一・二、滅子奉公
第六十三巻より
上司が石勒に殺されまくるけど
反抗を続ける邵続伝。
1.
邵續,字嗣祖,魏郡安陽人也。父乘,散騎侍郎。續樸素有志烈,博覽經史,善談理義,妙解天文。初為成都王穎參軍,穎將討長沙王乂,續諫曰:「續聞兄弟如左右手,今明公當天下之敵,而欲去一手乎?續竊惑之。」穎不納。後為苟晞參軍,除沁水令。
(訳)
邵続は字を嗣祖、魏郡安陽県の人である。
父の邵乗は散騎侍郎であった。
邵続は朴素で烈しい志操を有し、
経史を博覧しており、
善く理義について談論し
天文の理解に明るかった。
当初は成都王・司馬潁の参軍となり、
司馬潁が長沙王・司馬乂を
討とうとした際、邵続は諫言した。
「続は、兄弟は左右の手の如くと
聞き及んでおります。
今、明公は天下の敵に当たっておりますが
片腕を取り去ろうとなさるのですか?
続は密かに、この事に当惑しております」
司馬潁は納れなかった。
その後、邵続は苟晞の参軍となり
沁水の令に除された。
(註釈)
邵続も八王の乱に巻き込まれた一人。
上司がだいたい石勒にやられてしまう
可哀想な役回りの人です。
成都王・司馬穎は、武帝の子。
曹操が五箇所に分けていた匈奴を
一箇所に集めてしまうという
結構な暴挙をやらかして
劉淵に独立のきっかけを
与えてしまった。
司馬穎がコケた後は
「屠伯」こと苟晞の部下になった。
県令に任じられた沁水県は
司州河内郡に属する。
苟晞のホームも河内郡の山陽県。
苟晞は司馬越の侍中から
司州陽平郡の太守、行兗州刺史、
(左遷されて)領青州刺史。
官渡で汲桑・石勒に勝利したが
蒙城で石勒と再戦、敗れた。
更に謀反を起こそうとして落命。
2.
時天下漸亂,續去縣還家,糾合亡命,得數百人。王浚假續綏集將軍、樂陵太守,屯厭次,以續子乂為督護。續綏懷流散,多歸附之。石勒既破浚,遣乂還招續,續以孤危無援,權附於勒,勒亦以乂為督護。既而段匹磾在薊,遺書要續俱歸元帝,續從之。其下諫曰:「今棄勒歸匹磾,任子危矣。」續垂泣曰:「我出身為國,豈得顧子而為叛臣哉!」遂絕於勒,勒乃害乂。續懼勒攻,先求救於匹磾,匹磾遣弟文鴦救續。文鴦未至,勒已率八千騎圍續。勒素畏鮮卑,又聞文鴦至,乃棄攻具東走。續與文鴦追勒至安陵,不及,虜勒所署官,並驅三千餘家,又遣騎入抄勒北邊,掠常山,亦二千家而還。
(訳)
当時、天下は漸次に乱れ始めており
邵続は(沁水)県を去りて本家へと帰還、
亡命者を糾合して数百人を得た。
王浚は邵続を
仮の綏集将軍・楽陵太守として
厭次に駐屯させ、
邵続の子の邵乂を督護とした。
邵続は流民を安んじて手懐け、
多くの者が彼に帰順した。
石勒は王浚を破ったあと
邵乂を帰らせて邵続を招いた。
邵続は孤立無援の状況にある事から
石勒に附く事を権り、
石勒の方でもまた邵乂を督護とした。
既に段匹磾が薊にあり、
書状を遣わして邵続とともに
元帝(司馬睿)へ帰順する事を要請してきたので
邵続はこの提案に従った。
その配下が諌めて言った。
「今、石勒を棄てて段匹磾に従えば
任子(人質の邵乂)が危ういのでは」
邵続は涙を流して言った。
「我が身を投げ出すは国の為、
どうして子を顧みて
叛逆の臣となれようか!!」
遂に石勒との関係を断ち、
石勒はかくて邵乂を殺害した。
邵続は石勒が攻めてくる事を懼れて
先ず段匹磾に救援を求め、
段匹磾は弟の段文鴦を救援に遣わした。
段文鴦がいまだ至らぬうちに
石勒は已に八千の騎兵を率いて
邵続を包囲していた。
石勒はもとより鮮卑を畏れており、
段文鴦が至った事を聞くと、そこで
攻具を破棄して東へ逃走していった。
邵続と段文鴦は
石勒を追撃して安陵まで至ったが
追いつく事ができず、
石勒の署した官吏を虜とし、
並びに三千余家を駆逐した。
一方で騎兵を
石勒領の北の辺境へ侵入させ
常山を掠奪し、
ここでも二千家を奪い返した。
(註釈)
情勢悪化、司州河内郡から
冀州魏郡まで戻った。
その後王浚の承制(?)で
冀州楽陵国の太守となり
厭次県に駐屯した。
314年に王浚が
石勒の笑裏蔵刀計の前に敗れる。
石勒の母の王氏がもしも
太原王氏だったとしたなら
王浚が油断するのも当然よね。
王浚敗死のあと、邵続は
楽陵で石勒の奇襲を見破って
大破したが、子の邵乂が
石勒に捕まってしまったようで
やむなく石勒に帰順。
その後、段匹磾のすすめで
東晋に向かう。
息子の命よりも
国家への奉公を選んだのだ。




