
「失敗したとしても劉備くらいには
なれるだろう」と発言したらしいが
いくらなんでも劉備をナメすぎである。
蜀書姜維伝の引く
習鑿歯の「漢晋春秋」にいう、
鍾会が密かに反乱を企てると
姜維は彼と会見してその本意を察知、
彼が動乱を起こす方向に待っていければ
蜀再興のチャンスがあると考えた。
姜維は、鍾会を持ち上げて
平定の戦のあと主君に消された
韓信や文種を引き合いに出して
反乱を促した。
この事から二人は甚だ親密になった。
蜀書姜維伝の引く
常璩の「華陽国志」にいう、
姜維は鍾会を扇動して
北方から来た諸将を誅殺し、
そのあと徐に鍾会を殺して
魏の兵を生き埋めにしてから
蜀の社稷を復興しようと考えた。
劉禅に、
「陛下には数日の恥辱をお忍びいただきたい、
臣は社稷の危機を再び平安なものとし
幽かとなった日月を再び
明るくするつもりでございます」
との密書をおくった。
(結局姜維の目論見は失敗に終わる)
成都へたどり着いた鍾会は
魏将や蜀の官吏を招いて
太后から「司馬昭を討て」との
遺詔を賜ったと偽り、
息がかかった者たちと交代させ
(軍勢を奪った?)
招いた官吏たちをみな
閉じ込めてしまった。
鍾会の帳下督の丘建は
もとは胡烈の部下であった事から、
見かねて助け舟を出した。
胡烈はこれに乗じて
「鍾会は我々を皆殺しにする気だ」
との偽情報を流し、鍾会討伐を扇動した。
衛瓘は仮病を使って
鍾会の警戒を解くと、
檄文を発して一転攻勢に出た。
鍾会が死ぬと、鄧艾の本営にいた
諸将が鄧艾を救出した。
衛瓘は変事が起きるのを恐れるとともに
鍾会討伐の手柄を独占したいと考え、
事前に江由で鄧艾に斬られそうになっていた
田続に鄧艾討伐を命じた。
いわく、「江由の恥辱に報いよ」
(この田続は、魏書十一巻に出て来た
田疇の従孫である)
「世語」によれば、
鄧艾とともに師纂も死んだという。
遺体に傷のない箇所がないほど
ひどい状態だったそうな。
その後、267年に議郎の段灼が鄧艾を擁護し、
273年に彼の嫡孫の鄧朗が
郎中に取り立てたられたのは、僅かな救いか。
こうして、三国の一角である
季漢(蜀漢)は滅亡した。




