十(王浚伝)、幽州支配
10.
及趙王倫篡位,三王起義兵,浚擁眾挾兩端,遏絕檄書,使其境內士庶不得赴義,成都王穎欲討之而未暇也。倫誅,進號安北將軍。及河間王顒、成都王穎興兵內向,害長沙王乂,而浚有不平之心。穎表請幽州刺史石堪為右司馬,以右司馬和演代堪,密使演殺浚,並其眾。演與烏丸單于審登謀之,於是與浚期遊薊城南清泉水上。薊城內西行有二道,演浚各從一道。演與浚欲合鹵簿,因而圖之。值天暴雨,兵器沾濕,不果而還。單于由是與其種人謀曰:「演圖殺浚,事垂克而天卒雨,使不得果,是天助浚也。違天不祥,我不可久與演同。」乃以謀告浚。浚密嚴兵,與單于圍演。演持白幡詣浚降,遂斬之,自領幽州。大營器械,召務勿塵,率胡晉合二萬人,進軍討穎。以主溥祁弘為前鋒,遇穎將石超于平棘,擊敗之。浚乘勝遂克鄴城,士眾暴掠,死者甚多。鮮卑大略婦女,浚命敢有挾藏者斬,於是沉于易水者八千人。黔庶荼毒,自此始也。
(訳)
趙王の司馬倫が位を簒奪するに及び
三王が義兵を挙げると、
王浚は部衆を擁して両端に挟まり
檄文を遏絕(遮り止める)して
その境内の士庶を義に赴かせぬよう仕向けた。
成都王の司馬穎はこれを討とうとしたが
その暇がなかった。
司馬倫が誅殺されると
昇進して安北将軍を号した。
河間王の司馬顒・成都王の司馬穎は
兵を興して内へ向け、
長沙王の司馬乂を殺害したが
王浚は平伏する意思を持たなかった。
司馬穎は上表して
幽州刺史の石堪を右司馬とし
右司馬の和演を
石堪と交代させるよう要請し、
密かに和演に王浚を殺させて
その部衆を併呑しようとした。
和演と烏丸の単于である審登はこれを謀り
こうして王浚とともに期して
薊城南の清泉水上に遊旅した。
薊城内に西へ行く二つの道が有り
和演と王浚はそれぞれ一道に従った。
和演は王浚と鹵簿(隊列)を合わせ
そこで彼を図ろう(殺害しよう)としたが
あたかも天よりの暴雨に直面し
兵器が濡れてしまったため
果たせずに帰還した。
単于はこれに由り
その種族の者と謀って言った。
「和演は王浚殺害を計画しており
事はほとんど成功しかけていたが、
天は怱卒と雨を降らせたため
果たさせなかった。
これは、天が王浚を助けたという事だ。
天に違えば吉祥はなく、
我には、久しく和演と
共同することはできぬ」
かくて、謀を王浚に告げた。
王浚は密かに兵を連ねて
単于とともに和演を囲んだ。
和演は白旗を持って
王浚を詣で、投降しようとしたが
とうとうこれを斬って
自ら幽州を領した。
大いに器械が設営され、
段務勿塵を召したうえで
胡族・晋人合わせて二万人を率い
軍を進めて司馬穎を討った。
主簿の祁弘を前鋒に据え、
平棘で司馬穎の将・石超と遭遇したが
これを撃破した。
王浚が勝ちに乗じて鄴城を落とすと
士人部衆は暴掠をはたらき
夥しい死者が出た。
鮮卑は大いに婦女をおかし、
王浚は敢えて私蔵する者があれば
斬るとの命を出し、
こうして易水の八千人を沈静した。
黔庶(庶民)の荼毒は
これより始まったのである。
(註釈)
グダグダの八王の乱。
司馬倫が簒奪すると
司馬冏・司馬穎・司馬顒の三王が動く。
暗愚から暗愚にバトンが渡ったため
「じゃあ俺も」「いや俺が」
「それなら俺も」となってしまった感。
王浚のもとに檄文が届いたが、
彼はこれを握り潰して
人的資源があっちに
流れていかないように計らった。
うちの父ちゃん(王沈)も
いよいよとなったら魏を切ったし
沈みかけの船から脱出するのは
割に当たり前やろって思ってそう。
王浚を危険視した司馬穎は
右司馬の和演を幽州へ遣り、
彼を殺そうとする。
和演は烏丸の単于と共謀して
計画を実行に移すが、
突如の大雨に見舞われて失敗。
単于はこの事から
「天命が王浚にあるのでは?」
と考え、寝返る。
かくて幽州は王浚の手に落ちた。
蕩陰の戦いで朝廷軍を破り、
皇太弟となった司馬穎だが
鮮卑や烏丸の協力を得た王浚軍団に
こてんぱんにされ、
司馬穎が頼みとしていた
劉淵には離石で独立されてしまう。
司馬穎がやがて失脚すると
復権を名目に公師籓が挙兵。
この下にあの石勒がいた。
王浚は司馬穎をボコった余勢を駆り
鄴を落としたが、ここに
大規模な掠奪が展開された。
民衆にとっての地獄がここから始まった、
とわざわざ書かれている。




