十九(王浚伝)、名誉回復?
19.
太元二年,詔興滅繼絕,封沈從孫道素為浩領公。卒,子崇之嗣。義熙十一年,改封東莞郡公。宋受禪,國除。
(訳)
太元二年(377)に詔が下され
断絶していた家系は復興した。
王浚の従孫の王道素が
封じられて浩領公となった。
卒すると、子の王崇がこれを嗣いだ。
義熙十一年(415)に
東莞郡公に改封された。
宋(劉裕の国)が禅譲を受けると
国は除かれた。
(註釈)
東晋の末期になってから
縁族が再度公に封じられた。
石勒に潰された影響で、少なからず
「石氏に立ち向かった晋の忠臣」
みたいなフィルターがかかったか。
それは彼にとってイイ事なのかねぇ。
王浚評価。
戦闘 ★★★★★★★ 7
和演を返り討ちにして
(雨が降ってきたのは作り話くさいけど)
鄴にいた司馬穎をボコった。
掠奪や婦女暴行をはたらく鮮卑を
ちゃんと沈静できているので
軍団指揮能力、統制能力は一級。
王弥や苟晞と同じ位でも
いいかなぁと考えたけど
その強さは祁弘や段部に頼る部分が
多かったかも? と判断して★7。
戦略 ★★★★★★★ 7
八王の乱で見せた処世術は見事、
機を見るに敏で、しっかりと
実りだけを手にしている。
段部に抜け目なく取り入ったのもうまい。
幽州に大勢力を築けたのはまぐれじゃない。
自身の実益優先で動くので
并州の劉琨と足を引っ張り合い
結果的に石勒を利してしまい、
最後まで彼の演技を見抜けず敗死した。
石勒が王浚に
笑裏蔵刀計を仕掛けたのは
石勒の母親が亡くなった
すぐ後だったのというのも
なんか意味深だ。
内政 ★★★★★ 5
後半の凋落ぶりが評価に影を落とす。
墓地を破壊する倫理はともかく
灌漑自体は別に悪くないと思うし
利殖やコスト管理には長けていた印象。
人格 ★★★★★ 5
その名声は一時期は轟き渡ったが
やはり終盤の印象がよくない。
「蔵に転がる彭祖の死体」
なんて歌作られちゃう。
.
人傑なのは間違いないんだけど
賛否の分かれそうな王浚。
ピーク時はオール★7で
孫堅孫策級だったと思います。
というわけで、
二代続けて本朝を裏切ってしまった
王沈・王浚伝でした。




