一、二度の失態
「八王」のひとり、司馬亮。
わりにふつうの人って印象です。
1.
汝南文成王亮,字子翼,宣帝第四子也。少清警有才用,仕魏為散騎侍郎、萬歲亭侯,拜東中郎將,進封廣陽鄉侯。討諸葛誕于壽春,失利,免官。頃之,拜左將軍,加散騎常侍、假節,出監豫州諸軍事。五等建,改封祁陽伯,轉鎮西將軍。武帝踐阼,封扶風郡王,邑萬戶,置騎司馬,增參軍掾屬,持節、都督關中雍、涼諸軍事。會秦州刺史胡烈為羌虜所害,亮遣將軍劉旂、騎督敬琰赴救,不進,坐是貶為平西將軍。旂當斬,亮與軍司曹冏上言,節度之咎由亮而出,乞丐旂死。詔曰:「高平困急,計城中及旂足以相拔,就不能徑至,尚當深進。今奔突有投,而坐視覆敗,故加旂大戮。今若罪不在旂,當有所在。」有司又奏免亮官,削爵土。詔惟免官。頃之,拜撫軍將軍。是歲,吳將步闡來降,假亮節都督諸軍事以納之。尋加侍中之服。
(訳)
汝南文成王の司馬亮は字を子翼、
宣帝(司馬懿)の第四子である。
少くして機知に富み、才幹を有していた。
魏に仕えて散騎侍郎、万歲亭侯となり、
東中郎将に拝され、
広陽郷侯に進封された。
寿春に諸葛誕を討伐したが
勝利できずに免官となった。
ややあって左将軍に拝され、
散騎常侍、仮節を加えられて
監豫州諸軍事に遷った。
五等爵が建てられると
祁陽伯に改封され
鎮西将軍に転任した。
武帝(司馬炎)が践祚すると
扶風郡王に封じられた。
食邑は一万戸、騎司馬が置かれ
参軍掾属、持節、都督関中雍涼諸軍事を
加増された。
ちょうど秦州刺史の胡烈が
羌虜に侵害されており、
司馬亮は将軍の劉旂と
騎督の敬琰を救援に赴かせたが、
進めえず(胡烈は死んでしまった)、
この事に連座して
司馬亮は平西将軍に落とされた。
劉旂が斬刑に処されようとした際、
司馬亮と軍司の曹冏が上申して
節度の咎は司馬亮によるものと訴え
助命を願い出たが、劉旂は斬られてしまった。
詔にいう、
「高平は困苦し危急にあったが、
計るに城中及び劉旂は
互いを以て攻伐するに十分であった。
直通できなかったにしろ
それでもなお
深く進むべきであろう。
今、猛進を放棄して
覆敗を坐視していたからには
劉旂に大戮を加える。
今もし罪が劉旂にないとするならば
所在に罪がある事になろうぞ」
有司は一方で司馬亮を免官とし、
爵位や封土を削るよう上奏した。
詔が下され、免官されるだけにとどまった。
しばらくして、撫軍将軍に拝された。
この年、呉将の步闡が来降したので
司馬亮を仮の持節、都督諸軍事として
これを受け入れさせた。
やがて侍中の服を加えられた。
(註釈)
司馬亮は
司馬師や司馬昭の異母弟(司馬懿の四男)で、
八王のトップバッターとして登場する。
「宣帝紀」によると
司馬懿がどんどん出世して
親族もどんどん高官にのぼった。
散騎侍郎や万歲亭侯やら食邑10000戸は
本人の能力や功績によるものには見えない。
寿春の諸葛誕の反乱(250年代)も
秦涼の羌族の反乱(270年代)
(たぶん樹機能のこと)も
司馬亮はいいとこなしで罰を受けるけど
ほとぼり冷めた頃にまた復職する。
後者の戦で、派遣した二人が
怖気付いたせいとはいえ、結果的に
胡烈を見殺しにしちまったのは
大変いただけない。
お陰で関中方面の
西晋の統治は完全に麻痺、
対応は後手後手に回ってしまい、
文鴦や馬隆の活躍で
平定に279年までかかった。
步闡の降伏については
すでに羊祜伝で触れました。
陸抗が鮮やかな采配見せた反面
羊祜はいいとこまるでなし、降格。
孫呉は陸遜・歩騭・顧雍らへんが
丞相になってますが
歩騭の家だけ断絶に。
西晋の時代は
孫秀(司馬倫の部下じゃない方)、
周処、陸機、陶侃らを見るに
江南の出身者はハブられてる感が強い。
東晋はホームが呉会に移ったため
南人に気を遣わざるを得なくなってくるが
中原の人たちからの差別感情や
対立は依然としてあったらしい。
「晋陽秋」にいう、
呉人は中州(中原)人を「傖」と謂っている。
陸機は左思を「傖」と呼んでいた。
宋の孝武帝が群臣を比擬した際
王玄謨を目にして「老傖」といった。
陸玩伝でも、彼が中原出身の王導を
「傖鬼」などと呼んでる場面があり、
(王導んちの乳製品食ったら腹を壊したらしい)
南北の融和の道は遠そうだね。




