十一・十二(王浚伝)、石勒との戦い
11.
浚還薊,聲實益盛。東海王越將迎大駕,浚遣祁弘率烏丸突騎為先驅。惠帝旋洛陽,轉浚驃騎大將軍、都督東夷河北諸軍事,領幽州刺史,以燕國增博陵之封。懷帝即位,以浚為司空,領烏丸校尉,務勿塵為大單于。浚又表封務勿塵遼西郡公,其別部大飄滑及其弟渴末別部大屠甕等皆為親晉王。
(訳)
王浚が薊へ戻ると、声望や実力は
ますます盛んなものとなった。
東海王の司馬越が大駕を迎えようとすると
王浚は祁弘に烏丸突騎を率いさせて
先駆けとした。
恵帝が洛陽へ回旋すると
王浚は驃騎大将軍・
都督東夷河北諸軍事に転じ、
幽州刺史を拝領した。
燕国を以て博陵の封土に加増した。
懐帝が即位すると王浚は司空となり、
烏丸校尉を拝領した。
段務勿塵は大単于となった。
王浚は一方で上表して
段務勿塵を遼西郡公に封じ、
その別部の大飄滑、及び
その弟の渴末、別部である大屠甕らを
皆親晋王に任じた。
(註釈)
司馬穎は恵帝を連れて
洛陽へ、そして長安へと逃れたが
長安軍閥に統制権を奪われ失脚。
東海王の司馬越が
恵帝の奪還に動き出すと
王浚は部将の祁弘を遣り
これをサポートさせた。
烏丸突騎の破壊力は
光武帝の時代に呉漢や耿弇、景丹が
示したとおりである。
恵帝は洛陽へ帰還がかなったが
同年内(306)に崩御。
新たに懐帝が立てられた。
司馬越的には
神輿でいてほしかったのだろうが
懐帝は存外にも主体性を見せ始め
やっぱりしっくり行かなくなる。
一方の王浚は、八王の乱で
ほとんど損害を被らずに
実りだけを手に入れてる印象。
12.
永嘉中,石勒寇冀州,浚遣鮮卑文鴦討勒,勒走南陽。明年,勒復寇冀州,刺史王斌為勒所害,浚又領冀州。詔進浚為大司馬,加侍中、大都督、督幽冀諸軍事。使者未及發,會洛京傾覆,浚大樹威令,專征伐,遣督護王昌、中山太守阮豹等,率諸軍及務勿塵世子疾陸眷,並弟文鴦、從弟末柸,攻石勒于襄國,勒率眾來距,昌逆擊敗之。末柸逐北入其壘門,為勒所獲。勒質末柸,遣間使來和,疾陸眷遂以鎧馬二百五十匹、金銀各一簏贖末柸,結盟而退。
(訳)
永嘉年間(307〜313)に
石勒が冀州へ侵攻すると
王浚は鮮卑の段文鴦に石勒を討たせ、
石勒は南陽へ走った。
明年、石勒はまたも冀州へ侵攻し、
刺史の王斌が石勒の為に
殺害される所となったため
王浚が再び冀州を領した。
詔が下され、
王浚は昇進して大司馬となり、
侍中、大都督、督幽冀諸軍事を加えられた。
使者が及ぶ前に
ちょうど洛京が傾覆してしまい、
王浚は大いに威礼を樹てて
征伐を専らとし、
督護の王昌、中山太守の阮豹等に
諸軍及び段務勿塵、世子の段疾陸眷、
並びに弟の段文鴦、從弟の段末柸を
率いさせ、襄国の石勒を攻撃した。
石勒は部衆を率いて
防衛に出てきたが、
王昌が逆撃してこれを破った。
段末柸は北方へ逐って
その砦の門に入ったが
石勒の為に捕われた。
石勒は段末柸を人質に
使者を間に遣わして和睦を求め、
段疾陸眷はかくて
鎧馬二百五十匹、金銀各一簏で
段末柸を買い戻し、
盟約を結んで退却した。
(註釈)
司馬越と苟晞に叩きのめされた筈が
匈奴漢の傘下に入って
割りにすぐ復活した石勒、
漢の尖兵として各地を転戦。
石勒はHPが1から減らない
アンデッド属なので
一回撃退したはずが、翌年には
冀州刺史を討ち取ってたりする。
匈奴漢に洛陽長安が落とされ
石勒は江南から戻ってきたあたりで
冀州の襄国に拠点を構える。
中央政権の失脚から
戦事の独断専行をはじめた王浚は
段部を動かして石勒討伐に乗り出し、
石勒が「こんなん呉起でも無理だろ」
と漏らしたほどの苦闘が始まる。
張賓と孔萇の策を容れた石勒は
主軸の段末波を速攻で捕えて
和睦を結ぶことで
ギリギリ生き残った。
石勒は段末波を解放して
段疾陸眷に賂を贈ったので
この二人は石勒に靡いた。




