二、蜀征伐、洛陽奪還
2.
起家佐著作郎,以家貧親老,求為小邑,出補瀏陽令。太守陶侃請為參軍。庾亮代侃,引為征西主簿,轉參軍。時丞相王導執政,亮以元舅居外,南蠻校尉陶稱讒構其間,導、亮頗懷疑貳。盛密諫亮曰:「王公神情朗達,常有世外之懷,豈肯為凡人事邪!此必佞邪之徒欲間內外耳。」亮納之。庾翼代亮,以盛為安西諮議參軍,尋遷廷尉正。會桓溫代翼,留盛為參軍,與俱伐蜀,軍次彭模,溫自以輕兵入蜀,盛領贏老輜重在後,賊數千忽至,眾皆遑遽。盛部分諸將,並力距之,應時敗走。蜀平,賜爵安懷縣侯,累遷溫從事中郎。從入關平洛,以功進封吳昌縣侯,出補長沙太守。以家貧,頗營資貨,部從事至郡察知之,服其高名而不劾之。盛與溫箋,而辭旨放蕩,稱州遣從事觀采風聲,進無威鳳來儀之美,退無鷹鸇搏擊之用,徘徊湘川,將為怪鳥。溫得盛箋,復遣從事重案之,髒私鋃籍,檻車收盛到州,舍而不罪。累遷秘書監,加給事中。年七十二卒。
(訳)
平民から佐著作郎の官に就いたが
家が貧しく親が老いていた事から
小さな邑への赴任を求め
転出して瀏陽(長沙郡の劉陽県?)の
令に補された。
太守の陶侃の要請で参軍となった。
庾亮が陶侃に代わると
招引して征西主簿とし、参軍に転任した。
当時は丞相の王導が執政しており
庾亮は元舅として外部に居していたが、
南蛮校尉の陶称がその間に讒構したため
王導と庾亮は頗る疑心を懐いて反目した。
孫盛は密かに庾亮を諫めて言った。
「王公の神情(態度)は明朗闊達で
常に世俗の外に心を向けており
どうして凡人のする事を肯じましょうか。
これは必ずや邪佞の徒が
内外の仲を裂こうとしたものです」
庾亮はこれを納れた。
庾翼が庾亮に代わると
孫盛を安西諮議参軍とし、
やがて廷尉正に遷った。
ちょうど桓温が庾翼に代わり
孫盛を留めて参軍に任命し、
俱に蜀を征伐した。
軍は彭模に宿次し、
桓温は自ら軽兵をもって蜀へ入り、
孫盛は残りの老兵や輜重を統領して
後方に在った。
賊の数千が忽ちに至り
部衆はみな惶遽したが、
孫盛は分かれた諸将を部べ
協力してこれを拒いだため
賊は即刻敗走した。
蜀が平定されると、
安懐県侯の爵位を賜った。
累進して桓温の従事中郎に遷った。
入関に従って洛陽を平定し、
功績によって昇進して
呉昌県侯に封じられ
転出して長沙太守に補された。
家が貧しい事から頗る稼穡に励み、
部従事が郡に至った際にこれを察知するも
彼の高名にしたがって弾劾する事はなかった。
孫盛は桓温に手紙を与えたが、
「州は従事を派遣して風声を
観察、採取させておりましたが、
進んでは威鳳(瑞鳥)が
ご来迎なさるような美しさがなく、
退いては鷹鸇(猛禽類)が
羽ばたいて撃つようなはたらきもなしに
湘州を徘徊していて、
まるで怪鳥のようでしたな」
と、いう風に辞旨は放蕩であった。
桓温は孫盛の手紙を得ると
再び従事を遣わし、重ねて
悪口や私的な狼藉について勘案させ、
檻車に収監されて孫盛は州へ到ったが
捨てられて罪には問われなかった。
累進して秘書監に遷り
給事中を加えられた。
七十二歳で卒した。
(註釈)
起家して著作郎になったが
家が貧しいので小邑の長官に
なる事を求めた。
瀏陽は長沙郡の劉陽県の事だと思われる。
その後、張昌や蘇峻を破った
名将陶侃の要請で参軍となる。
陶侃は334年に76歳で亡くなり
庾亮が後任となる。
陶侃の子の陶称が讒言して
庾亮と王導の間に釁隙を生じさせたが
孫盛が庾亮を諌めたため大事には至らず。
庾亮が340年に52歳で亡くなると
弟の庾翼が後任となる。
庾翼が345年に41歳で亡くなり、
後任の桓温が346年末に
蜀征伐の兵を挙げ、孫盛も従軍する。
347年にスムーズに平定。
孫盛は安懐県侯となる。
「蜀世譜」によると、孫盛はこの時
成都で劉備の曽孫に出会ったのだという。
桓温は354年に北伐を始める。
前秦に打撃を与え
356年8月には洛陽を一時的に奪回する。
孫盛は呉昌県侯となり
(呉昌県も長沙郡に属す)
長沙太守となった。
貧乏だった経験から
お金稼ぎに執着するようになり、
荊州刺史も兼ねていた
桓温から調査が入ったが
名声があったために弾劾できない。
孫盛は桓温に手紙を送ったが
かなり失礼なことが書いてあったので、
再度悪口狼藉を徹底調査され、
孫盛は護送車に乗せられて
連行されたが、それでも不問になった。
出世を重ね、72歳まで生きた。




